第3話 思い出せない何か
一週間があっという間に過ぎた。怜と白柳はあれから会うこともなかった。
怜は考えていた。あのファミレスで込み上げてきた自分の気持ちを何と言葉にすればよかっただろう。自分自身でもそれが分からない気持ちが、果たして彼女に、白柳に伝わったのだろうか。
……いや、きっと伝わったはずだ。
怜は自分を言い聞かせるように、頭の中で反芻する。そう、白柳は最後、「生きたい」という希望を目に灯していたはずなのだ。言葉にしたくったって分かる。そう言葉などいらない。人間とはそういう生き物のはずだ。
そう考えながら、怜は言葉屋に向かっていた。
「おや、漆原さんでは。いらっしゃい」
関の歓迎に、怜は無言で答える。そして、借りていたタブレットを秘書に手渡した。
「売りに来た」
そう言って、怜は言葉屋二人の顔を見る。
二人は、静かに頷いた。
*
四日後。
怜はカビの臭いがうっすらと残った自室の、ボロ椅子に座って考え事をしていた。そう、言葉を売ってしばらく経つが、何か不便があっただろうかと考えていた。結論として、今のところ、怜は何も不便を感じていなかった。たしかに、身の回りに知らない言葉が増えた気がするが、大抵はすぐにスマホで調べればなんとかなるものだった。
不意に、インターホンが鳴る。
ワンルームなので玄関へのアクセスは最高にいい。
玄関の覗き穴を見ると、そこには怜にとって懐かしい姿が映っていた。
「よう、久しぶりだな」
玄関を開けた途端、その陽気な声が聞こえた。
「おう、
荻原。怜の学生時代の友人で、メガネキャラの常識を覆す、底抜けに明るい男である。五年ぶりに会ったばかりだというのに、無遠慮に部屋に入り込んでくる。そこがこいつのいいところなんだけどな、と怜は誰に対するでもなく心の中でフォローを入れた。
「どうだ、あれから元気にやってるか?」
ありふれた問いだったが、怜と荻原にとって、最初の話題には相応しかった。本当にお互いの、大袈裟に言えば消息すら知らなかったのだ。辛うじて解約せずに済んでいたスマホの古い連絡先に掛けてみたら、荻原の声が聞こえたとき、なぜだか怜は泣きそうになってしまった。
「まあ、元気にやってるよ。やっと金の心配もなくなったところで」
「そうか、元気ってんならそれが一番だな」
言いながら、部屋に一つしかない椅子に腰かける荻原。客なんだから当然だろ? と冗談めいた顔で怜を見た。
「あー、今、こんなんしかなくて」
昨日箱で買った缶コーヒーを一つ手に取り、荻原に手渡す怜。荻原はさんきゅ、と受け取り、手の中で転がした。
「……そういえば学生の頃さ」
荻原がふと口を開く。古い友人が揃えば、昔話が始まるものだ。荻原が次の言葉を発する前に、怜は悪ふざけで口を挟んだ。
「お前が学祭で女にフラれたって話か?」
聞いた瞬間、荻原は吹き出しで笑った。怜も釣られて笑う。
「その話はやめとけって」
「分かったよ」
お互いの笑いが静まって、さあて次は何を話すかなと怜が考え始めたときに、再び荻原の方から切り出された。
「そういや覚えてるか? 高二の頃、お前が俺に相談してくれたこと」
怜は思案するも、すぐに思い当たらず肩をすくめた。
「お前が部活でいじめられてて、部活辞めたいって話、帰りの駅のロータリーで三時間も聞かされたんだぞ、忘れるなよ」
笑いながら言う荻原を見て、怜もその出来事を思い出した。今思えば、なんてことない些細な言葉によるいじめだったが、十代後半の多感な時期にはこの世の終わりに思える悲惨さだった。
「そんでお前が辞めてやる! って決断したとき、なんてて言ったか覚えてるか?」
怜は答えられなかった。いや、もう少し時間があれば答えられたような気がしたが、荻原はその猶予をくれなかった。
「覚えてないのかよ! ま、俺も覚えてないけど」
「覚えてないのかよ」
こいつといると、ツッコミだけは早く出てくるな、怜は自嘲した。
「でもさ、まあお前が伝えたかったことは覚えてるよ。あんときさ、『こいつ、大人になっていくんだな』って、同い年なりに思ったんだよ。なんか、お前だけ勝手に先に行っちゃうようなさ」
「……そうか」
怜の心に、もやりと何かが立ち込める。
「あん時に感動っつーかさ、お前の信念とか生き様みたいなのは、未だに忘れられねえんだよな」
心がぞわぞわと違和感を察知して、それが怜の体に現れる。
「……うん」
その消え入りそうな声色に、荻原は敏感に気が付いた。
「どうした?」
しかし、まだ怜はこの違和感をただの思い違いであると信じたかった。自分は、正常であると。何も問題は起きていないと。
「……なんでもない。大丈夫。水差しちゃってごめん。で、なんだっけ」
荻原は首を傾げつつも、その言葉を信じて話題を続けた。
「そうそう、大学の学祭でもお前との思い出あるよ。ほら、サークルの出店、場所悪すぎて全然売れなかったろ?」
覚えている。怜はその話を、鮮明に覚えてるのだ。
「最終的に二人で走り回って宣伝して、時間ギリギリで完売! あのときの達成感、半端なかったよなー」
ここだ。脳内に霧がかかっているような……ピントがズレて何も映し出せていないような、そんな感覚が怜を襲う。
「そんな……ことも、あったな……」
絞り出す声。
「懐かしいな」
怜は声だけでなく、自分の手も震えていることに気が付いた。そして、やっと自分自身がおかしな状態に陥っていることを自覚する。
「……ごめん、ちょっと」
項垂れた怜は、荻原の話を止めた。
「え?」
なんだっけこれ。この感じ。
必死に自分の頭を整理する怜。荻原が自分の方を叩くのも無視して、考える。
「どうしたよ?」
あのときの気持ちが……荻原が語ってくれたときの考えが――。
「……言葉にできない」
「なんだよ? 言葉にしなきゃわかんねえだろ?」
「あん時の気持ちが……出てこない」
それが、今の怜に言える精一杯だった。
そして、できることもこれだけだった。
「すまん……帰ってくれないか」
「え、なんでだよ」
怜の突然の要求に困惑する荻原。
「ちょっと、一人にさせてくれないか……頼む」
その怜の姿を見た荻原は、すぐに何かを察して、頷いた。
「お、おう。分かったよ……何かあったらいつでも言ってくれよ?」
「……ああ、ありがとう」
言葉を絞り出した怜は、ワンルームでアクセスのいい玄関から、出て行った。
部屋には怜、たった一人である。
おかしい。何なのだ。思い出を、出来事そのものを思い出せないわけじゃない。ただ、そのときの感情が、気持ちが、思考が、思い浮かばないのだ。
怜は頭を抱える。
先程まで快晴だったはずなのに、外から雨音が聞こえてきて、それが怜にとって耳障りだった。
「ダメだ……全部思い出せない」
子供の頃の思い出。
部活の大会で成し遂げたこと。
友人と語り明かした夜のこと。
恋人との、思い出。
ただただ、録画されたデータのように、出来事としてしか思い出せない。
その瞬間、感じたことも、学んだことも、知った痛みも、全てが失われていた。
怜は机に突っ伏し、頭を抱える。黙りこくって何度かその頭を机に強く打ち付けた。額の痛みは痛みでしかなく、ただただ沈黙が流れるのだった。そして、インターホンの音がその沈黙を不意に破った。
ふらりと立ち上がった怜は、覚束ない足取りで玄関に向かう。扉を開けると、そこには、真っ黒なスーツ姿の女性が、凛々しく立っていた。
「……誰」
「漆原怜さんで、間違いありませんか?」
配慮の行き届いた声色とテンポで、すらりと言葉を並べる女性。怜は小さく、はいそうです、と答える。すると女性は上着の胸ポケットから手帳を取り出し、几帳面に、怜の顔と水平になるようにそれを掲げた。
「神奈川県警察の
怜は訝しみながらも、とりあえず承諾する。
「で……なんですか」
その問いに、弓野は先程の手帳から一枚の写真を取り出して、怜に見せながら答えた。
「この、白柳
聞き覚えのある苗字。そして、写真には、怜がつい数日前に出会った女の子――白柳が写っていた。
「か、彼女がどうかしたんですか」
「ご存知なんですね?」
弓野が食い気味に怜に詰め寄る。
「は、はい。でも会ったことがあるのは一度だけで、フルネームも今知りました」
そうですか、と弓野は言い、そして既に真面目な顔つきが、さらに神妙になり続ける。
「……彼女が遺体で見つかったんです。ここから一番近い海岸沿いで」
「――は?」
怜は、それ以上言葉が出てこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます