3.ラグナロクの歴史的経緯 ②人類の混乱

② 人類の混乱


 まず,女性の三分の二以上が,大なり小なり発狂した.

 「カミは女の命」とは,19世紀以来の使い古された概念であると思われていたが,時代をどれだけ経ようとも,国境線をいくら越えようとも,これは,ただの概念ではなく,真理であった.その結果,多くの女性が自ら命を絶つことを,一度ならず考えたという.(注3)

 カミの主要成分である,タンパク質(18種類のアミノ酸=シスチン,グルタミン酸,ロイシン,アルギニン,セリン,スレオニン,アルパラギン酸,グリシン,バリン,アラニン,フェニルアラニン,イソロイシン,チロシン,リジン,ヒスチジン,メチオニン,トリプトファン,ヒドロキシプリン)を補おうと,大量の食料消費がなされた.一時期,食料品店の棚が空っぽになり,各国間の輸出入もストップするほどの状態にまでなった.しかし,いくらタンパク質を補充しても,カミは戻らなかった.

 更には,アミノ酸の合成に必要な亜鉛を求める女性たちの争奪戦は,かつてのオイルショックを彷彿とさせる,と表現されていたが,すでにオイルショックを知っている人はほぼほぼ生存していなかったので,誰もピンとこなかった.

民間レベルで,さまざまな噂が飛び交った.生活習慣を改善する,毛穴の汚れを取る,ワカメなどの海藻を食べる,マッサージをする,炭酸水などで頭皮を刺激する,マッサージをとにかくする,体質を改善する,DNAから作り替える,などなど.

もちろん,全て無駄だった.SNSでは,「絶対効果あり」と謳った動画などは,全て根拠もなければ効果もなしのフェイク動画として,低評価と誹謗中傷の嵐にまみれ,公式に垢BANされた.(注4)

にもかかわらず,動画を信じ続け,虚しい努力を続ける人もいるにはいたが,単に虚しいだけだった.カミにいいと考えられる,あらゆる手立てが試され,全く効果はなかった.

 人類は,その長い歴史の中で,数万年も前から,フェイクとしてのカミ,かつらというものを作成し,保持していた.(注5)そこで,かつらをかぶることで,状況の改善をしようと考えた.しかし,一時凌ぎにもならなかった.なぜなら,ラグナロクは,フェイクのカミである,かつらすらも,カミ同様に消し飛ばしてしまっていたからだ.かつらに変わって,毛糸や裁縫用のヒモなどを貼り付けたり,頭皮そのものを黒やその他のマジックペンで塗りつぶしたりする猛者たちも現れた.

また,医療的な施術としてのAGA治療については,医者が完全にさじを投げてしまった.曰く,「ハゲるときはハゲる!」との断言は,流行語大賞にもなった.医師にしても,カミを失っているのである.やる気を失いやけくそになるのも当然であり,目の前にカミがない医師がいて,「カミが戻りますよ」と言われても,「じゃあまず自分のカミを戻してみろ」と言われて終わりである.説得力のない治療は行えないのである.

 ただし,一部,この現象が起こった当初,喜んだとされる人たちがいた.すなわち,既にカミに見放されていた人たちである.従来,自らの薄情なカミを恨んでいたが,全人類が同じ状態になれば,自分たちだけが蔑まれることはない.人類平等,いかに美男美女であろうとも,カミがなければ我らと同じ,と意気込んだ.こんなに晴れやかな気分は初めてだったという.それまでは恥ずかしいと思っていたことが,いきなり,「カミのない人類の先輩」になったのである.余裕綽々で意気揚々と街を闊歩していた.(注6)

 また,カミがなくなったことによる副産物として,資源エネルギーの消費が抑えられたと言えるだろう.カミがなければ,カミを洗う必要がなくなる.つるつるのアタマであれば,シャワーを浴びて泡立てた石鹸で優しく洗えば事足りる.おかげで,水道使用量が激減し,更に,濡れたカミを乾かす必要がないので,ドライヤーも使わない.瞬間的な電力消費では家電業界随一とされていたドライヤーを使わず,タオルで拭うだけでよくなってしまえば,家計における電気代も助かるというものだった.もちろん,シャンプーの製造販売を行っていた美容メーカーは大きな売り上げ減を他の部門で埋めなければならなかったし,理美容師たちはすべて職を失った.

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