ヘンリク卿〈9〉
一連の戦いが徐々に帝国優勢となっていく。
だが中央のカールマン伯は悦に浸る事なく、ある情景に視線が釘付けとなっていた。
それは最も速く崩壊した右翼。侯国兵士の殆どが倒れ伏せるか捕縛されていく中、ただ一騎にて帝国の追討を逃れようとする者がいた。
その男は、たった今三騎を同時に相手取っても尚互角以上の戦いを繰り広げていた。
伯爵はあの豪傑は何者かと問うと、側の者がエゼルレッドという名であると告げた。
それを聞いたカールマンは歯軋りする。
エゼルレッド。元はしがない一農奴に過ぎなかったが、その名は周辺諸国に轟いていた。
凡そ十年ほど前。
ライネスブルク辺境伯領の北方に位置するツーラン首長国。
その姿は「身の丈二ルーア(近く)の大男。馬上にて剣を振る戦士を素手にて引き摺り下ろし、迫り来る無数の矢を鍬を以て難なく跳ね除けた」、との評であったが、あながち間違いではないのだろう。
尚武の民という言葉が伯爵の脳裏に浮かぶ。
ああいう男こそが模範的なノルデント人なのだ。
というより、ノルデント人は本来粗野にして無知蒙昧であるべきなのだ。
カールマンはそんな事をぼんやりと考えながらも、適当に追討命令を下した。既に勝敗は決していたためである。
しかしこれが達成される事は無く、結局エゼルレッドを取り逃す結果に終わる。
※※※※※※
「これも神へ我らの祈りが届いた結果に違いありません!」
「…左様ですか。我らがこの場に偶然、馳せ参じ得たのも神の御導きによるものでしょうな」
カールマン伯の面前には二人の騎士が立っている。
先頭に立って受け答えしているのが
僅か十四にして精鋭騎士団の頂点にまで上り詰めた男である。
だが兜を脱ぎ捨てた素顔は、既にあどけなさの無い端正で均整の取れたものであった。
そして黒髪黒目の情熱と冷静さを感じさせる人相は、典型的にして模範的なテウドニア人といえよう。
そして
彼女もまだ十六という若者でありながら、
「そう!神は良き信仰を持つ者を見てくださるのです!」
偶々であったことを強調したのにも拘らず、カールマンは聞く耳を持たない。
だがこれでも幾分かマシな方だろう。
極端な話では、過去の信心深い貴族は、文字通り信仰を武器とした兵士をこれまた文字通りの一張羅で戦場に放り出したという。
「捕らえた兵士は如何様にしましょうか?」
「我が軍と同じく全員を捕虜として扱え!後の交渉で役立ってもらう」
騎士の眉がぴくりと動く。
実用的な事由ではあるが、貴賤分け隔てなく捕虜とするのは非常に珍しい。
通常ならば身代金の支払いが見込める王侯貴族、若くは人的資源として重用される魔導兵だけが捕虜として扱われる。
残りは凡そ戦争奴隷として売り飛ばすか、その場で
「団員にそう周知させておきましょう。して他には?」
「そうだな…
伯爵の指差した先はコルネリアが血で赤黒く染まった布包みであった。
「…伯爵殿には他人の魚の腹から卵を抜き取る趣味がお有りか?」
「其方らは我が傘下なのだから其方の武勲は我の武勲であろう!?」
確かにこの場での最高指揮権はライネスブルク辺境伯カールマンに委ねられている。
騎士は徒に事を荒立てるべきではないと考える。
「分かりました。ではコルネリア、伯爵殿にお渡しを」
コルネリアと呼ばれた女騎士は納得のいかない表情ながら、上官の命令だからと包みを差し出す。
それを伯爵が中身を検めると、二度と表情の動かないキルデベルト侯の首があった。両目とも閉じられて、顔に飛び散った血は跡こそ残っているが拭ってあった。
「誇り高き騎士団長ともあろう方が大層苦労したようで…。ところで礼と言ってはなんだが、
伯爵は女騎士に向かって下卑た視線を向ける。
しかしそれは「女性」に対するものでは無く、「容姿」に対してのものであると、彼女と
「パジャヴィール人を側仕えとするのは貴殿の品位を損なうことになりましょう」
「…我ら
「それは勿論。ですが殿下は
一見して慇懃な態度ではあるし、間違った事も言っていない。
だが言外に侮蔑的な感情を含めているのもまた事実。
側のコルネリアが、
そして何かを言おうと前に踏み出そうとするが、それは上位者の言葉を以て中止された。
「伯爵殿。存じないかも知れぬが、
我らは懐刀。指揮権こそ伯爵殿に委譲されているが、陛下の所有する軍の名誉を傷付けるのは、即ち陛下への侮辱に値する。
それが分からないほどカールマン伯も暗愚ではない。
あぁ、と朧げな返事を返すのを聞いてから、騎士はこう続ける。
「私はこれより騎士団の状況を仔細に把握せねばならないため失礼する。我らの進退は後程伺おう」
行くぞ、と女騎士に告げた
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