ハロー彗星

貴音真

【1986 ~ハロー彗星~】

「ハロー、ハロー。こちら地球人、応答願います。ハロー、ハロー」

 拾ったばかりの大きなラジカセの様な機械をでたらめに操作しながら少年はひたすら空へ呼び掛けていた。


『ハロー、ハロー』


 それは、孤独な少年の想いが込められた願言ねがいごとだった───



 西暦一九八六年。

 この年、実に七十六年ぶりとなるハレー彗星の接近がメディアを通じて周知されると世間はにわかに騒ぎ出し、彗星にちなんだグッズや雑誌が世を賑わせ、中には歌謡曲の詞に彗星やハレーと言った言葉を用いる歌手なども現れたが、地球と太陽の位置と彗星の軌道が関わる観測条件が整っていなかった為、最接近する時期には夜空を彩るほどの煌めきを放つ筈の彗星のすがたを肉眼で観ることは難しかった。しかし、それでも七十六年ぶりという物珍しさから夜空を見上げて見えない筈の彗星を探す者が多くいた。

 そんな年の四月一日、少年は家族を失った。


 学校がある日はだが春休みになってからは毎日の様に早起きしていた少年はその日もまた早起きし、午前八時前にはリュックサックを背負って友達と共にピクニックへと出掛けた。片道一時間ほどの道程を進み、高台にある公園でピクニックをしながら遊んだ少年が夕方に家へ帰ってくると家の鍵は締まっており、いつもそこにいる筈の母親の姿はどこにもなく、朝食時に「今日は年度初めだから早上がりで三時頃には帰れるよ」と言っていた父親もまだ帰っていなかった。

 父親は何らかの理由があって遅くなっていて、母親は夕食の食材を買いに近所のスーパーマーケットに行っているのだろうと思った少年は、背負っていたリュックサックを家のドアの前に放るとスーパーマーケットへと向かった。しかし、到着したスーパーマーケットに母親の姿はなく、少年は仕方なく今来た道を引き返した。

 家から歩いて十分と掛からない場所にあるスーパーマーケットと家とを往復しているうちに辺りは暗くなり、少年にとってこの日二度目となる帰宅を果たした時には空に月が輝いていた。

 二度目の帰宅時にもやはり母親の姿はなく、既に辺りが暗くなっていた事から少年は動き回るのをやめてドアの前に座って母親の帰りを待った。

 少年は半分だけ顔を出している月が放つ光がなぜか不気味に感じた。


 翌朝、少年は家から十キロ以上も離れた場所にある病院にいた。

 昨夜遅くに少年の家を訪ねて来た警察官が少年をパトカーに乗せて病院へと連れて来たのだが、少年にとって自分がどうやって病院に来たのかなど無意味でしかなく、自分がどうして病院に来たのか、その原因りゆうだけが少年の心を支配していた。

 その警察官は少年を保護する為に少年の家を訪れ、春とは言え寒さの残る玄関先にぽつりと座っていた少年を見つけるとその冷えた体を暖める様に抱き締め、そして告げた。

「遅くなってごめんな。君のお母さんがお父さんを会社まで迎えに行った帰りに二人は交通事故に遭ったんだ。だからここで待っていてもお父さんとお母さんは帰ってこない。俺と一緒に今から病院へ行こう」

 少年はぬくもりの中でやさしく放たれたその言葉を信じようとせず、頑なに家へと留まろうとした。

『お父さんとお母さんは必ず帰ってくる』

 少年はそう信じていた。

 しかし、少年を抱き締めた警察官が少年の母親が持ち歩いていた猫のキーホルダーが付けられた鍵で少年の家のドアの鍵を開けると、少年は子供ながらに『何か』を悟ってパトカーで病院へと向かうことを決めた。時刻は既に午後十時を過ぎており、病院へと向かうパトカーの車内で少年が寝てしまった為に警察官は少年を警察署へと連れて行き、少年はその日、警察署内にある仮眠室で一夜を過ごした。

 そして、目を覚ました少年は夜勤を終えたにも拘わらず少年の心を案じて帰宅せずにいた昨夜の警察官と共に病院へと来た。

 病院に着いた少年が案内された先には白い布で顔を覆われた二体の死体が置いてあり、少年は病院の看護師から『それ』が自分の両親だと教えられた。


 それから一ヶ月後の五月二日。

 身寄りの無かった少年は児童養護施設で保護されていたが三日前に脱走し、あの日友達とピクニックをした高台にある公園にいた。

 時刻は午後七時を過ぎたばかりだったが、前日から降り続けている雨のせいか普段なら夜でも人が歩いている筈のその公園は休日にも拘わらず既に閑散としていた。

「ハロー、ハロー。こちら地球人、応答願います。ハロー、ハロー。こちら地球人、応答願います。ハロー、ハロー」

 少年は拾ったビニール傘の柄を折って地面へと突き刺してパラソルの様にし、その下に大きなラジカセの様な機械を置いて雨水からそれを守り、自らは降り頻る雨に打たれながらそれを続けた。

「ハロー、ハロー。こちら地球人、応答願います。ハロー、ハロー」

 陽が暮れた頃に始めてから既に二時間ほどが経過していたが、ひたすら繰り返される少年の呼び掛けに応える者はなかった。それでもその行為は休むことなく午後十一時を過ぎても続けられ、少年がその行為を止めるよりも先に雨が少年の体を打つのを止めた。

 そして、時刻が午後から午前へと変わった頃だった。

「ハロー、ハロー。こちら地球人、応答願います。ハロー、ハロー」

「……ハロー、ハロー。こちらハレー彗星人、応答どうぞ。ハロー、ハロー。こちらハレー彗星人、応答どうぞ」

 それは、地べたへと直接座っている少年の後方から響いてくる応答の言葉だった。

「……ハロー、ハロー。こちら地球人、応答オーケー。ハレー彗星人、応答どうぞ」

「ハロー、ハロー。こちらハレー彗星人、応答オーケー。用件をどうぞ」

「ハロー、ハロー。こちら地球人、用件は特になし。このまま少しお話を続けませんか?どうぞ」

「ハロー、ハロー。こちらハレー彗星人、お話オーケー。どうぞ」

「ハロー、ハロー。こちら地球人、ありがとう。どうぞ」

「ハロー、ハロー。こちらハレー彗星人、どういたしまして。どうぞ」

 それは、やさしいやり取りだった。

 少年が手元にある機械を操作して『地球人』として『ハレー彗星人』に語りかけるとそれが地球とハレー彗星という異なる星に住まう者同士による会話となり、辺りには少年がでたらめに操作する機械の操作音と『ハロー、ハロー』という挨拶を介して行われる会話が響いた。

 五月二日から三日へと変わった直後から一時間ほど続けられたそのやり取りの中で少年は、自らの両親が亡くなった事が原因で暮らし始めた児童養護施設に入ってからの新たな暮らしについて語ると共に、両親が生きていた頃の家族三人での暮らしについてを『ハレー彗星人』に語った。話を聞いた『ハレー彗星人』は少年を慰めつつ、ほんの少しでも前を向くことの大切さを説いた。

 そして、そのやさしい会話は不意に終わりを告げる時が来た。

「ハロー、ハロー。これが最後のお話です。ハレー彗星人さん、僕はこれからどうしたらいいですか?どうぞ」

「………」

 その問い掛けに『ハレー彗星人』は初めて言葉を詰まらせた。

「ハロー、ハロー。こちら地球人、聞こえていますか?どうぞ」

 少年は今しがた発した自らの言葉が『ハレー彗星人』へと届いていることを知りながら訊いた。

 少年はこの事に関してだけはどうしても返事が欲しかった。

「ハロー、ハロー。こちらハレー彗星人。聞こえています。……地球人さん、もしよかったら今の施設うちを出て俺のうちで一緒に暮らしてみるのはどうですか?どうぞ」

「……ねえ、今のほんと?」

 少年は手元にある機械を操作するのを止め、そして呟く様にしてそう言った。

「ああ、本当だ。大人の事情で今直ぐにというわけにはいかないけどなるべく早く一緒に暮らせるようにする。それにもし一緒に暮らせるようになったら俺、頑張るから。亡くなった君のお父さんやお母さんの代わりにはなれなくても、お兄さんくらいにはなってみせる。これからは俺がいつでも傍にいるから。君は独りじゃないよ」

 その言葉に少年は泣きながら振り向き、そして『ハレー彗星人』に抱きついた。すがりつく様にして抱きつく少年を強く抱き締め返したのはあの日の警察官だった。

 この日、少年は八度目の誕生日を迎えると共に失った家族のぬくもりを思い出した。

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