第5話 言葉を売った男

 しばしの沈黙に、まるで部屋の時間が止まってしまったようだった。しかししっかりと壁掛け時計の秒針は時を刻んでおり、怜はこの何とも言えない時間が進んで実感していた。そして、怜の口がゆっくりと動き出す。


「言葉を……」


 はい? と聞き返す関。怜はそれに怯むことなく、腹を括った様相で続ける。


「言葉を、買い戻させてくれないか」


 ほう、と関が感心の声を上げた。


「構いませんが、資金はあるのですか?」


 もっともな疑問である。何せ怜はお金に困ってこの店にやってきたのだから。しかし、怜は自信ありげに言った。


「売ったときのお金なら、まだほとんど残ってる」


 関は目を丸くした。そして、すぐさま口元が緩み、にやにやと怜の顔を舐めまわすように見る。


「……それじゃあ、全ての言葉をお返しすることはできませんねえ」


「は……?」


 怜は確実に取り戻せる、全て上手く行くと思い込んでしまっていた。だが、それは間違いだった。間抜けに口を開ける怜に見かねた秘書が理由を簡潔に話す。


「売値と買値が同じ価格、ということは資本主義社会の上ではあり得ません」


 そして、鼻で笑って関が続ける。


「買い取ったものをそれより高く売らなくて、我々はどこから利益を得ればいいんですかね?」


 怜はぎりりと歯を食いしばり、関の顔に殴りかかりたくなるのを抑えて、訊く。


「……全部でいくらだ」


 即座に秘書がタブレットの画面を叩く。


「全部で――およそ四百七十万円程度でしょうか」


 怜はへなへなと膝から崩れ落ち、俯いて呟いた。


「……そんな……そんなに持ってない」


 関に見下ろされる怜。わざとらしい同情の声色で、関は言う。


「そうですか、それは残念でしたね」


「どうにか……! どうにか、ならないのか……?」


 関のデスクに縋り、怜は涙ながらに懇願する。関は一切表情を崩さず、怜の顔をじっくりと見て、言った。


「どのような言葉をお売りになっても、言葉屋は一切の責任を負いません」


   *


 数か月が経った。

 その部屋は相変わらずうっすらとカビの臭いがする。その臭いを逃がすかのように、扉が開け放たれた。


「入るぞ」


 荻原の声。


「おう」


 それに呼応するのは、部屋の住人、怜である。怜は椅子に座り、じっくりと本を読んでいた。机の上には、辞書などの本が幾つか積み上がっている。

 荻原は手に下げたコンビニ袋を部屋の片隅に置くと、怜の正面に腰掛け、話題を振る。


「結局、全部は買い戻さなかったんだよな」


 怜は荻原に全て打ち明けたのだった。言葉屋のこと、白柳のこと、そして、自分のこと。


「ああ。だからこうして勉強してるんだろ」


「それにしても、人の言葉を売買してる店があるなんて、驚いた」


 苦笑う荻原。つられて怜も笑う。


「ヤバいと思わなかった俺もどうかしてた」


「本当だよ、このバカ」


 二人は笑い合い、コンビニ袋からコーヒー缶を取り出す。缶の蓋を開け、飲み口に唇を近づけて、そのまま怜は言った。


「まあでも、こうして言葉を取り戻す方法が見つかってよかったよ」


 先に一口飲んでいた荻原が、喉を鳴らしてから言う。


「すげーシンプルだけどな。覚え直すって」


「まあな。最低限必要そうな言葉だけ五十万円分だけ買い取って、あとはひたすら覚える作業……」


 それを聞いた荻原は、うへぇと顔をしかめた。


「そんな顔になる気持ちも分かるよ……。でも、案外楽しかったりもするんだ」


 怜の穏やかな顔を見て、荻原のしかめっ面がいつもの調子に戻る。


「そっか」


 ふと、荻原は怜の机の上に一枚の手紙があるのを見つけた。


「……? これは?」


 怜はそれに目を遣り、そして感慨深そうに答える。


「ああ、それは白柳の遺書、らしい」


「遺書……」


 手紙を手に取り、宛名を見た荻原はそのまま読み上げる。


「『最期に救う誰かへ』……もしかして、漆原宛か?」


「そうらしいな。……ただ、言葉を失う前に書いてたものみたいで、今の俺にはちゃんと読めそうにないんだよ」


 俯き、声色が曇る怜。本を持つその手は、少し震えているようだった。それを見た荻原は、できるだけ明るく努め、


「じゃあ、俺が噛み砕いて読んでやろうか?」


 と提案した。怜は嬉しそうに笑ったあと、少し考えて、言う。


「……いや、できるだけ自分の力で読みたいから」


「そうか……なら、なおさら勉強頑張らなきゃな!」


 元気に笑い、怜の背中をバシっと叩く荻原。怜を元気付けたいのが本人にもしっかり伝わったようで、怜も笑う。


「そうだな。……ところで荻原」


「ん?」


 怜は辞書の中身を指さし、荻原に見せる。


「この『極楽』って言葉の意味が、よく分からん」


 荻原は、少し固まったあと吹き出して笑った。


「『極楽』? うーん、なんて言うかなあ……」


 顎に手を当て、考える荻原。やがて何か閃いたように手を叩き、怜にこう提案した。


「じゃあ、今から体感しに行くか! 極楽」


「は?」


 困惑する怜の手を引き、玄関に向かう荻原。


「いい温泉知ってるんだよね」


「温泉? 温泉が関係あるのか?」


「入ってみりゃ分かるよ」


 玄関を開ける。その日はよく晴れていて、出かけるには十分すぎる陽気だった。


   *


 晴れていると、そこは思ったより明るくなる。

 言葉屋。そこは言葉を売り買いできる不思議な店。


「……彼は、言葉を再び覚え直すことがどれだけ大変なことか、分かっているのかね。もう脳機能も子供並みじゃない」


 資料に『売却者リスト』の文字。怜の名前を撫ぜながら、関は呟いた。


「……今回の一件で、彼は変わることができたでしょうか」


 ファイルを捲りながら、秘書が言う。関は秘書を一瞥し、そして資料を手元に置いて語り出した。


「言葉とは、財産だ。だからこそ取引する価値がある。その財産で、彼も自分の人生を取り戻すことができれば、あるいは。ただね、東屋あずまや君。私たちに他人の人生を詮索する権利などないよ」


「……そうでしたね。申し訳ございません。……コーヒーを淹れてまいります」


 東屋、と呼ばれた秘書は、店内の片隅にある給湯室に這入っていった。

 傾いた日差しが、店内をオレンジ色に彩る。扉が開く音がした。


「おや、新しいお客さんですか。いらっしゃい。……言葉をお売りになりたいと?」


                               終

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