ヘンリク卿〈10〉
「何と不躾な方でしょうか!そうは思いませんか殿下!?」
「よせ。あれでも幾分マシな方だ」
既に点のようになった伯爵の背を尻目に、コルネリアがその特徴的な目を向けて不平を愚痴る。
コルネリアの持つ
「上には上がいる。あまりそう気を逆立てるような事もあるまい」
「…ですが殿下は先程怒りを露わにされたではありませんか」
コルネリアが起きた事実を述べると、騎士の顔は神妙な面持ちへと変化する。
「…コルネリア。私は貴女に命を救われた身だ。貴女を穢す者が有れば、私は手を汚す事を厭わない。この身は既に貴女に捧げると決意している」
まるで忠誠の儀のようでは無いか。
やれやれ、とばかりに翠の髪先をいじくり回しながら、コルネリアはそんな主君の言動を冗談混じりに諭す。
「シグムント様。此処では団長と副団長の関係。領地に戻れば主君と家臣の関係。如何なる場合でも貴方が上位者なのです。今仰られた事が普遍であるならば、天地がひっくり返る事でしょう」
「ならば天地をも反転させてみせよう。して其方こそ、この場では私を
この慣習は「完全実力主義」という建前上、劣った身分の者が公的に上位者となるのは不味いという理由による。(但し帝国貴族社会においては、団長の正体は半ば公然の秘密と化している)
『ヘンリク卿』は雪と氷が地表を覆い尽くすテウドニア最北部に伝わる伝承である。
没落貴族の出自である旅人の彼は山の奥深くに迷い込んでしまい、女の
彼女は古代の皇帝が所有する財にも匹敵するほどの金銀財宝を隠し持っており、一目惚れした彼に
しかし彼はある一言を以て拒絶する。
「私は貴女を美しいと思う。だがそれでも拒むのは、貴女が私と同じ神を敬わないからだ」
それを聞いて怒り狂った
暫くして
男は谷を降りて丁重に弔った後に下山したが、これが大貴族の耳に入ると聖人の如く素晴らしい行いだと彼を賞賛し、宮廷に招いたと言う。
そしてヘンリクは騎士爵を授かり、民からは敬意を込めて
現在この名は神に忠実な敬虔者にして勇敢。それでいて清貧に生きる者といった意味合いが込められている。
「ええ、ええ。もう何も言いませんとも。あぁ、そういえばですが」
これ以上同じ話題を続けても両者共に気分は上向きにならないだろう。
それに何かあれば、この主君はまた小っ恥ずかしい事を宣うに違いない。
そのように考えたコルネリアは転換する。
「先程あの伯爵が気になる事を言っていましたね。どうやら侯国軍は帝国の三兵戦術を使うとか」
「それは私も気になっていた所だ。何故王国のノルデント人がマクシミリアン2世の戦術を使うのか…?」
女騎士は言っていることが分からないとばかりに首を傾げる。
「マクシミリアン…2世とは?」
「かの常勝帝だ。覚えていないのか?」
「今思い出しました。しかし2世だとか3世だとか。そういったややこしい覚え方をするのは宮廷の年代記作家か在野の好事家だけで結構です」
「ならば一つ勉強になった。そうは思わんか?」
「ええとても。これで今夜食事を盛り付けた皿が一つでも増えれば良いですね」
女騎士は蘊蓄という不可食部を斬り捨てた。シグムントも従者の勝手知ったる身。態々拾い上げて皿を増やす真似はしない。
「でだ。今回辺境伯軍が一敗地に塗れかけたのもそれが主因であると思われる」
「戦況把握はまだ済んで無いはずですが…?」
「大方予測は出来ている。此処は平原で兵を伏せられない。また此度の辺境伯軍の侵攻は非常に拙速。双方奇策を弄する余裕は無かったはずだ」
本来予測していたところでは、辺境伯との合流は、到着後短くとも十日ほど待つものとばかり考えていたのだ。
それが蓋を開けて見れば、既に戦端は開かれていた。
後方の輜重隊の様子を詳しく見たわけではないが、恐らく碌に物資を持っていない。
ただ功を挙げる一心で急ぎ馳せ参じたのだ、とシグムントは考えた。
「
「ですが此処は平原。縦横無尽に走り回れる騎兵で優ったのならばそれは無策では無いのでは?」
シグムントとて分からない話では無い。
もし戦の神が勝利のための対価を求めたのならば、騎兵は高純度の金貨として計上される。
「だが三兵戦術は騎兵の数を埋めるだけでは無い」
「どういった意味でしょうか…?」
「もし其方が銃と魔導の火線が集中する中、槍衾に正面から飛び込めと言われたら?」
「蛮勇を軽蔑されるべきです。僭越ながら代替案として、距離をとっての行進間射撃を以て撃ち倒しましょう」
「不可能…とは言わずとも至難の業だな」
三兵戦術とは潜在的脅威度の上昇した歩兵が連携するという意味で革新的、とは魔導学校での学友との議論で結論したものであった。
「従来は魔導の才無き歩兵をただ砲撃の壁として捉えた。だが彼らに凡ゆる障壁を撃ち抜く銃を持たせ、障壁を専門に展開する魔導兵を配置する。結果として近距離において絶大な火力を誇りつつ、遠方から仕留めるのは困難となった」
「殿下はそれを何処で?」
「学校での友らと。よもや神の祈りだけで勝てる戦いはなかろう?」
神の祈りほど厄介なものはない。
魔導兵の集中運用がされていない古代においては、祈りの強きものが勝つとされていた。
今代でさえその考え方は王侯貴族に根深く張られている。
突撃が成功すれば「祈りが神の下へ達したのだ」と将兵は神を讃える。
失敗すれば「祈りが足りなかったせいだ」と懺悔するだけだ。
「ええ!辺境伯も神のお導きが我らを戦場へ辿り着かせたとか…何と無責任極まりない!」
「そうだな…我が友が言っていた。戦の勝敗とは兵家の常であると」
コルネリアがあっと驚いた表情で目線を向ける。
「そのご学友は帝国の民でありながら神を信じなかったのですか?」
「いや違うのだ。彼は帝国出身であるが、ケンブリスのノルデント人だ」
「…私と気が合いそうですね」
「…まことか?」
南方の海洋共和国の商人によって二大国に奴隷として売られるパジャヴィール人。
北方より流れ着き、改宗によって公的に土地を封じられたノルデント人。
一方は心に聖典を持たぬ民。
もう一方は心の聖典を書き換えた民であるが、それで信仰が似通ったものになるというのはまた別の話だ。
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