第2話
美織の運転する車は、町を遠く離れ、険しい山の中へと進んでいった。道路の幅は段々狭くなり、周りは鬱蒼とした林に囲まれ、昼間なのに夕闇に包まれているように感じた。ここに果たして人家があるんだろうか……美織はハンドルを握りながら、不安で押しつぶされそうになった。
その時、ざくざくと藪を踏みしめる音を立てながら誰かがこちらに近づいていた。美織は物音に驚き、目を凝らすと、深々と帽子をかぶった上下作業衣姿の男が、細長い銃を持ったまま美織の前に立っていた。この辺りに住んでいる人だろうか? 美織は車を降りると、男性の元へ駆け寄った。
「あの……すみません。赤江忠治さんって方のお宅に用があるんですけど、ご存じですか? 」
すると男は「忠治?」と言いながら顔が一瞬引きつったが、「しかたねえな」と小声でつぶやくと、ごつごつした太い人差し指を、どこまでも続く狭い道路の先へと向けた。
「ありがとうございます。この辺りは全然土地勘が無いので……」
「礼はいらねえよ。それよりあんた……」
男は額の汗を拭いながら、目を皿のようにしてまっすぐ美織を見つめていた。
「どうしたんですか?」
「い、いや。何でもねえ。あんたを見て、一瞬俺が知ってる人かと思ったけど、人違いみたいだ」
男は顔を赤らめながら銃を背中に背負うと、そそくさと藪の中へと歩き去っていった。
鬱蒼とした林の中をさらに数分位走った時、ようやく目の前が開けた。
古びた一軒家と、家の前には見渡す限りの花畑が広がり、色とりどりのコスモスの花が風に揺れていた。こんなに広大な面積を持つ花畑なのに、イノシシなどに荒らされた跡もなく、一人暮らしでかつ病気持ちの高齢者が手入れしていると思えないほど整然と花々が植えられていた。確か、忠治は寝たきりだと息子の健司は言っていたはずだが……。
美織はガラガラと音を立てながら玄関を開けると、神棚が飾られた大きな居間があり、その中央に布団にくるまった白髪頭の男性の姿があった。
「あの……すみません。赤江忠治さんでしょうか」
美織は声をかけたが、忠治からは全く返事が無かった。意を決した美織は、靴を脱ぐと、ミシミシと音を立てながら畳を踏みしめて、忠治の寝床のすぐ隣までやってきた。
「私、看取り士の杉井美織といいますっ! 息子の須藤健司さんに頼まれてこちらに伺いました!」
忠治の耳元で、美織は言葉の一つ一つをはっきりとした発音で、声高らかに語り掛けた。すると忠治は寝返りを打って、深い皺に覆われた顔を美織に向けた。
「なんだ、お前……」
忠治は、睨みつけるような目つきで美織を凝視した。
「……あれ? お前、晴恵じゃないか!?」
「晴恵? 私は美織という名前ですが」
「嘘つくな! この俺を欺こうとしてるのか?」
「ですから、私は……」
忠治は、美織を晴恵という名前の人間と間違っているようだ。忠治は布団から出てゆっくりと腰を起こし、足をふらつかせながら部屋の隅に置かれた仏壇に向かった。
仏壇には、やや古ぼけた写真が一枚だけ飾ってあったが、忠治は写真を手に取り、「戻ってきてくれて、ありがとう」と声を震わせながらつぶやいた。
忠治が手にしているのは大分色落ちしたカラー刷りの写真だが、表情や着ている洋服は遠目で見てもしっかり確認できた。
女性は毛先にパーマをかけた真ん中分けの長い髪を揺らし、ボウタイの付いた清楚な雰囲気のブラウスと丈の短い台形のミニスカートを纏い、満面の笑みを浮かべていた。えくぼが特徴的な可愛らしい笑顔で、笑ってもどこか冷めた感じのする美織とは似ても似つかないが、目元や口元などは確かに似てなくもなかった。
「あの……晴恵さんって、この人のことですか?」
「そうだ、俺の嫁だ。その写真を撮ったのは、まだ二十歳そこそこの頃だったかな……というか、晴恵はお前だろう? 頭がボケちまったのか」
「私は美織といいます。晴恵さんじゃありません」
「しらばっくれるんじゃねえ。お前は晴恵だ。俺の目に間違いはねえ」
忠治はなかなか美織の言葉を理解してくれなかった。
「おい晴恵、音楽だ。音楽かけてくれよ」
忠治は震える手で布団の中から何かを指さしていた。美織が指の先を見ると、そこには銀色のCDラジカセと、一枚のCDケースが置いてあった。ケースには「カーペンターズ・ベスト」と書いてあった。
「カーペンターズ……?」
「何ボケっとしてるんだよ。早くかけてくれ!」
「は、はいっ」
ラジカセにCDを挿入し、再生ボタンを押すと、カレン・カーペンターの跳ねるような軽快で明るい歌声が流れ出した。
「あ、これって『プリーズ・ミスター・ポストマン』ですよね? この曲、好きなんですよ」
美織は曲に合わせて首を左右に振りながら忠治の方を振り向いた。しかし、忠治は美織の問いかけに答えることも無く、いびきをかきながら布団の上で寝転がっていた。その表情は、ついさっきまで大騒ぎしていたと思えない程安らかだった。
美織は忠治に布団をそっとかけると、額の汗をぬぐい、ため息を付いた。
いくら忠治が痴呆だからとは言え、美織は別れた妻と間違われることに正直不快感があった。しかし、眠りに就く忠治の顔は心なしか嬉しそうに見えた。美織は苦笑いしつつも、「しばらくは、晴恵さんになるしかないのかな」と忠治の寝顔を見ながらつぶやいた。
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