第1章 盗まれた令嬢
第1話 翠の眼の令嬢
──今日は、なんだか目が冴える。
壊れかけのボロのベッドの上で目を開くと、屋根裏の壁の小さな窓から差し込む朝日がこの部屋を無慈悲に照らしていた。
屋根裏で寝るようになって、ずっと見続けてきた景色。だけど、今日の日差しはいつにも増して強く感じた。
「眩しい……」
もしかしたら、これは兆し。今日は何かが変わるかもしれない。そう思って屋根裏から降りると、棘のある男の声が私を呼び止める。
「おい」
振り向くとそこには。
サッパリと切り揃えられた、雪原に照り返す日差しのごとき輝きを放つ金色の髪。寒空を固めたような灰色の瞳。それらを支える整ったお顔立ちは決して和らぐことはなく、常に作りものの仮面のように冷たい表情で。
身にまとう水色の礼服には、彼の一族が主君より賜った印である
私を目の前にして、不機嫌そうに眉間に皺をたたえた
「ジョセフィーヌ。どうしてその不愉快な姿を俺に見せる? 今すぐ部屋に戻れ」
ラザール・バルザモ伯爵殿下。お義母様がお決めになった、私の婚約者だ。
「ラザール様……どうしてこちらに?」
「自分の屋敷のどこへ行こうと、俺の勝手。それよりも、お前。今日は部屋から出歩くなと言ったはずだろう?」
「お、お言葉ですが、ここは父の、いや我がカリオストロ侯爵家の屋敷です。なら娘である私が──」
バシン、とラザール様は平手で私の頬を打った。
「黙れ! 俺はお前の婚約者、いずれカリオストロの当主となる人間だ。娶られる者は婚約相手の言ったことに何も言わず付き従う。そんな常識も教わらなかったのか?
それに今日はカリオストロ侯爵の消息について、調査隊より大事な報告会がある。会には大叔母様もいらっしゃるのだから、その
父の消息についての、報告会?
「初耳です……そんなの。それにお義母様もいらっしゃるだなんて」
「別に言う必要もないからな」
「でも、父の消息に関することです。なら当然、娘の私にも参加する権利が──」
「この件は各所と連携して内密に行なっていること。お前のような部外者が顛末を知るのは全てが終わった後でいい」
「でも……」
「聞こえなかったのか?」
ラザール様はギロリと私を睨みつけた。
「また、教育してやる必要があるらしいな?」
発現、と呟いて、彼はその手につける解けることのない氷の指輪を私にかざした。すると、指輪の宝石は淡く光を放ちだし、その手の中には小さな吹雪が巻き起こる。
その
「も、申し訳ございません……」
「ふん」
謝ってみせると、ラザール様は私のことを鼻で笑った。そのお顔はしたり顔で、いくぶんかは満足してくださったらしい。
「いいか? お前のような
また始まった。ラザール様はことあるごとに、私の眼を引き合いに出す。
しかし、ルブロン王に忠誠を誓う生粋のルブロン人貴族である彼にとって、そこに一切の悪気はない。この王国で翠色の眼は不吉の象徴で、悪きもの。ゆえに、その眼を持つ私もまた悪きものなのだから、その言葉を黙って受け入れるしかないのだ。
「まぁ、お前の婚約者だというから仕方なく同じ屋敷で過ごしているが。そもそも、お前と婚約したのは恩義ある大叔母様の勧めがあったからだ!」
ラザール様は聞いてもいないことを、やたらと捲し立ててくる。
──目が冴える。
唐突に襲いきた感覚に、目を瞑る。そして、ゆっくりと目を開くと、彼の胸の奥で感情が煮えたぎっている。見えるはずのないもの。それがはっきり、この眼には
ラザール様が私の婚約者になって、この屋敷に出入りするようになったころから、私は他人の心の中の感情が視えるようになった。この世界に
発動は気まぐれで、私の意思とは関係なしに視えるようになる。特に彼が近くにいると、これがよく起こるが、必ずというわけでもない。
しかし、視えるようになるときは決まって、目が冴える。
「あの、ラザール様。怒って、おられますか……?」
「お前には関係のない話だ! ったく、コソ泥だけでも面倒だというのに、お前の相手なんかしてられないんだよ!!」
ラザール様は気持ちに任せて、思い切り壁を殴りつけた。彼の指輪が眩しいほどに強く輝き、殴った部分は瞬間的に凍結する。腰に下げた宝剣からは、刀身が鞘に収まっているというのに、身も凍りつきそうな冷気が漂っていた。
「俺の悩みの種をお前がどうにかしてくれればいいんだけどな。まぁ、無理だよな。だって、お前の
「……承知いたしました」
発現、『インビジブル』。
彼の気を宥めるため、私は小さな水晶の指輪に
その様を見届けると、ラザール様は足音を立てて行ってしまった。
ふぅ、と、緊張が解けて一息漏れてしまう。それと同時に
今日は直接手を出されなかっただけマシだった。ルブロン王より特別な剣を下賜された七人衆の『
「お嬢様! 大丈夫ですか?」
そんなとき、廊下の向こうから、真っ赤なルビーの髪飾りをつけた、長い黒髪のメイドが走ってくる。
「フミ!」
黒いワンピースの上に、皺一つない長い丈の白いエプロンを身にまとう、長身で嫋やかな私の従者。同じ女の私でも見惚れてしまうような妖艶な顔立ちをして、羨ましくなるほどのプロポーションをしたメイドのフミが私に深々と頭を下げる。
「お嬢様、お辛くはありませんか?」
「ありがとう、フミ。私なら大丈夫です」
「全く、困ったお人ですよ。大切なお嬢様にこんな扱いをするだなんて!」
この家において、ラザール様に向かってそんな口の利き方をするのは、もはやフミくらいなものである。フミは代々カリオストロ家に仕える家の娘で屋敷仕えが長い。それこそお母様が生きていた頃から私の面倒を見てくれている。
だから、屋敷の中でもある程度のことは許される地位なのだが。そんなフミの態度が時折心配になる。
「いいんですよ。私は不吉な翠の眼をした忌子ですから」
「そんなことありません!」
フミはそう言うと、力強く私を抱きしめた。彼女の纏う甘い香りとその大きな胸、そしてポカポカとした温かさが柔らかに私を包む。
「お嬢様のその眼、素敵な宝物です。それと、お嬢様自身も」
フミだけは言ってくれる。私の眼が宝物だと。在りし日のお母様やお父様が語りかけてくれたのと同じ言葉に、思わず涙が溢れそうになる。
「ありがとう、フミ」
私はそっとフミから離れた。フミはまだ不安そうな目でこちらを見ている。そんな彼女に、心配しなくても大丈夫、と私は伝えた。
「しかし、まあ。あのお坊ちゃんも派手にやってくれましたねぇ」
壁を見ると殴った跡はひび割れ、かなりの広範囲が凍ってしまっている。
暴力的なラザール様ではあるが、彼がこれほどに力を振るうのは珍しい。それに、いつも私には暴力をふるうけど、物にあたるような人ではないはずなのに。
「ラザール様、何かあったのですか?」
「それは、恐らく“アルル”の件かと」
「アルル?」
フミは“アルル”という人物について話し出す。
「怪盗アルル、世界を好きに行き来し、あらゆる場所で盗みを働く泥棒。黒のマスカレードマスクとマントでその身を固め、年齢、性別、出白、
「詳しいのですね」
「そりゃ、お嬢様を脅かす敵ですから」
「しかし、それがどう、ラザール様と?」
「アルルは盗みに入る前に必ず予告状を出すというのですが、それがこの屋敷にも届いたのです」
「予告状ですか……」
なんだか不思議なように思う。普通、泥棒は犯行を気づかれないようにするのではなかろうか。それを事前に予告するだなんて、注目してくれと言っているようなものだ。
「変わった人ですね」
「しかし、予告状を出されたら最後、どんな獲物も必ず盗むといいます」
「それで、そのアルルはこの屋敷から何を盗もうとしているのですか?」
「それが、分からないのです」
「分からない?」
「今回届いた予告状は『今宵、カリオストロ家の秘宝を頂きにあがります』とだけ書かれた、今までにないタイプのもの。だから、あの雰囲気坊ちゃんは頭を悩ましているというわけです」
そういうことなら、あの機嫌の悪さにも納得がいく。短気な性分の彼であれば、解決策の見えない難問に行き詰まる中、嫌いな人間を見たら機嫌も悪くなろう。
「それにあの坊っちゃまはアルルを捕まえて手柄を立てようと躍起になっているようで」
「だからですか……」
まさに、プライドの塊のようなラザール様なら考えそうなことだ。それで真剣になるのは構わないが、周囲に当たるからあの人には困ってしまう。
「アルル……果たして何者でしょうか?」
「まぁ、他人のものを盗む、ただの悪人ですよ」
フミは冷たく言い放つ。しかし、“世界を好きに行き来する”、アルルを評するその言葉に私の心は微かに揺れていた。
「でも、私はなんだか羨ましいです」
「どうしてですか?」
「その方はとても自由だから」
「自由?」
フミは首をかしげる。
「実はね、フミ。私はお父様を捜したいの」
「大旦那様を、ですか……?」
「ええ。お父様が遠征中に姿を消してもう五年近く。その間に、この家は大きく変わってしまった。でも、カリオストロ家の正統な当主であるお父様なら、なんとかできるはず。だからなんとしても捜しにゆきたい。だけど、ラザール様が見張るこの家にそんな自由はない」
私はフミの目を見て訴える。
「怪盗アルルは世界を好きなように股に駆け、欲しいものを好きなように盗むのでしょう? なら、その心はきっと何にも囚われていない。そんな自由が私も欲しい」
「お嬢様……」
私の言葉にフミは戸惑う。これを言っても、彼女の立場ではどうにもならないのは分かっている。でも私は、ただ聞いてほしかった。
しかし、どうやら熱くなりすぎたみたいだ。とにかく、とフミは咳払いをして私の話を切り上げた。
「お嬢様の願いは分かりました。しかし、今夜は何が起こるか分かりません。危ないですから、お部屋から出ないのがよろしいかと」
「ええ。そうですね。じゃあ、私はもどります」
私はフミに別れを告げて、屋根裏へと続く階段を登る。その間、階段を一段一段昇るたびに、私はフミの言ったアルルのことを思い浮かべていた。
それにしても。
階段を登る最中、一つの疑問が浮かんでくる。
そんな名の知れた怪盗に狙われるような秘宝なんて、この家にあっただろうか。もしかしたら、お父様なら何か知っているのかもしれない。けれど、私にはとんと見当もつかない。
──カチャリ。
そのとき、首に下げていたペンダントが音を立てて揺れる。大きな翡翠石が目を引く、やや古びたアミュレット。そういえば、これも一族に伝わる大切な宝物だとお母様は言っていた。
でも。まさか、ね。
こんな価値のないものを、予告状を出してまで狙うわけはないだろう。アルルが狙うのはもっと価値のある何かだ。怪盗アルルと、今夜起こることは私に関係ないことだというのは分かっている。それでも、アルルが来ることで、何かが変わることを期待せずにはいられない。
ねぇ、怪盗さん。一目だけでも、会えないでしょうか。
もしも、会えたら──
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