第4話 人を形作るもの

「……彼女が遺体で見つかったんです。ここから一番近い海岸沿いで」


「――は?」


 怜は、それ以上言葉が出てこなかった。


「警察では入水自殺の線で捜査していまが、念のためこうして聞き込みをしております」


 弓野の言葉は聞こえているが理解できる状態ではない怜。目が眩み、頭を振るわせて正気を保つ。


「ちょっと待って……ください。状況がよく……」


 無理もありません、と弓野はフォローを入れ、手帳を開き話し出す。


「捜査の結果、彼女が亡くなる直前に会っていたのが、漆原さんであることが判明したので、こうしてお話を伺いに来ています。安心してください、あなたを犯人だと思ってはいませんよ」


 じわじわと怜の頭に、目の前の刑事が言っている内容が入ってくる。そして、それに比例するように怜の心は絶望に侵されていく。


「あいつが……死んだ……?」


 怜の問いに、弓野は真っ直ぐだったその瞳を伏せながら答える。


「……はい。四日前の未明、遺体で発見されました」


「……そんなはずはない」


 間髪入れず、怜は震える声で、弱々しく反論する。


「あの日、あいつは俺の言葉で救われたはずだ……!」


「しかし――」


「だって」


 弓野の言葉は遮られ、怜の感情的な声色に塗り潰される。


「だって彼女はあんな顔をして――あれ? ……どういう表情だった?」


 怒りの混じった怜の表情は、途端に不安げな表情に変わる。


「……? そもそも俺は彼女になんて言ったんだっけ……?」


「漆原さん、落ち着いて」


 徐々に息が乱れる怜を、弓野は制す。それに呼応するように、怜は大きく深呼吸した。


「……たしかに、一週間ちょっと前に会った」


 ふむ、ほ一息置き、弓野は聴取を継続する。


「そのとき、自殺をほのめかすような言動はありませんでしたか?」


 自殺、という言葉に些か動揺を見せるも、怜は冷静さをできるだけ保ちながら答える。


「……死ぬつもりだ、と言っていました」


「……なるほど」


 弓野は手帳にペンをを走らせる。外から聞こえる雨音と、ボールペンの球が回ってインクを出す音だけが、部屋に響く。


「で、でもッ、俺がそのときに話を聞いてやって……たぶん、解決したはずなんです!」


 怜はギリギリで保っていた冷静さを乱し、弓野に再び制された。


「漆原さん。彼女が亡くなったのは事実です。お気持ちはお察ししますが、どうか落ち対いて」


「……すみません」


 怜は飼い主に怒鳴られた犬みたいに縮こまり、大人しく弓野の話を聞いた。


「それで、もう少しお話をお伺いしたいのですが、漆原さんと白柳さんのご関係は」


「いや、本当にたまたま知り合っただけで……今思うと、どうして俺に話しかけてきたのかもよく分かんなくて」


 しばらく怜に対する聴取は続き、十数分で弓野は怜の玄関を後にした。その頃には、雨はすっかり止んだが、どんよりとした雲は未だ町の空に立ち込めていいた。


   *


 曇天の言葉屋は、外からの光が乏しく、薄暗かった。関と秘書は以前と何ら変わりなく、そこにいた。


「いらっしゃいませ」


 店に這入った怜を丁寧に出迎える秘書。関も続いて、いらっしゃい、と言った。


「漆原さん。今度はいかがなさいました?」


 怜はつかつかと無言の圧を放ちながら関の目の前まで歩み寄る。関は動じることなくどっしりと椅子に腰かけていた。


「彼女は……白柳水緒は一体、どれくらい言葉を売っていたんだ」


 不気味な微笑みを崩さぬまま、関は口を開く。


「あー、白柳さんの件は本当に残念です。ここにも警察の方がいらっしゃいましたよ」


 その言葉に怜は苛立ち、関のデスクを力強く叩いて叫んだ。


「いいから質問に答えろ! あいつはどれだけ言葉を売ってたんだ」


 すぐさま秘書が二人の間に割って入る。


「そのような質問は個人情報になりますので、お答えしかねます」


「言葉屋では、売却可能上限金額が設けられているんですが……その上限まで、お売りになられましたね」


「関さん」


 秘書が関に何か言いたげにしていたが、すぐに弁えた。そしてデスクの資料を捲りながら、関は話を続ける。


「白柳さんの元の語彙数が――約四万語で、言葉屋はまあ、三万語以上買い取らせていただいてます。ですので、彼女はあなたと出会った時点で、語彙数が一万を切っていたことになりますね。これは、小学六年生並みの語彙力といったところでしょう」


 それを聞いた怜は、全身の力が抜けていく。


「小学生並み……俺の言葉は、これっぽっちもあいつに伝わってなかったってか……」


 自嘲気味に笑い、手を額に当てて項垂れる怜。


「自殺を止められなくて、悔やんでいるのですか?」


 怜は答えられなかった。咄嗟に、ではなく、根本的に。


「ああ、『悔しい』という言葉も売ってしまったのですか」


「……ああ、みたいだ」


 秘書が一歩前に出て、静かに言う。


「彼女……せめて『助ける』という言葉さえ売っていなければ、誰かに『助けて』と言えたかもしれませんね」


 そんなことを言ったって、もう遅い。怜の心は名前の分からない感情に支配され、目元に名付けようのない涙が滲んでいた。そんな怜の姿を見て、関は言う。


「漆原さん、あなた、白柳さんを亡くして、今どんなお気持ちですか?」


 聞かれて、やはり怜は答えられなかった。頭でいくら考えても、ぼんやりとした何かが蠢いているだけで、何も口に出せなかった。


「……漆原さん、私は忠告……あー、アドバイス、したはずですよ。売る言葉を選ぶ際はくれぐれも慎重に、と」


 関はわざとらしい呆れ顔で怜を見た。そして、秘書が続ける。


「言葉屋は『必要のない言葉』をお売りいただけるサービスです。漆原様は――」


「『必要な言葉』まで売ってしまったようですね」


 関のとどめに怜は何も言えず立ち尽くす。

秘書は資料を読みながら、突然単語を羅列し始めた。


「『尊厳』『後悔』『思い出』『恋』『葛藤』『苦悩』『信頼』『幸福』『情熱』『自負心』『いたわり』『愛』……その他、様々な『生きる上で重要な言葉』をお売りになられてます」


 それを聞いた怜は困惑し、そして関は溜息を吐いた。


「……漆原さん、あなた、人間は何によって形作られていると思いますか?」


 怜は少し考え、そして自信なさげに言った。


「えっと、タンパク質と水と」


 言い終わる前に、関は怜を止めた。そして、たった一言、言った。


「言葉です」


 怜は、言葉? と疑問形で復唱し、続きを待つ。


「音楽や映画。マンガ、小説。テレビやインターネット。母親が赤ん坊に語る言葉。友との語らい。傷つけられた言葉。嬉しくて涙した言葉。そういう言葉たちが積み重なり、人間は形作られる」


 関は淡々と、しかしはっきりと言葉を並べる。そして、秘書が口を開く。


「言葉がなければ存在しない概念があります。会話でなければ成立しない人間関係もあります。私たち人間は、言葉の上に成り立って生きているのです」


 そして、と関が再び口を開く。


「これまで積み重なった言葉たちが、私たちのこの先の行く末を決定づける」


 言葉屋は異様な空気に包まれていた。ただただ、関と秘書の言葉が、その空間を完全に支配していた。そして、怜はその空気の中、やっと口を開く。


「……でもそれは、言い過ぎじゃ」


 だが、その反論もことごとく打ち砕かれた。


「あなたは、これまでどんな人生を歩んできたか、今この場で言えますか?」


「それは……」


 言えなかった。今の怜には、これまでの人生を言葉にすることが叶わなかった。


「これまでの人生もろくに語れない人間が、これからの人生を切り拓くことが、果たしてできましょうか」


 答えられない怜の代わりに、秘書が口を開く。


「白柳様も、これまで積み重ねてきた言葉を手放さなければ、言葉によって違う未来を切り拓くことができたかも、しれませんね」


 怜は二人の演説に心を打たれるも、それでも、言いたかった。


「……無責任すぎる。買い取ったのはお前たちだろう」


「言葉屋は、あなた方がどのような言葉を失おうと責任は負わないと言ったはずです」


 関の堂々たる宣言に、怜は何も言えなかった。

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