第6話翻訳依頼




 奇妙な男が持ってきた、奇妙な依頼だった。その男がやってきたのは、ある午後のこと。――だった、と思う。男だった、はずだ。

 正直に言えば覚えていない、否、わからない。フードを深くかぶっていたような気もするし、もしかしたら女性だったのかもしれない。そう思うと僕はひどく落ち着かない気持ちになる。

 依頼内容は他愛ないものだった。僕にとってはちょっとしたアルバイト程度のもの。たかだか三十ページほどの英語冊子の翻訳だ。本業の英文学の翻訳が終わったばかりで手が空いていたせいもあった、僕は特に疑問にも思わず依頼を受けていた。

 けれど、いまにして不思議でもあった。あの男は、いったいどうやって僕の自宅を知ったのだろう。無論のこと本業は出版社を通していて、自宅など公開していない。学生時代の知人からか、思ったけれどすっきりとはしなかった。

「あまりよい翻訳ではないのです」

 男は僕に冊子を渡すときにそう言った。どうも話を聞く限り、その冊子自体が別言語からの英翻訳の様子。これは面倒かもしれないな、とは思ったけれどざっと見たところさほどでもなさそうだった。

「元の言語はなんです?」

 日本語訳の参考に、と聞いた僕に男は笑う。たぶん、笑ったのだと思う。吊り上がった唇が見えたような、無表情であったような。そして男は答えなかった。

「聞いてもおそらく信じませんよ」

 それだけを言って帰っていった。冊子を手に僕は首をひねるばかり。奇妙な依頼だな、と思いつつそれを開く。はらりと一葉の写真が落ちた。

「そういえば、なんか言ってたな」

 参考に元の写真をつけておきます、だとか。見れば原書が何語かわかるから言わなかったのか、納得しつつ眺めたのだが。

「なんだこれ」

 見た感じはロゼッタストーンか。石の板に文字が彫ってある、という意味で。が、まったく違うものだとは一見してわかる。

 黒い石だった。黒曜石か、黒い翡翠なのか、知識のない僕にはさっぱりだ。そこに彫り込まれた文字もまた、見たことのないもの。

「これ本当に文字か?」

 世界の言語に精通しているなど豪語する気はないけれど、それにしてもわからない。からかわれているのか、首をかしげる。そこまで暇ではないだろうと退けたけれど。僕は著名人でもなんでもない、しがない翻訳屋にすぎない、それもまだ若い。僕なんかをからかって意味があるとも思えなかった。

 見れば見るほど、気味の悪い写真だった。モノクロの古い写真に見える。水から引き揚げられたばかりなのか、濡れているようにも見えた。ぬらぬらとしたそれが真に迫って感じられて僕は少しばかり依頼を受けたことを後悔していた。

「うん、とりあえず働くか」

 写真を置いて冊子に移る。そちらは英語であるだけまだいいだろうと。浅はかだった。一読し、頭を抱える。こんなものをどう翻訳しろと。

 狂人が記した狂気の産物、というのがたぶん一番近い。あるいは物凄く下手くそな妄想小説。男は写真の文章を英語に翻訳したものである由、言っていたけれど冗談だろう。ムー大陸を真面目に語られては僕にそれ以外にどう言えと。

「失敗したかなぁ」

 狂った文章ほど翻訳しにくいものはない。日本語で語られても何を言っているかわからないようなものを英語から日本語にするのだ、投げ捨てたくなったのも無理はない。

「こんな短いんだから、まぁなんとかなる。うん、なんとかなる」

 自分に言い聞かせるようにして僕はデスクに向かう。たかが三十ページ。一般文芸に比べればどれほどのこともない。内心に何度となく呟いた。

 それだけ厄介だった。何を言っているかわからない、それに尽きる。指示代名詞がどこにかかっているのかをはじめとした文章上の問題、何より厄介なのは固有名詞がまったくわからない。

「これ、なんて発音すんだ?」

 英語として不自然極まりない。誤表記かと思ったのだけれど、頻出しているところを見れば間違っていないらしい。面倒になって、無理矢理そのまま音を当てておいた。

「グァ……? ガ? ガタ、ノ……トーア、スォーア、トア、ソア?」

 とりあえずガタノソアでいいか。そんな投げやりな気分になる。表記が一番すっきりしていた、選択基準はただそれだけだ。

 そこまで終えて僕は驚く。深夜だった。男がやってきたのは、昼過ぎだったはず。仕事にかかると集中はするけれど、熱中していた記憶などまるでなかった。それが少し、気味悪かった。

 デスクから立ち上がれば軽い眩暈。疲労と空腹、わかっていたけれど食欲はない。面倒だとそのままベッドに倒れ込む。なんとなく、眠る前にと写真を手にした。

 見れば見るほど、気持ち悪い。濡れた質感がただの水に見えないのをはじめとして、やはり文字が何語かわからないのが職業上にも気持ち悪い。

「ほんとロゼッタストーンみたいだな」

 なんと言えばいいか、ロゼッタストーンに書き記してあるヒエログリフを思わせる、と言えばいいのか。だが、あの石にある清々しい精緻さはまったく感じない。むしろ肌の上を虫が這い回るかのような気色悪さを感じていた。

 そんなことを考えながら寝たせいだろう。酷い夢を見た。あれは、いったい、なんだったのか。覚えていないのが幸いだと思う。ただひたすらな恐怖ばかりが目覚めた体に残っていた。

 切っ掛けはたぶんそれだ。手早く片づけて冊子も写真も返却したい。その思いから僕は仕事に励んだ。日々翻訳を進めていくのに、たった三十ページが終わらない。

「ったく、増えてんじゃねぇのこれ」

 文句を言ってぞっとした。そんなはずはない、知らず数えてもはじめと同じページ数。けれど、この冊子ならば、増える異常もあり得る、そんな風に感じてしまっていた。

 ひとつ頭を振って、没頭して片づけようとする。かりかりとペンの音だけがした。僕は粗訳は紙にする派で、できあがるまでにはメモがずいぶんと散乱することになる。それが増えるのがちょっと楽しみでもあった。いまは、違う。メモすらも見たくない、目にしたくない。自分で書いた文字さえ気味が悪い。

「なんだか顔色が悪いよ?」

 よく仕事をくれる出版社の編集者が訪ねてきては、そう言ったのは十日ほど経ってからだっただろうか。十日かけて粗訳さえできていないとは、翻訳屋としての誇りが傷つく思い。

「あー。ちょっと」

「なんかあったの」

「夢見が悪いってとこですかね」

 なんだそれは。笑ってくれて気が楽になった。それが普通の感覚だろう。本当に「なんだそれは」だと僕も思う。しかし、夢はあまりにも生々しかった。

 少しずつ、少しずつ、僕は夢を思い出すようになっている。目覚めたときに覚えている部分が多くなる、と言えばいいだろうか。

 暗い、ひどく暗い、洞窟のような場所だった。明かりなどまったくないのに、なぜか僕は見えている。ごつごつとした壁は触れると痛い。手が切れそうな硬い岩でできていた。細い道をたどっていくと、ぽかんと広くなる。

 はじめはそこで目が覚めた。広いところに、何かが、いる。その恐怖に僕は起きたのだと思う。間違っていなかった。僕は、それを見ないよう見ないよう心がけている。

「……っ」

 脂汗塗れになって目が覚めた。ベッドのすぐ側、手の届くところにはあの写真。震える手でそれを取り、見入る。ここに、あの英語の原文が記してあるのだと、疑えなくなっていた。

「なんだ、これ。ほんと、なんなんだよ」

 かすかに震える手に写真も震える。ふるふると震えるそれがいっそ生物のように見えて僕は写真を投げ捨てた。頭から布団をかぶって寝てしまう。夢も逃げ場ではなくなっていたけれど。そして起きたとき、写真ははじめに置いた枕元にあった。

 夢は毎日続いている。続いていく、の方が近いか。夢の中で僕は行動をしている。一昨日は道から顔を覗かせた。昨日は広間から視線を外した。

「今日、は……」

 目覚めて不意に喉を押さえる。どっと汗が滴った。夢の恐怖の源は、何かは知らないし知りたくもない。が、見れば致命的な気がする。視界の端にかすめただけで夢の僕は凍りついたのだから。

 違う。凍りついただけではない。本当に、体が動かなくなった。無論、夢でのこと。現実ではない。そのはずなのに、喉に違和感。まるで喉が石になってしまったかのような。

 夢の広間には、数多の石像が林立していた。整然とあるのではなく、乱雑に。それらはギリシア神話のメデューサを目にしたかのよう。怯え、絶叫し、あるいは震え、硬直し。いずれも絶命の瞬間の恐怖のままに石像と化したと、僕には見えてしまった。

 すべてを忘れたくて仕事に打ち込んだ。がちがちとキーボードを叩く音がうるさい。意味のわからない文章と発音できない固有名詞と。

 いつしか、僕は悟っていた。あの石像の中心部に何かがいるのだと。そして、それこそが、この発音できない名前を持つものなのだと。

 震える手が何度キーボードを打ち損なったかわからない。そのたびに舌打ちをし、僕は数回に一度はじっと手を見る。固まってはいない、石になどなっていない。そう確認するために。

「爪、伸びすぎたな」

 道理で打ちにくいわけだ。笑う声が虚ろにすぎた。よろよろと立ち上がり、爪切りを探す。いつものところにあっていつも通りに爪を切る。

「……ひっ」

 思わず悲鳴が上がってしまっていた。硬かった。自分の爪とは思えないほど、硬かった。あたかも、石になって、いるかのように。

「まさか。気のせいだ、ほら、風呂入ってから切ったわけじゃないし、そのせいだ、うん」

 ばちんばちんと爪を切る。手の爪とは、これほど硬いものだったか。疑念は強いて忘れた。ついでと切ろうとした足の爪は、爪切りが立たなかった。

 夢は進んでいる。僕は行きたくないのに、林立する石像を縫って中心部へと行こうとしていた。昨日はついにあと少し、というところまで。今夜は眠りたくなかったのに、体は勝手に眠った。

 そうして、僕は見た。中心部に座すものを。恐怖に石像と化すも道理、そう思う。その思考さえ石化する。僕は立ち尽くしてそれを見る。すでに目は動かせない、それを目の当たりにしたまま動かない。

 悍しい塊だった。無数の触肢と口と感覚器とが滅多矢鱈と突き出た塊。粘液質かと思えば硬質であり、伸びて縮んで、蠢く。蛇の塊と蛸と象の鼻と反吐とを捏ねあげひねりあげてもなお足らない。僕はこれを表す言葉を持たない。幸いだと思う。表現などできないし、したくない。そうしている間にも僕は固まっていく。あの石像の一部になる。いまにして僕は知る。あれは、生きていると。石の体に閉じ込められ、眼前の恐怖を見据え続けながら生きているのだと。早く目を覚さねば。こんな夢などもうごめんだ。さっさと仕事を終わらせて冊子も写真も叩き返そう。


 連絡がつかないのを不審に思った編集者が部屋を訪れたが、デスクの前に等身大の彼の石像があっただけだった。




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