第2話 ごめんとありがとう

 言葉屋からの帰り道、怜と白柳は近くのファミレスに立ち寄った。寂れた商店街に隣接しており、さらに今日が平日であることも助けになってか、客はちらほらとしかいなかった。


「結局、言葉売ることにしたんですか?」


 怜の正面に座る白柳は、頬杖をついて問うた。怜は溜息を吐いて答える。


「話聞いてなかったのか? まだ売ると決めたわけじゃない。とりあえず見積もってみるだけだ」


 白柳の相槌が止まる。怜は不思議に思い、白柳の顔を見た。すると白柳は口を開く。


「みつもる?」


 その疑問は純粋に、そして真っ直ぐに怜に飛んできた。


「……売ったらいくらになるか、確認してみるんだよ」


 何か引っかかることがあっただろうか。それとも、ただの悪ふざけだろうか。怜には、白柳が出した疑問符の意図が分からなかった。


「あー、そっか……ところで怜さん。仕事なにしてるの?」


 白柳は態度を百八十度綺麗に半回転させ、にこりと笑って質問を投げた。


「いきなり下の名前かよ」


 悪態をつく怜と裏腹に、白柳は笑顔を保ったまま、返事を待っていた。その明るい雰囲気に負け、怜は素直に答える。


「……先月バイトをクビになった。これから仕事が見つかるまで、死ぬほど退屈な日々が続くんだよ」


 そう、そして恋人まで失った。自分は空っぽの心を満たす水を探しているような感覚だったから、白柳についてきたのかもしれない。なんて運命めいた戯言を怜は考えた。


「ふーん。でも私はなにもない暇な日っていうのも、好きだったな」


 笑顔は崩さず、声色は変わらず、それでもなんだか目の色が寂しくなったのを、怜は見逃さなかった。だから、はっきりと言った。


「そんなのは、毎日が充実してる人だけが言える、特権みたいなものだ」


 沈黙。

 白柳のその顔が、どんな感情なのか、怜には汲み取ることができなかった。ただ、異論はなかった。気まずくなった怜は、言葉屋から受け取ったタブレットを弄り、先程店員が丁寧に運んできたティーカップを無造作に啜る。


「……五十音順なのか」


 画面には、ずらりと言葉たちが整列されており、一つ一つに値段が書かれている。


「感動詞の『ああ』が十円……英語で『目』の意味の『アイ』が四百円……英語は少し高いのか? 『愛』……三……万!? これだけ桁違いじゃんか」


 徐々に声を荒げていく自分を、子供を見るような目で見る白柳に気づき、怜は咳払いをした。


「盛り上がってるね」


「……いやまぁ、言葉屋の人が言ってた通りだなって……ていうかお前、いつの間にかタメ口」


「そうだった? 最初からだった気がするけど」


「いや、絶対最初は敬語だった」


「まぁいいじゃん。細かい男は嫌われるよ」


 白柳の悪戯っぽい表情につられてムキになってしまったことを自覚した怜は、頭をぐしゃぐしゃと掻き、項垂れる。何を年下相手にマジギレしそうになってるんだと己を恥じる。


「あーあー、うるさい。てかタメ口とか敬語とかどうでもいい。つーかファミレスまでついてきてるのも何でだよ」


 そう訊いて、初めて白柳の表情が沈んだ。


「……一人は寂しい。暇つぶし。いいでしょ? お金は出すから」


 その表情は、ただ寂しいというより、どこか諦めの感情を孕んでいるようで、怜は文句を言う気もなくなった。


「分かった。勝手にしてくれ。……正直、ここで金出してくれるのは助かるし」


 白柳はまた、小さく首を傾げた。その意味が怜にはやっぱり分からなかったが、訊くことはなかった。今日で何度目かの沈黙が流れ、白柳がそれを破った。


「そういえば、なんでお金に困ってたの?」


「は?」


 怜は素っ頓狂な声で聞き返してしまった。白柳が、先程の雰囲気とは打って変わって、元のテンションに戻ったからだ。


「あんなに怪しいお店に入っちゃうなんて、よっぽどだったんでしょ? なんでそこまでお金がなくなっちゃったのかなーって」


 それはごもっともな疑問だ、と怜は思った。ごもっともだが――


「誘ったお前が言うか」


 えへへ、と白柳は悪戯がバレた子供みたいに笑う。


「……まぁ、仕事がなかなか続けられないタチでね。何をやってもすぐに挫けちまう。何をやっても続いて三か月。もはやある種の精神病と言ってもいいかもな」


 白柳はもはや癖みたいに首を傾げ、それだけ? と聞いた。


「……まあ、パチンコにも少しハマったな。あと酒と煙草を少々」


 正直に懺悔した。怜としても後ろめたさを抱えながらそれらで色々と発散していた節もあるので、これを機に清めたまえ神よ、白柳よ、とふざけて心で唱えるのだった。


「あーあー、それじゃあお金もなくなっちゃうね」


 ハッキリ言われ、懺悔したばかりなのに腹が立ってしまう怜。


「うるさい。というか、お前こそなんであんな店を知ってるんだよ。あそこで働いてるって風でもなかったろ」


 これは本当に、純粋な疑問であった。なぜこんな成人式をこれから控えていそうな女の子が、あんなにも怪しい店を知っており、はたまた店からも知られていたのか。


「あー、それはまあ、色々ありまして……」


「その『色々ありまして』の『色々』を聞きたいんだが」


 そう、自分は白柳という女性のことを何一つ知らない。ついさっきまで散々質問責めを受けておいて、そのままじゃあまりにも不公平だ。そう思い、怜は多少強引に深入りしてみた。


「さっきも言ったでしょ。細かい男は嫌われるよ。特に私に」


「お前が俺を嫌うおうと知ったこっちゃない」


 悪戯な表情を尻目に、今度は俺の番だと言わんばかりに怜は強気に出る。


「冷たいなあ」


「俺も少し自分のこと話したんだ。『色々』聞かせてくれないか」


 ついに白柳は両手を上げ、降参の意を示した。そして、ゆっくりと口を開く。


「……お金に困ってたの」


「まあ、そうだろうと思った」


 言葉を買えるほど裕福そうには見えなかったので、直感的に売る方だろうと思っていた怜は、自分の勘が当たっていたことを内心、誇った。


「なんでお金困ってたかって言うと、私には父親がいなくて、母が一人で私を育ててて」


 つまり片親である。そんな一言で済む説明を、白柳は丁寧に説明した。その丁寧な説明に、怜は丁寧に相槌を打つ。


「お母さん、すごく辛そうなんだ。私がバイトで稼いだお金じゃ、足しにもならないくらいのお金をいろんなところから借りてるし。……私を育てるお金も必要だったし」


 ちぐはぐな説明は、徐々に力を失っていく。


「だから私」


 絞り出すそうな白柳の声に、怜は耳を傾ける。続く言葉を聞き逃さぬよう、注意を払って。


「自分の言葉を売って、そのお金をお母さんに渡して――死のうと思ってる」


 聞き間違えたと、怜は自分を疑った。

 そんなはずはない。笑って、自分を苛つかせて、そして笑わせるようなこんな子が、自殺志願者であるわけがない、と言い聞かせ、白柳の言葉を待つ。


「お母さんには、私が邪魔なの」


 弱くなっていた語気がまた強くなる。これまでの明るい、元気な力強さではなく、何か邪悪な、闇を帯びた声色だった。


「いくつか言葉をうったくらいのお金じゃ、私がいたらすぐになくなっちゃうし……私はお母さんが大好きだけど、お母さんは私のことを好きじゃないみたいだし……」


 怜は続く言葉を言ってほしくなかった。が、その思いは届かなかった。


「私なんて、いっそいなくなった方がいいんだ」


 白柳の目元は潤み、今にも粒が零れそうで、怜は直視できなかった。


「いや、なんでそんな話になるんだ。二人で……頑張っていけよ」


 怜は自分の頭で考えつく、精一杯の言葉を絞り出す。


「頑張った。もう頑張った。限界まで。でも、私たちはもう……歩けないんだ」


 ついに涙を湛えた瞳から大きな粒が溢れ出し、それと共鳴するように白柳の声も震える。


「で、でも、金がなくたって」


「お金がなくても元気があればいい? 元気がなくても生きていればいい? いつか『生きていなくても』なんて言い出しそうだね」


 そう吐き捨て、白柳はファミレスの大きな窓ガラスの向こうを眺める。建物と建物の間から、小さく海が見えた。怜は何も言えず、無機質におすすめメニューを推してくるテーブルを見つめる。


「前の家に暮らしてたとき、『お父さんの好きな海が、窓から小さくみえるでしょ? だからこの部屋に決めたの』って、お母さん嬉しそうに言ってたなあ」


 どこかで聞いたことのあるような感動話に、怜は苛立つ。ダメだ。そんな理由で死んではいけない。どうにかこの女の子を救わなければと躍起になる。


「お母さんの傍にいられなくていいのか」


「いいよ。あの人が好きだった、父さんが好きだった、あの海とひとつになれたら」


 どの言葉も虚しく、白柳の心を通り抜ける。

 怜はそれでも、諦めきれない。白柳を止めるための言葉を絞り出す。


――あなたの言葉って、重みがないよ。


 沙耶の言葉が怜の脳裏を過る。

 重みがあってもなくてもいい。今は、とにかく伝えなければ。怜は勢いよく立ち上がり、声を張って訴えた。


「いや待て。やっぱり死ぬのなんて間違ってる! 少なくとも、俺より君の方が希望はある。君が死ぬ必要があると言うなら、俺の方がよっぽど死んだ方がいい!」


 周りの客たちの視線などどうでもよかった。ただ怜は、その言葉を目の前の小さな女の子に伝えるのに必死だった。

 目元が赤くなった白柳は、そんな怜を見上げる。


「どういうこと?」


「俺は俺の人生を諦めきってた。愛する人すらいない。目標もない。ただ自堕落に、目の前のちゃちな欲求だけ満たしてきた人生だ」


 そうだ。分かっていた。分かっていて、自分は逃げてきたのだ。


「俺以上に救いようのない人間なんかいない! 上を目指す気概も、下を蹴落とす活力もない。生きた屍だ。今回言葉を売ったとしても、どうせパチンコか何かに消えるのがオチだ」


 そして、それを分かっていながら直そうともしない自分がいることも、怜は分かっていた。


「怜さん……」


「それに比べて君はどうだ。愛する人もいる。その人生を幸せにするという義務もある。先を見据え、他人を労わる選択ができる。そんな人間が死なないといけなくて、俺みたいな人間が生きてるなんて……理不尽だろう」


 怜がそこまで叫んだところで、第三者が口を挟んだ。それは白と黒の制服に身を包んだ、この店の店員だった。


「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、大きな声での会話はご遠慮ください……」


 怜は我に返り、すみません、と気まずそうに席に座った。


 店員がバックルームに戻るのを見届けた二人の間に、沈黙が走る。そして、何を言おうか少し迷って、白柳が口を開いた。


「ごめん、怜さん……ありがとう」


 そう言った白柳は、何もなかったかのように席を立ち、財布から二人分のお金をテーブルに置いて、立ち去ろうと足を踏み出した。


「なんで」


 怜のその声が白柳の足を止めた。


「なんで死のうと思ってたお前が、見ず知らずの俺なんかに声をかけてこんなことを?」


 その問いに、白柳は笑って答えた。


「……最期くらい、善いことをしてから死にたいと思ってたから」


「……そうか」


 そして、白柳は店から姿を消した。

 怜は、白柳に自分に声が届いたことを願うのだった。

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