死線に跨って

かさたて

死線に跨って

 死んだ。はずだった。ただの交通事故だった。私が飛び込んだ訳でもないし、運転手も故意で轢いた訳ではない。轢き逃げもされなかった。本当になんの裏もない、つまらない死因であっさり死んだものだ。

 死ぬ前も特に何もなかった。それでもたくさん不満はあって、死んだ方が良いとか思ったこともあった。私というのは本当に、どうしようもなく弱い人間だ。でも今死んで改めて、それは綺麗事だということを理解する。沢山の後悔とか、絶望とか、誰か代わりに死ねばよかったとか、それに対する罪悪感とか。そんな感情に溢れて、死にたいなんて少しでも考えた自分が笑えた。

 でも何故か今、笑うことができる。何故か思考を続けられる。何故なのか。それは多分、私があるクラスメイトの体に入れ替わったからである。(替わったといっても、本体の私は死んでいるはずなのだが。)何が起こっていて、現実は何を指し示しているのだろう。全てが謎だ。

 金木犀が香る正午。意識が戻ったのはつい何時間か前で、ごちゃごちゃ色々考えた後、とりあえず私は走っている。本当の私ならとっくに疲れ果てているが、この体はまるで飛んでいるようで体力の限界が見えない。

 私が今動かしている体の主だったであろうこの男は、憎らしい男だった。徒競走はいつも一番、勉強もできれば容姿も良く、明るく根は優しい性格ですぐに気の利いた笑えることを言ってみせた。世にこの男ほど完璧な人間がいるのか疑ってしまうほどだ。私はといえば、運動は絶望的で、勉強も普通で、容姿がいい訳でもない。おまけに声が大きくて、すぐに変な笑い方をするのがコンプレックス。この男のことを考えると、いつも神の不公平さに不満や恨みを抱いてしまう。名前は晴瀬といった。晴瀬涼太。

 回りくどくなってしまった。結論、私は死んだはずが、完璧ともいえるこの男の体の内に入り込んでしまった、ということだ。改めて訳がわからない。

 走る。走り続けている。私を探すためである。まだまだ疲れはこなさそうだ。本当、尊敬してしまう。私が晴瀬になったのなら、晴瀬は私になったと考えるのが妥当だ。となると、現実世界の私の肉体を探せば、晴瀬に会えるということになる。この状況を元に戻したい。秋が始まったことを知らせる風が、慣れない肉体に心地よく吹き付けてくる。

 ………。ふと頭に浮かんだのは、浮かばない方がよかった、しかし当然のような考えだった。

 何故この素晴らしい身体を返さなければならないのだろうか。

 私が死んでこいつに成り変わったのであれば、それほど幸運なことはない。私は走るのをやめ、ひどい優越感に浸ることにした。今までそう思わなかったのが不思議でならなくて、笑いが込み上げてきた。昼の真っ青な空に笑い声が響く。本当に変な笑い方だ。そして少し遅れて込み上げてくる罪悪感。空模様が変わって雲が覆っていくような錯覚があった。叫びたくなるような感じに堕ちていく。呆然と立ち止まって、空を眺めて、感情の渦に呑まれるこの瞬間、本物の晴瀬に何が起こっているか知れない。この体をどうしよう。走るのはやめたものの、できるだけゆっくり、事故があった場所へ歩いた。

 そこは通行禁止になっていて、黒白のパトカーがハゲタカのように群がっていた。ということはまだ、私が死んでからそんなに経っていなさそうだ。もう死体は回収されていた。だから事故に遭った人間が特定できなかったので、警官に尋ねた。


「事故に遭ったのは、里羽春架(さとばはるか)さんですか。」


「ええ、お知り合いでしたか。」


どうやら私は本当に死んでしまったらしい。これでは晴瀬と替わりたくても方法が分からない。少しの焦りと安心を感じた。一応、私の家にも行ってみよう。

 口実にしようと思い近くの花屋で適当な花を買った。買った花を持って歩き始めてすぐに気が付いた。自分の為に花を買うなんておかしい。晴瀬が私のために花を買って家を訪問するなんて、もっとおかしい。変だ。赤くなってきた空に、また笑い声を響かせた。

 家まではそう遠くないことは知っていたのに、いざ玄関の前に来ると少し気が弱った。でも死んでる私がいる訳ないのも事実だったから、そこまで悩まずにインターホンを押した。出てきたのは兄。


「突然すみません、春架さんのクラスメイトです。彼女が亡くなったって聞いて…。」


「ああ、ありがとう。春架も喜ぶ。」


妹が死んだというのに、まだ家にいるのか。警察にもいかず、葬儀の準備もせず。流石だよ兄さん。いや、そんなことはどうでもよいのだった。まずは、私は家でも死んだ扱いになっていることがわかった。


「本当に残念です。今、お一人ですか。」


「はい、母も父も今は警察に。あ、あがります?」


「では、お言葉に甘えて。」


 この家に来て、今までの生活の全てが思い出された。やっぱりどうしても、元の自分に戻る気にはなれなかった。

 もともと私は、晴瀬になりたかった。そもそも彼になりたくない人なんているのか、なんてよくわからないことを考えてしまうほどに、彼に憧れ、彼を敬っていた。全てのことが私を上回っているだろうから、彼になったとしても失うものは何ひとつない。生まれ変わったら彼がいいと思っていた。それが叶った。それだけの話。


「おじゃまします。」


それでも晴瀬を探して家まで来てしまったのは、罪悪感に駆られたからだけなのだろうか。


「お茶、淹れてきましょうか」


「いえ、あぁ…。大丈夫です」


この男は本当にとんでもなく憎い男だ。妬み、恨み、私がその全てを尊んだ男。晴瀬涼太は、私の心を占領していて、今私は彼の身体を占領している。彼の持つ全てが欲しかった。努力は億劫だから、この状況は私にとって本当に素晴らしいものだ。身体を返す必要なんてこれっぽっちもない。それに、入れ替わったら今度こそ本当に死んじゃうかもしれない。否、確実に死ぬだろう。なのにどうして。


「お名前は?」


どうして手放そうとする?


「晴瀬涼太です」


晴瀬涼太として里羽春架の家を訪問して、自分を晴瀬涼太と偽って話して、全てがわかったと思う。


「あぁ、君が晴瀬くんか。話はよくきいていたよ。いつも春架をありがとう」


 嘘をつくな。兄さんは私の話なんて聞こうともしていなかったでしょ。ありがとうなんて微塵も思ってないでしょ。いつも部屋に閉じこもって、出てきたと思ったらその度に家を滅茶苦茶にしておいて、よくそんなことが言えたものだ。夕暮れで蜜色に染まった部屋の匂いと、兄の言葉が私の記憶を掘り返した。


「いえいえ」


嫌なことの多い人生だったな。うまくいかない人生だったな。何もやりたくない人生だったな。きっと人生そんなものなのだろう。大抵の人はそう思っても、ちゃんと割り切って生きているんだろうな。なのにあんな奴が近くにいると、私もこう生まれていたかもしれないという無意味な希望が押し寄せてくる。いつまでも押し寄せるばかりで、波のように帰っていってくれない。彼を言い訳にしていつまでも現実を受け入れられない私は、本当にどうしようもない。


「あの、春架さんの部屋はまだそのままですか」


 私は今になって気付いたのだ。遅すぎる。でもまだ間に合う。きっと間に合う。


「いや、そうですけど…。あ、ちょっと!」


兄の制止も聞かず,私は走りだした。自分の部屋の棚の上から2番目に入っている写真。


「ちょっと、勝手に入らないで!」


映画か何かで見た。一番思い出に残ってるものを抱きしめて願うんだ。そうしたらきっと。


(神様、私を元に戻して。)


 目の前がパタンと黒くなる。結局神頼みになってしまった。でも、もう私は分かった。

 晴瀬涼太という里羽春架じゃダメなんだ。彼に意味がある。彼であることが大切なんだ。

 今私のやったことに、後悔がない訳じゃない。でも、彼の心がこの世に存在しないのなら、彼の肉体はきっと意味をなさないんだ。 誰にとっても、私にとってもだ。だって、私が妬んだのは晴瀬だから。私が憧れたのは晴瀬だから。


私が愛していたのは、晴瀬涼太だから。







急に視界が明るくなって、色彩が戻ったものだから、俺は眩しくて目を閉じた。だが瞼の裏を見ていても眩しさの余韻は残っていて、どちらも変わらないと思って目を開けた。俺は見慣れない部屋で写真を抱き抱えていた。知らない人が怪訝な目でこちらを見ている。抱えていたのは、俺と里羽春架との写真だった。

 ずっと聞いていた。彼女の内側の葛藤も、俺とあいつの兄貴との会話も。

 気が付いた時には俺は真っ暗な場所にいた。俺は状況を理解した上で俺にできることはないと分かったので、目だけを閉じてずっと彼女の声に耳を澄ましていた。


「何をしているんですか。」


男(おそらく彼女の兄)がいらついた口調で俺に言う。


「あぁ、すみません。俺と彼女のツーショットはこれだけで、最後の思い出なんです。先程は取り乱して本当に申し訳ない。これ持ち帰らせて頂いてもいいですか。」


「……どうぞ。」


「ありがとうございます。」


 彼女への感謝があるかと言われれば、それはほぼゼロに等しい。この身体の所有者は俺だ。俺に返すのが当たり前のことだ。逆にそれを迷うなんて神経を疑う。


「本当に申し訳ありませんでした。春架さんが天で笑えることを祈っています。」


そういえばあいつは俺のことが好きだったと言ってた。俺は自分のことが好きだとも嫌いだともほとんど思ったことがない。正直、そんなことはどうでもいい。


「……さよなら」


「ありがとうございました。お邪魔しました。」


あいつは自分のことを嫌っていたが、少なくとも俺はあいつを嫌いじゃなかった。あいつが俺の体を奪おうとした時はどうかと思ったが、体を返すというのも相当な勇気がいる選択だったのは認める。あの状況で体を返すということは、死ぬことにほぼ等しい。実際あいつが死んだことは変わってないから、彼女は多分死んだ。元に戻っただけのことだが、彼女が死んだこと自体がとても信じられなくて、なんともいえない悲しさや寂しさがある。

 家を出る。彼女の家は知らなかったけど、帰る道はだいたい分かる。歩く。慣れた体だが、なんとなくいつもと違う。

 あいつはもともと勇気のある奴だったな。運動も勉強も得意じゃなさそうだったけど、明るくて、面白くて、普通に良いやつだったと思う。俺はそう思っている。大丈夫だ、別にお前そんなに悪い奴じゃないと思うぞ。

 これからどうしようか。よくわからないことが起こった。

 俺は今泣いている。何故だろう。彼女が死んだから、なんだろうか。…てか、泣いてる理由が分からないって、なんだよそれ。

 そう思った瞬間に、すっかり暗くなった空に突飛な笑い声が響いた気がした。その声は変すぎて、でもとても懐かしくて、俺も泣きながら豪快に笑った。たくさんの感情が押し寄せて、解けないくらい絡まっている。見上げた秋の星空は澄みきっていて、怖くなるほど美しかった。

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