チャップ・ブック

ちい

金魚掬い

 恋せざるを得ないような、魅力的な人だった。僕の夢の中にだけ現れる彼女は、僕の理想のすべてをその身に宿している。ひと目見るだけで僕の関心は彼女に引き付けられ、この世界のすべてを投げ打ってもよいと思えるほどに夢中になった。

 夢というのは現実の端緒を寄せ集めて作られているものだが、現実のどこにも、彼女の面影を見つけることはできない。行きつけの喫茶店、空きコマに立ち寄る図書館、バイト先にたまにやってくる同級生も、彼女につながるいずれも持ち合わせていない。僕が彼女に会うためには眠るほかなく、夢を少しでも長く楽しむための工夫はいくらでもした。

 昼過ぎに仮眠をとっても、彼女に会うことはできない。夜の決まった時間だけが、彼女に会える時間だった。僕が彼女を思うゆえか、見る夢も彼女に関連づいたものに限られていった。僕にとっては何より都合がよい。

 寝る前にはリラックスして一日の不安や悩みを吐き出し、理想的な状態で彼女に会えるようにする。彼女の顔はいつも朧気で、その存在すらも雲をつかむように掌の隙間を潜り抜けていく。それでも会うたびにひとつひとつ、彼女にかかった薄もやは途切れていき、僕の想いは一層彼女に引き寄せられていく。彼女と少しでも一緒にいられるならば、僕は現実を犠牲にしたっていい。睡眠薬にも頼って、夢を見られる時間を少しでも伸ばそうとした。

 そんなある日、彼女から頼みごとをされた。想い人に頼られてしまっては、応える他ない。曰く、夢から出してほしいとのこと。閉鎖された夢という空間から抜け出して、僕がいるような現実の世界に出たいというのだ。僕にとっても願ってもないことで、彼女がそれを願ってくれたことが何よりうれしかった。

 僕は、必死に夢から人を連れ出す方法を調べた。現実的に考えて不可能であろうことは前提にあったが、それでもなお、あきらめることはできず、インターネット、文献を徹底的に調べて回った。大学の友人にも訳を話して手伝ってもらった。昔からオカルト趣味のある奴で、適任だと思ったのだ。だが、彼をしても、そのような方法は見当もつかないと言う。幸いにも大学の蔵書が充実していたので、授業も蹴って彼女を外に連れ出す方法について調べた。暗くなるまで大学の図書館で文献を読み漁り、家に帰ってからはインターネットでページをめくり、寝ては彼女と過ごす日々が続いた。

 どこぞの誰とも知れない個人ブログで、ようやく方法を見つけた。呪術まがいの怪しい話で、実現可能性が本当にあるのかはわからない。ただそれでも試す前に投げ出してしまうのは、楽しみに待っている夢の中の彼女に申し訳なかった。

 僕は親身に相談に乗ってくれていた大学の友人を家に招き、赤ワインの瓶で殴った。油断していた友人の体はいとも簡単に頽れて、もう二度と声は聴けないだろう。友人の血が絨毯に染みたが、ワイン瓶も同時に割れて中身が飛び散ったため、彼の血だか、ワインだかがわからなくなった。芳醇な香りが、僕の鈍った感覚をさらに鈍らせる。

 割れてとがったワイン瓶の切っ先を、自分の頭にも突き刺した。雷で刺されたような痛みが頭のてっぺんから足先まで走って、脳がゆらゆらと揺れた。血が垂れて、友人の血と、そしてワインと混ざった。意識を失うわけにはいかなかった。夢の世界から出てくる彼女の姿を、僕は見届けなくてはならない。

 赤い液体が静かに脈打って、彼女の形を形作る。彼女の質量が増すにつれ、自分の体が軽くなっていくのを感じる。二人では足りなかっただろうか。倒れたままでは、彼女の表情を覗くことはできない。

 どうやら、最後まで行く末を見守ることは許されないらしい。彼女がいなくなった夢の中へと手招かれている。

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