口笛を吹く夜
どこかから、口笛の音色が聞こえた。茂みからそっと体を起こすと、草と体の擦れる音が口笛をかき消す。もう一度息をひそめて、じっと耳をそばだてる。口笛の音色は顕在で、その事実が心を穏やかにする。
音の聞こえるほうへと、体を差し向ける。草葉に擦れるこそばゆさも、とうに慣れてしまった。音色を手放さぬように、自分から出る音は少しでも減らさなくてはならない。踊る心の音が外に顕れてはいないかと恐れる気持ちも、また一つの雑音にしかならない。音のありかは自分一人のものにせねばならず、この細い細い糸を手放してしまうことも許されない。一筋の光をなぞるように、体を滑り込ませていく。
住宅街の一軒家の一つから、音は聞こえているようだった。その居所を示すように、部屋に明かりがついている。電灯の明かりと混ざりあわない暖色の光は、ぬくもりすら錯覚させる。庭先まで手入れの行き届いたところを見るに、住人の中にガーデニング好きがいるのだろう。犬は飼っていないようだった。薄暗い中にも色とりどりの花々が、自由気ままに己の領土を主張していた。
正面からノックを叩いても誰も応えることはなかった。いつも通りのこと。だからやむを得ず、雨どいを伝って音の聞こえる部屋を目指す。二階くらいなら忍び込むのは容易いものだ。細長い体は、こういう場面でこそ活きてくる。慣れた手つきでするすると雨どいを上り、光と音の指し示すところを目指す。期待で踊る胸の音が心地よいリズムのようで、体をするすると動かした。一日の疲れなんて微塵も感じなかった。ただ見えているのは行く先だけ。
窓から部屋を覗くと、年端もいかぬ少年の姿が見えた。不十分に閉められたカーテンの隙間。明日の学校の準備をしながら、彼は口笛で音色を奏でている。入浴は済ませたようで、毛先がほのかに湿っていた。火照って上気した頬は、熱を感じさせた。ずっと外にいて、冷え切ってしまった体が引き付けられるのを感じた。彼ならば、自分を受け入れてくれるに違いない。
そう考えて、窓を開けた。二階ということもあって油断していたのだろう。窓は何の抵抗もなく開いた。隙間から、体を滑り込ませる。少年は、すぐに存在に気づいてくれたようだった。丸い目をさらに丸くして、こちらを見ている。
一言三言挨拶をした。あっけにとられた様子でいる少年は、ただこちらに危害を加える様子は見て取れなかった。そのことに安堵しつつ、友好を深めるために手を差し伸べる。恐る恐る、彼も手を差し伸べた。今度こそはうまくいったようだ。そう心を落ち着けたのも束の間、階段を駆け上がってくる足音が響く。
現れた男は、こちらに危害を加える意思であふれていた。悲しくも窓枠に戻り、またするりと外に体を押し出した。広い庭にぼとんと体が落ちた。心の痛みに比べれば、体の痛みなどさしたる大事ではない。もともと自分がいた茂みへと、ただひたすらに体を動かした。追いかけてくる様子はなかった。窓をきつく締める音が聞こえて、自分を強く拒絶されたようで悲しかった。呼ぶ声がしたから、赴いただけなのだ。だのに、なんて身勝手なふるまいだろうか。
草むらで呼吸を落ち着けて、また地を仰いで湿った土の匂いを嗅いだ。先刻のぬくもりが、まだ体のどこかに残っている気がした。
寂しさを紛らわすように口笛を吹いた。ただ誰も、ここには来てくれない。また次の音色が聞こえるまで、ここで待っている他ない。
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