第5話奇妙な友人
ぬかった、と思ったときには遅かった。夜の嵐の中、私は舌打ちをする。どうにも道を一本曲がり損ねているらしい。気づけば車は山中に入ってしまっていて、この天気では今更戻るのも厳しい。
――どうしたら。
細い道は転回させるスペースもない。バックして戻るなど論外だ。轟々と鳴る雨の音に再び舌打ちをした私は遠くに明かりを見つけた。
「行くか」
人家の光に間違いない。できればここがどこなのか、進み続けて別の道に出るのかどうかだけでも教えて欲しい。切羽詰まった私は思い切って明かりに向かって車を走らせた。
ずぶずぶと路面は泥に塗れていた。舗装などとっくになくなってしまっていて、自棄を起こしていたのかもしれない。ハンドルを取られそうで怖かった。
なんとかたどり着いたそこは、やはり人家だった。外が真っ暗なぶん目を見はるほど眩しくすら感じる。玄関脇に車を停め、運転席から転げるよう降りては呼び鈴を鳴らす。
奇妙な音だった。嵐のせいだろう。遠くに響くようでいて、不思議とくぐもって聞こえもする。だが私はそれどころではなかった。
「どちら様で?」
開けられた玄関に立つのは老人だった。こんな山奥の一軒家に住むとは、さぞ不便だろうに。畑仕事でもしているのか体格はいい。
「夜分に申し訳ない。道に迷ってしまったようで。この道を進んで国道に出られますか」
「あぁ……なるほどなるほど。ここはもう行き止まりですよ」
「そう、ですか」
では玄関先で転回させてもらえないか、尋ねようとした私に老人は微笑む。軋んだとしか見えない作ったような笑い顔だった。
「もしお急ぎでないなら、こんなあばら屋でよかったら泊まっていきなさい。この雨じゃ、あんたもつらかろう」
人の温もりに飢えていたのかもしれない。老人の温情に私は無言で頭を下げるばかりだった。老人はからりと笑い、家の中へと誘ってくれる。冷たい嵐に、立っているだけでも体が冷えて、室内に入るだけでどれほどありがたかったことか。
どうやら老人は一人住まいであることは確かな様子。人の気配というもののない家だった。体が利かないのか、老人はぎしぎしと歩き、時折は壁に手をつく。
「お疲れのところ本当に申し訳ない」
「なに、あとはどうせ寝るだけの暇な年寄りだ。気にすることはない。あんた、ずいぶん前に道を間違えなさったね?」
「そうなのですか?」
「あぁ、国道に出る道はもうずっと前だからね。その調子じゃあ、腹も減っているだろう」
「どうぞおかまいなく」
言った途端に腹が鳴り、下手な漫画のような出来事に赤くなる私を老人は楽しげに笑った。だが、それなのに笑われている、という気がしない。
――なんだろう、これは。
作り物を見ているよう、といえばいいのだろう。老人の笑顔は作り笑いにも見える。が、山奥の一軒家に一人暮らしとあっては人付き合いなどあまりないのだろうと私は気にするのをやめた。
「そこらに座っておいで」
狭く小さな家だった。食卓にしているのだろうテーブルにはわずかに隙間があるばかりで、使ったままの湯呑みだのメモ用紙だのが散乱していた。特に何が書いてあるわけでもないそれを避け、私はかしこまって老人を待つ。
手伝いたい気分ではあったのだけれど、さすがに出しゃばるのも迷惑だろう。とはいえ老人を立ち働かせていると思うと気が咎める。
もっとも老人は台所からすぐに戻ってきた。その手には開けたばかりの缶詰がひとつ。乱暴にスプーンが差し込んであるあたりに笑みが浮かんだ。
「雑ですまんね。年寄りになると、どうにも体裁をつけようって気がなくなる」
とんでもない、言って受け取ればどうやら豆と肉の煮込みらしい缶詰だ。こんな老人が、と思えばそれもおかしみを感じた。
温めてもいない缶詰も、空腹には敵わない。豆らしきものも肉らしきものも判然とせず、正直に言うならば何味なのかもよくわからない。が、腹は満ちていく。それだけで充分だった。
「飲み物もあげような」
「すみません、何から何まで」
「若いもんは気にすることはない」
気軽に湯呑みに水を汲んでくれた。もしかしたら薄い茶だったのかもしれないが、水と大差ないような代物だった。無論のこと私に否やはない。ありがたく頂戴した。
「のんびりと山暮らしはいいですね」
一段落してから私はそんな風に愛想を言ってみる。せっかくのもてなしにせめてもの気分であったそれを老人は喉の奥で笑った。
「さぁ、どうだかね」
「なにかご不便が?」
「家族に捨てられた年寄りの一人暮らしだ、まぁ楽しいこともない」
笑みのままの老人に、何を言えようか。黙り込んだ私を老人は笑う。笑い続けているかのように。そして暇潰しだ、と言って来歴を語りはじめた。
「昔はけっこうなもんだった。ドラマなんかでもあるだろう、マルボウの刑事ってやつさ」
「道理でがっちりしてるわけですね」
「何しろ昔のことだ。どっちがヤクザかわからんような身なりもしていたしな」
にぃと笑った老人の現役時代は想像しにくい。怖い刑事さんだったのでしょうね、言った私に老人はうなずく。それが悪かったのだと。
「女房はそれで苦労してたらしいな。刑事なんだって言うに言えず『あそこはヤクザもんだ』って言われても言い返せずにな」
「そんな……」
「時代だな。まぁ仕方ない。こっちは女房子供のため、社会のためって必死になってたんだが。結局それで女房は体壊して呆気なく死んじまった」
体調が悪くなっていたのに気づくこともなく、家に帰ったら子供たちが泣いて睨んで母親を殺したのは父親だと詰った、老人は笑いながら語る。さすがにぞっとしていた。そんな顔で話すような話題か。初対面で語る話か。
「葬式が終わるとすぐ息子は帰る、と言ってな。はじめて一人暮らししてたのを知ったのさ。娘も兄貴と一緒に暮らすと言って出ていきやがった。ヤクザの親なんかいらないってな」
妻が亡くなり、老人はやっと呆然としたのだと言う。自分は何のために働いていたのだろうと。子供たちにそこまで言われる筋合いはないとも思ったそうだ。
「世を儚む、なんて気分だったな。ちょうどこの家を見つけて、それで移り住んだんだ」
「それは……お寂しいですね」
「と、思うだろう? そうでもないんだな、これが」
老人はぬたりと笑っていた。唇が吊り上り口の端に唾液がつく。嫌な笑い方で泊めてもらうのを後悔しはじめていた私だ。
「友達ができたんだよ、はじめての友達だ。いいやつでな、とてもいいやつだ」
「そ、それは。よかった、ですね」
「あぁよかった。刑事のころ、何せ相手はヤクザもんだ。何かと科学捜査にも縁があってなぁ。それがいま友達の役に立ってるのさ」
突然の話題転換について行かれなかった。率直に言えばこの老人はどこか具合を悪くしているのでは、とも思っていた。そんな私に老人はくつくつと笑う。やはり作り物めいていた。
「友達は鉱石の採掘をしているのさ。それを手伝ってやってな。そうしたら、色々教えてくれたり、話しをしたり。楽しいもんだ、あぁ楽しいもんだ」
「それは……いい、ですね」
「だろう? 人の役に立つってのは浮かばれるだろう。それが息子も娘もわかってないんだ。俺がどんだけ苦労して社会悪と戦ってきたか。何がヤクザもんの父親はいらないだ。逆だろうが。なぁ、あんた」
「そうですよね、刑事さんですからね」
「だろう、そうだろう」
うっとりとうなずく老人から、私は逃げ出すことを考えはじめていた。まだ外は酷い嵐。それでもこの老人と一晩でも同じ屋根の下にあれるだろうか。話題を続けたくなくて、缶詰の残りをスプーンでつつく。どろりとしていて、とっくに食欲は失せていた。
「だからな、俺はもう友達と行くことにしたんだよ。友達も一緒に来いと言ってくれたしなぁ」
「お引っ越しですか」
「そんなもんだ」
唇が引き上がった。いままでのそれと似てはいたが、笑みというものなのか、これは。異質、ふとそんな言葉が浮かぶ。そう、この老人を表すに適当なのはそれだった。張り付いたような作り笑顔も、単調な声音も。怒りを抱いているらしいのに変わらない表情も。
「友達は手術が上手でな」
「……は?」
「俺を連れて行くには手術が必要だって言ってなぁ」
「待ってください、それは」
「つい昨日、終わったばかりなんだよ」
老人の目が私を見た。ガラス玉のような目、とはよく言うけれど本物のガラスがはまっているのではと疑う。馬鹿らしいと笑い飛ばすには真実味がありすぎた。
「面白い手術だったよ。なぁ、あんた。自分の手術が見られるんだ。友達はすごいやつだろう。俺は自分の頭を開いて脳みそが取り出されるのを見たんだ」
がたん、と音がした。立ち上がり、椅子が背後に倒れる。私は老人の前から逃げるべきか。だが、からかわれているのではと思いたくなった。暇な年寄りの冗談に巻き込まれたのでは、と。そう思いたいだけだった。老人は血相を変えた私を笑う。
「あんた驚いたかね」
「……まぁ」
「どうだ。見るかい? 俺の頭蓋骨はまだちゃんと繋がってないんだそうだ。ちょっと触ると骨が外れるんだと」
「馬鹿な」
「それでも危なくないんだとさ。友達は本当にすごいやつだろう」
「いい加減にしてください」
「なぁ、あんた。友達が取り出してくれた脳みそはどうなったと思う。なぁ?」
「知りませんよ、そんなの」
「缶だよ」
「はぁ?」
「缶に入れてな、脳みそだけを連れて行ってくれるんだと。だから俺の頭の中はいまはカラなのさ」
どうだとばかり老人は首をこちらに向けてきた。騙されるものか、私は唇を引き結び老人を見据える。このまま立ち去ろう、そう考えたのだが。
「ほぅら」
頭を振っていた。まるでからからと何も入っていないと示すように。馬鹿げた仕種を嘲笑うその瞬間。私は、見た。老人の額に一本の筋が入ったのを。それは、みるみるうちに太くなり、そして。
ずれた。
「なぁ、だから言ってるだろう? 俺の頭はカラだってよぅ。缶だよ、缶カラに入ってんだ」
からからと笑う老人の頭蓋骨がずれていく。ずるりと音がしているのが聞こえるかのように、次第にずれ幅が大きくなっていく。見間違いなどでは断じて。
笑い続ける老人の声音に、私の視線は食卓へと向いた。食べかけのまま放置した缶詰にと。何かよくわからない煮込み。血の気の引く音が聞こえた。必死になって吐き戻す私を老人は笑い続けた。
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