第2話
転移という現象がある。
僕は、自分の精神が、他人の身体の中を転移していく、特異体質だった。自分の肉体を持っていないので、体質と言っていいのかどうか分からないが。
僕は、自分の身体がどこにいるのか知らない。
これまでにも、何人もの俳優やお笑い芸人、更にスポーツ選手たちの中に入って過ごしてきた。精神の年齢は、おそらく30年くらい。幼い頃は、いろんな人の中を移動していることを、巧く把握できていなかった。突然環境が変わり、実際には人間そのものが変わっていた。
転移先の人間は、みんな、年齢がバラバラだった。ひどく年を取っていることもあれば、極端に若いときもある。転移先を自分でコントロールすることはできない。
とはいえ、有名人たちは、とても素晴らしい生活をしていた。数々の美人女優と浮名を流したり。肉体関係は、みな一様に奔放だった。
もちろん、最初は、ものすごく戸惑った。
精神としての僕は未経験だったのに、転移先の宿主は経験豊富だったせいで、どうしていいか分からず、未遂に終わったり、時には強引にされそうになって泣き出したこともある。心に性欲がないのに、身体はきちんと欲望に反応してしまう。
自分が特殊であり、周りの人たちは同じような経験をしていないという事に気づくのには、けっこう時間がかかった。
転移の期間は人により、まちまちだった。時間と記憶だけは連続していたので、自分が認識している時間だけが、僕にとってまっすぐに繋がった線だった。20XX年8月31日23:59の次は、20XX年9月1日0:00だ。
転移の条件は、さっぱりわからなかった。前触れもなく、気づいたら転移している。法則性を調べようとしたこともあるが、分かったのは、脈絡がないということだけだった。
ただ、慣れていけば、対処法も分かる。
転移したら、まず何よりも先に、自分が何者になったのかを確認して調べて、その人として過ごすように努める。宿主の肉体が記憶している反射行動もあり、何とか成立した。
サラリーマンの場合は、可能なときは、仕事を休んで、まとまった有給休暇を取るようにしていた。時が過ぎれば、なんとなくやり過ごせる。
転移をするとき、精神は完全に僕のものになる。その時、本来の宿主の精神や意識がどこに行くのかは知らない。今まで、意識の中に宿主の意識や思考が入ってきたことはない。
そんな、特殊ではあっても、それなりに楽しかった人生が変わったのは、ある男に転移した時だ。先程まで、ヒルズ辺りの高層ビルのてっぺんにあるマンションで、国民的アイドルと結婚の約束をしていたはずが、一瞬、気絶するように眠ってから、気づくと、転移していた。
次は、どんな有名人かと構えたら、今まで転移したことのない人種、ガチのキモオタだった。鏡を見た時、「うえっ、うへっ、ぐえっ」と言う音がした。自分の口から発せられている音だと理解するのに、けっこうな精神力が必要だった。
自分の姿を、これほどの嫌悪感で見たことはない。チビでデブ。頭髪は薄く、ヒゲは伸び放題。体中がだらしない贅肉で覆われている。部屋には、大量のアイドルグッズがあり、ポスターなども飾られている。日野向日葵だらけだ。部屋の至る所にゴミが山積みになっており、座る場所どころか立って歩くのにも苦労する。
汚部屋にもほどがある。人生最悪の転移先だった。
臭い。つい今まで、焦げたベーコンと、アイドルの女の子の優しい香りに包まれていたはずなのに、一気に天上から最底辺にたたき落とされた気分だがしかし臭いな!
耐えられなくて、思わず叫び声を上げようと息を吸い込んだ瞬間、気持ち悪くて吐いた。いつからゴミを捨てていないのか。腐臭がする。どうしてこんな部屋で、この男は生きていられるんだ?
うがいをしたい、喉が渇いた。ペットボトルがある。ドリンクだ。蓋を開ける。瞬間。異臭。ああああああああ、これは、そうか! この男の……うげええええええ!
ダメだ、吐く、袋……開いてるポテトチップスの袋。中身入ってる……違う? 黒くてカサカサカサカサ動いてる……嘘だろおいおいおいおいおい!
げええええええええええええええええええええええええ!
胃の中のすべてを吐き出した。床にぶちまける。かまうものか。今さら気にしてどうなる。もうだめだ。無理だ。出ないと。部屋から。ドッスンバッタン、暴れ回る。方向感覚が狂う。どこだ。出口。ゴミが積まれすぎてて、わからない……気が遠くなる。このまま、ここで意識が絶えたら、死んでしまうんじゃないか。わからない。こんな所で死にたくない。気持ち悪い、吐き出すモノなんて何も残っていないのに。
うげえええええええええええええ!
トントントン。音がした。
「大丈夫ですかあ?」声もする。
どこだ。どこから。ドアのある方角を見つけた。そっちか! ゴミをぶちまけ、ドアにたどり着き、鍵を解錠し、ドアノブをひねる。開放。
ゴミと共に、雪崩の一部になって転がり出る。
新鮮な空気が、一気に肺に入り込んでくる。ドアの前に、キレイな女性が一人、立っていた。金髪のギャル。僕にとっては、天使だった。
「臭いんじゃ!」
金髪ギャルの天使にグーで殴られ、気絶した。
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