第3話 私、恩寵と呼んでしまいましたが、それは悪夢の間違いかもしれません。

 容姿端麗、細身の教会の服を着こなす男・アーケインを前に、マリーは興奮を隠せなかった。

 血は止まっているし、表面的な傷はない。だから、ここで興奮のあまり再出血は実現しなかったが、マリーの顔面が赤く染まる。


 ——因みに彼は真理の推し、だがその記憶だけに起因しない。


 女ではないかと見間違う男、それは髪が長いからだけではない。顔貌や体躯さえも中性的、いやそれを通り越して女性的である。彼がパリーニの街を歩けば、目を奪われるのに男女は関係ないだろう。

 それほどの美形だから、マリーにとっても彼はお気に入り先生だった。


「私の為にご足労頂いて、有難うございます。アーケインさ——」


 ただ、そんな麗しい男はマリーの言葉に顔を顰めた。顰めたように見える冷たい視線ではなく、物理的に嫌悪の眼差しを向けてくる。


「マリー君。その感じ、その表情、その話し方は宜しくないよ。君にはフィアンセがいるんだ。」

「申し訳ありません‼……マリー様は頭を強く打って、記憶が混濁しているようなのです。ここで先生に診断して頂かないと、後でどうなることやら……」


 彼を連れてきた従妹が二人の間に入って、司祭に頭を下げる。その様子を見て、マリーが頭をフル回転させる。


(待って。今の彼の顔は何?——いや、私は知っている。先日も同じことを言われたのよ。私は今までも彼のことをアーケイン様と呼び続けていた。22歳の将来有望な司祭であり、美しい教師である彼のことを、私はとても気に入っていた。だから私はあらゆる方法で彼に接近しようとしていたんだわ。けれど、それは次期王妃にあるまじき行為として、私は何度も叱責されている。)


 ゲーム世界の美男子は、現実でも美男子である。ならばマリーが気に入らない筈がない。それどころか彼女は、いずれ王妃となる自分の愛人にしてしまおうと考えていた。その記憶と新たに生まれた記憶とが少しずつ結び付けられていく。


「あぁ。そうでしたね。庭で派手に転んだとか。」

「マリー様は額を強打してしまって、それから様子がおかしいのです。」


 従妹のジュリアがその時の状況を説明している。その間にもあらゆる感情が彼女の中に浮かび上がっては二つの記憶が紐付けられる。

 アーケインは『フィフス・プリンス』の一人である。主人公マリーがアーケイン司祭ルートに入ると、最終的に彼は王子様になる。 

 ゲームをやっている時はそんなご都合主義的な、と思っていた。だがこの世界のマリーは知っている。アーケインがベルトニカ王国の南方にある教皇領、その近くの小国マルチス王の三男なのだと知っている。

 長子相続制だから、次男や三男は騎士になって領地を借り受けるか、教会に入って修道院長か司祭長の座を狙う。教会も領地を持っているから、その地区のトップになってしまえば領主と変わらない。


(ふーん。つまり彼の兄二人とも死ぬということね。それで彼は還俗する、そういうことね。将来は愛人にと考えていたけど、なかなか難しそうね……って!私、なんてことを考えているの⁉確かにそれは夢のような展開だけれど。王子様を侍らせる、それが私には出来てしまう?)


「……司祭様。私、なにやら頭が痛いのです。殿下はまだ戴冠の儀式を行っておりませんので、もしかしたら頭の中までは治すことが出来なかったのかもしれません。どうか私の顔を丁寧に診て頂けませんか?」


 この世界があのゲームと同じだろうと、なんとなく分かった彼女は臆することなく、険しい顔の彼に艶っぽい視線で迫る。


(うんうん。あの時のように頭を撫でて。ほら、私がアリスだった時にしてくれたみたいに——)


 ここで確認だが、マリーは中身が入れ替わったわけではない。彼女にとってはまだあやふやだが、前世の記憶が呼び起こされた状態である。

 つまりマリーにとっては神からの啓示でもある。分かってしまえばどうとでもなる、知ってしまえば今まで落とせなかったこの男もどうにかなる。


 まだ、そう考える余裕がこの時点ではあったのだが。


「……分かりましたよ。でも、二人きりは駄目です。ジュリア君だけでも不安ですね。外に居るアネットさんにも同席をしてもらいましょう。」


 アーケインは用心深い行動をしているらしく、ジュリアだけでなくヴェリゼア伯の娘アネットまで部屋に呼び入れていた。マリーがあらぬことを言わない為に他の生徒を立ち会わせているのだ。

 その様子に肩を竦めるマリー。ただ、彼の気持ちも理解できる。彼は彼の父マルチス王が現国王のシャール13世に頭を下げて、パリーニ市の司祭にねじ込んでもらった。アーケインも自分のせいで両国の関係に傷をつけたくはないし、父親の顔も潰したくはない。そう考えているのだろう、と現時点でマリーは考えた。

 だが、過去の王妃だけでなく、今の王妃も愛人を数名抱えている。それくらいマリーは知っている。


(はわわわ。ど、ど、どうしよう。不機嫌なアーケイン先生の顔も素敵。それに今なら分かります。王妃になってしまえば、お父様の顔を潰すこともないらしいですよ、先生。大丈夫です。私なら準備は出来ています……)


「司祭様。私はこのままベッドで横になったままで宜しいですか?服は脱いだ方が宜しいですわよね?」


 まだあやふやな真理の感情も後押しして、二人の女生徒を無視するマリー。いや、真理の感情がマリーに影響を及ぼしているのかもしれない。

 アーケインの不機嫌な顔は、照れ隠しだったのではないかとさえ思えてくる。だが、彼の不機嫌な顔はそのまま、そしてジュリア達を一瞥して肩を竦めた。


「服はそのままで問題ありません。頭を診るだけですから」


 数年も経たずにシャール13世は死ぬのだから、そこまで気を張らなくて良いのに、と彼女は本当に考えている。それに——


(この記憶、何?私が裁判にかけられる?そんなの意味が分からないんですけど。……でもでも、これって本当のこと!これから先に起こり得る最悪なんだから。でも、だったら尚更よね。アーケイン司祭はどんな手を使っても押さえておくべきなんだから。)


 マリーは未来に訪れる自分の不幸を漠然とだが思い出していた。数通りのパターンはあるが、そのどれもが不幸になる道。いや、死罪や死罪と変わらない道。そして、どのパターンでも司祭は重要な立ち位置で登場する。


 そっか。この時代の政治は司法も含めて教会と二人三脚。今のうちにアーケイン様を懐柔しておけば道は開かれる!


 ここはゲーム内とは思えない。それならば、想定外の行動をとれば「死」は回避できる。そして確実な方法の一つが司祭を味方につけることである。何より彼との恋路は前世から決まっていること。

 

「では、君の名前を教えてください。」

「マリー・ド・ラングドシャです。それくらいは覚えておりましてよ?」

「なるほど。名前は憶えている。そうだったね。そうでなくては困る。」


 だが、アーケイン司祭の様子がおかしい。それにおかしなことがいくつもある。フィフス・プリンスの世界と知らなければ、間違いなく見過ごしてしまう怪しげな気配。

 そして、彼女はここで知ることとなる。事態は想像以上に逼迫しているのだ。


「ん?先生?」

「いや、なんでもないよ。マリー君はマリー君でなければね、と思っただけだよ。……では、今日が何年で何月何日か、分かる?皇紀ではなく、エメラス歴で教えてくれるかな?」


 エメラス教。この国を含めて周辺の国は皆、エメラス教徒である。一神教であり、この世界はエメラスが作ったことになっている。

 勿論、マリー自身もそう信じて疑わない。頭を打った後に出てきた記憶も、こちらの神についてはあまり知らない。ひょっとするとこの世界は神が作ったのでは、とさえ思っている。

 それに真理はエメラス歴を覚えていなかった。だから、年月日を言えるのはマリーの方である。


「先生?私はもう出会った頃の女児ではありませんよ。ちゃんと言えます。エメラス歴1703年です。そして今日は6月の20日です。……そうですよ!三週間後に司祭様が主催されるミサが催され……」


 その瞬間、マリーの目が剥かれた。記憶の混濁故に瞬時には気付けなかった。一度に大量の情報が脳内に蘇っており、未だに思い出せない部分も多い。

 せめて一時間前に思い出せていたのなら、彼への返答も違っていたかもしれない。いや、そうだったとしても間に合わなかったかもしれないが。


「あ、あの……」

「ふむ。神に誓って言えます。マリー君は大丈夫です。」

「本当ですか!良かったです。良かったですね、マリー様!」


 記憶が戻らなければ、従妹と共に喜べたかもしれない。でも、今は違う。


「マリー君、今回もサボらずにご出席願います。でも、今日は無理をせず、ここで安静にしていてください。……ジュリア君、問題ないようです。これで王太子様も安全でしょう。アネット君も行きましょうか。」


 アーケインは笑顔をマリーに向けてそう言った。そして王太子の話が突然出て、従妹たちもいなくなる。いや、いなくなって当然だったのだ。


「嘘……。三週間後に私は……」


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