平和か戦争か〈4〉
「そしてもう一つ伝える事があってだな」
「これは?」
「父上の遺言状だ」
キルデベルトは戦場に赴く毎に、尚書アリアーヌへ自身の遺言状を預けていた。それが今回開くことになったわけである。
「何が書かれていたのですか?」
「二つ。一つは領内の各集落への対応は今まで通り尚書殿とエーギル、それと聖ドミニク城塞の主たるフィリップに任せよとの事だ」
聖ドミニク城塞はグイスガルド侯国の南方、ディジェーニュ公国方面に位置している。侯国内ではグイスガルド城と並んで、規模の大きい城塞である。
ラグナルスもアデライザもそのフィリップという従士の顔は知らないが、守勢において優れた用兵術を用いるとの噂。此度の会戦に備えてほぼ全ての従士を集結させたので、何処かにいるのだろう。
そしてフィリップも含めた三名は税取立てや布告、従士の配置といった細かい作業を分割して実施していたわけである。
両者は視線を合わせると、黙って頷き合う。
ラグナルスもアデライザも遺言に異存は無かった。彼等にはそれをこなすノウハウが無く、そもそもキルデベルトという頭が不在となっただけで、手足が健在ならば弄る必要を感じなかったためである。
「もう一つは?」
「これが難儀な事で…侯国を我ら両侯子に委ねると書かれている」
「それだけでしょうか?」
「ああ、これだけだ」
「…成程、確かに難しい話です」
難しい、というのは従士団の仕組みに帰している。
元々ノルデント人やテウドニアの一部地域で見られた従士団とは典型的な古代男子結社であり、戦士たちの寄合であった。そして従士の中で最も精強であり、実績を挙げた人物が従士団を率いるという、今の王侯貴族が重視する血縁関係や婚姻関係とは程遠い集団であった。
今でこそ改宗によって大陸国家の慣習を受容しつつあるノルデント人であるが、従来的慣習が完全に変化したとは言えない。
今の従士団は、最も貴い血縁者の功績を踏まえた上で、従士らが長として認めるという折衷の形式が採られている。
もし「従士は皆協働して両侯子を助けよ」などの一言でも添えられていれば、幾分かは楽だったのかもしれない。だがそうした文言は書かれていなかった。
「これはどのように捉えるべきであろうか?」
「恐らく忠は故人の言を以て得る事能わず。そのように父上は考えられたのでしょう」
「となると…」
「ええ。兄様の器量が将兵に問われることになるでしょう」
妹の最後の一言にラグナルスは突飛として立ちあがる。
まるで既に誰の手に相続されるかが確定しているかのような言いようは、彼を驚かせるに十分であった。
「父上は此処グイスガルドの地を誰が相続するかは決めていないではないか」
「フラスヴェールの法典に則れば長子相続、兄様が継ぐのが適切でしょう」
「だが其れを従士らが納得するかは別ではないか?」
至極当然といった疑問を妹へぶつける。
フラスヴェールに仕える貴族として考えるなら当然であるが、それに対してノルデントの慣習が合致しているかと問われれば別である。
またラグナルスとしては政務能力においては妹が抜き出ている。拠って自身が妹を補佐するのが適切であり、また他の従士も同じ考えを持っていると考えていたのである。
「兄様。一体全体誰が戦場に立たない臆病者を主君として忠義を捧げようとするのでしょうか?」
「…それは臆病でなく、身体的な、生来のものだろう。仕方のない事だ」
「いいえ。兄様がそう受け取ろうと、他の者が同じように受け取るとは限りません」
それに、とアデライザは言葉を続ける。
「私は表立って皆を導くよりかは裏方から支える方が性に合っています」
「今し方二人でやっていけば良いのでは、と考えていたのだが…」
「一国に二君は不要です。そのような事をすれば、後々の禍となり得ましょう」
「…本当に良いのか?私が立っても?」
「ええ。私は湖面の月を掬おうとは考えません。ですがその月は誰もが羨む理想そのもの。兄様はどうか、いつの日かお掬い下さい」
弱々しい身体から注がれる強い眼光に、ラグナルスはたじろぐ。
だが直ぐに体勢を戻す。
妹の決意を見れば、自身も決意せねばならぬという衝動に駆られたからである。
「この不甲斐ない兄を…よろしく頼む」
こうして彼等の舞台は幕が上がったのである。
――両侯子が亡くなって数世紀以上経過した後年。
アデライザ・グイスガルドの著した日記が文書館の隅にて発見された。
恐らく誰かに見られることを見越して書かれたのだろう、その日のやり取りであるとか心中での思考といった事柄が記載されていた(しかし大部分が散佚している事は注意すべきである)。
その中に「戦場にて主君が矢面に立って陣頭指揮を執ることの何たる愚昧であるか。主君とは後方より家臣を派遣し、全体の統制をするもの。己の生命が絶えた時、それは
常に自らが面に立つべきであると考えていたラグナルスを妹君は内心批判していたのか。
これだけを以て論じることは難しいが、一考に値する記述と言えよう。
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