平和か戦争か〈3〉
使者との面会後、ラグナルスは尚書に託された一通の文書を持ってアデライザの私室を訪ねていた。
「兄様、まだ夕暮れ時の鐘すら鳴っていないのに何用でしょうか?」
「…伝えることがあってな。それで今日は早めに参った」
ふと嗅ぎ慣れない匂いが部屋を充満していることにラグナルスは気づく。
だが何処かで嗅いだことはある。
記憶を手繰り寄せていると、帝都ヴィッセンブルクで女性らが香料として使用していた薄荷の匂いであると思い出す。
ここグイスガルドの香料とは混ぜ物をした、お世辞にも質が良いとは言えないものが主流である。
薄荷は風土的にあまり栽培に適さないため、混ぜることはあれど、それ単体で使われることはまず無い。
しかしそんな事のために来たわけでは無いと、頭から雑念を一蹴した。
「先ず一つ。先程辺境伯殿の使者が参った。講和を望んでいるそうだ」
「それを私に言うということは…」
「そうだ。私の至らぬ点を補って欲しい」
ラグナルスとしては明朝の講和会議に臨むにあたって、アデライザ侯子とエーギルの両名を伴とする事を考えていた。
アデライザには誰もが唸るその深い知見を頼りに。
エーギルには経験に裏付けされた知識を頼りに。
「もちろん身体の調子は承知している。だから無理にとは言わない」
上位身分の女性が魔導の才を見出されて、
王侯貴族に発現しやすいという例に漏れず、アデライザも魔導の才を有している。
だがそれでもこれまで表に立ってこなかったのは、病弱の身であるからであった。
そしてラグナルスはそれを心配した上で、頼んでいるという状況であった。
「…いえ、私も立たねばならないでしょう。既に私たちしか残っていないのですから」
ラグナルスはその言葉に思わず驚いて目を見張る。
「父様が未だ戻られない事。辺境伯殿が講和を提案した事。誰にでも察しはつきます。大方遺体も届けられたのでしょう?」
そうは言いながら、妹も別のことで困惑していた。
アデライザは殆ど理屈でしか物事を考えない者であると自らを捉えている。
兄については、やや理屈らしい面も養われてきたが、他方で情動によって行動を左右される人であると見ていた。
もちろんそれが悪いことであるとは考えていない。
情動というのは人を揺さぶる第一義的要素であるし、時として理屈を上回る理念となり得るからである。
だがそう考えると、今の兄が至極冷静に振る舞うのは可笑しいのである。
「…塩漬けの首が届けられた」
「左様ですか」
まるで寝ぼけた表情で聖書の章句を読誦するような、ひどく抑揚の無い言葉で兄の口から訃報が発せられる。
――しかしそんな折、一つの可能性に思い浮かぶ。
「…兄様、
「…流石だな。そうだ。悲しいと殆ど思えないのだ」
矢張りか。
ラグナルスは父を尊敬こそすれ、あまり親子として接する時間が長いとは言えなかった。父は常に領地や従士らの気配りに終始していた。
それ故にラグナルスは、いやアデライザも含めて、家族団欒の時を過ごしたという記憶を朧げにしか思い出せなかった。
加えてラグナルスに関しては、先月まで帝国に赴いていたのだ。アデライザ以上にその貴重な時は微々たるものであった。
「だがそれ以上に心配していることがあるのだ」
一瞬の沈黙が両者の間に流れる。
だがこの沈黙は両者にとって異なる意味を持つ。
「恐ろしいのだ。私は同様の事がお前の身に起きたとしても、全く動じないのでは無いかと」
一方は古代の暴君が七丘の一つから大火を眺めて放った暴言が如く、心無い事を言う恐れからの躊躇として。
「ならば兄様。為すべき事は決まりきっています。今からその時間を増やせば良いのです」
もう一方は兄の言う事を予測し、それに対する最善の返事を思案する時間として。
理屈の上でも、情動の上でも、最上の一手であろうとアデライザは確信していた。
「…ありがとう。幾許か心が楽になった気がする」
「感謝には及びません。そして、これからはより一層私を助けて下さいね?」
碧眼の瞳に光が戻ったのを、真紅の瞳がしっかりとそれを捉える。
これで良い。
最後に心に訴えかけるように一言添えて、アデライザの作業は完了する。
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