手相

 朝の星座占いが、私の一日を決定づける。だから占いを見るチャンネルは、サイコロで出た目で選ぶようにしている。アトランダムにし、あくまで自分の意思を介在させないためだ。どんなに運勢が悪くとも、他のチャンネルの占いに切り替えたりはしない。そのようなことをしたら、一層悪いことが起きるような気がしてならない。

 ただ、その日の運勢はあまりにも悪すぎた。運勢的な悪さはもちろんのこと、自分にとってあまりにも都合が悪かったのだ。ちょうど仕事で大きなプレゼンが控えている。ここでしくじれば、来る査定の結果に大きく響くのは察することができた。結果を捻じ曲げたくも、今から放送局にクレームを入れて占いを変えさせることなどできない。転がったサイコロを恨めしく思う。出た目のせいにできるのは、自責にしないための一つの回避策でもある。

 今日さえ乗り切ることができたらそれでよかった。星座占いのコーナーが終わったので、私はテレビの電源を切った。小学校の授業、社会の教科書の豆知識コーナーに書いてあった、秀吉の手相の話を思い出した。マスカケ線の長さが、その人物の将来に大きく影響するという。自分の掌を眺めてみるも、特段それらしき線は見当たらなかった。これは、悪い運勢になるのも無理はない。キッチンで自炊用に買った一本きりの包丁を手に取った。掌に縦線を入れれば、今日のプレゼンを成功させることができるだろうか。最悪だった星座占いの結果を覆せるだけの運勢の変化をもたらすことができるだろうか。掌の痛みは相応の覚悟が必要だったが、不安に脳を埋められていては、冷静な判断ができようはずもなかった。しくじって恥をかいて、皆に失望される将来をこそ、私は避けたかったのだ。

 掌に包丁を立てるようにし、線を引く。じんわりと掌が熱を持つ。感情線まで差し掛かったところで、小さく「イテッ」と声が聞こえた。私の声ではなかった。もっと甲高い、カートゥーンアニメのキャラクターのような声。驚いた私は包丁を掌から離し、あたりを見回した。一人暮らしの狭苦しい部屋には、存在が隠れられるところこそ少ない。包丁を手に持っているという安心感もあって、私の呼吸はすぐに落ち着いた。声の出どころはすぐに見つかった。私の掌、そこに深く刻まれている皺が、うねうねと動き出したのだ。私の手相は、口を形作って、パクパクと動かした。

「傷つけるのだけはやめてください。助けてください。お望みの形があるのでしたら、私が形作って見せましょう」

 手相はそう言うと、私が引こうとしたマスカケ線を鮮やかに引いて見せた。手相が口を利いたことに対する驚きは、マスカケ線の鮮やかさに飲まれて消えた。私は、私の心の内から重苦しい鉛色の不安がどっと薄れていくのを感じた。この後のプレゼンがすべてうまくいくように思えたし、朝の星座占いの結果など、もうどうでもいいように感じていた。今なら天下でも取れそうだ。それほどまでの自信、エネルギーが、私の中で熱となって渦を巻いた。

 私は手相と契約を結び、彼の存在を脅かさない代わりに私の望む手相にしてもらえるよう交渉した。心なしか背筋も伸びたようで、私はその日のプレゼンをつつがなく終えることができた。

 手相との日々は、その後も続いた。私の運気がよく回ることで私の手相はより濃く、強くなっていく。それが彼の目的にも合致するようで、私たちはよい利害関係者となった。星座占いは見なくなった。どれだけ悪い結果であろうとも、手相の運気を上げることで打ち消しできるとわかったからだ。私と手相は旧来の友のように仲を深め、お互いの利益のために行動した。

 私の人生はかつてないほどにうまく回り始めていた。運勢ばかり気にしていたのも、これまでの人生が満足いかないものだったからだろう。星座占いのみならず、手相すらも気にならなくなり、自分に自信を持てるようになった。

「そろそろ頃合いだろう」

 手相は誰にでもなくそう言った。私は意図を確かめるために、彼の存在を確かめた。深く刻まれた、様々な幸運の相。どれだけ私の心を落ち着かせてくれただろうか。ただ、一番大事なものが、そこにはないように感じた。親指を包むように存在した生命線が、どこを探しても見つからなかった。

「目的は果たした」

 気分が悪くなった。不安、自分の行く先や将来の不透明さや、自信が持てないことに対する不安ではなく、体調不良だ。頭の血管が切れたかのように、ふらふらと中心線を保っていることが難しくなった。私は平衡感覚を失って床に突っ伏した。ちょうど出先で、周りを取り巻く皆々が私を見ているのが分かった。恥ずかしい。

 視野がぼやけて、体の何か所かがじんじんと熱くなった。心臓の鼓動が次第に早まって、言い知れぬ吐き気に襲われた。

「さよならだ」

 両掌から、するすると糸のような物体が抜けていった。それは私の手相だった。手相を成していたものだった。私を支え、竹馬の友として友好を築いてきた彼だ。

 そのシワは、手のひらを離れて、路上を歩いて行った。成熟した寄生虫が宿主の腹を突き破って出てくるように。私は私が単に利用されていたに過ぎないことを知った。

 新たに生まれた生命は、形成される人ごみの合間を縫って、排水溝へと消えていく。私には、私の将来のみならず、彼の行く先さえもわからない。

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