第1話 ヲとロについて


 市立中央病院にはもう人間なんて殆ど居なくって、受け付けで機械にカードを突っ込むだけなのは良いのだけど、看護師までロボットに取り替えるてるのはいただけないと私は思う。

 看の字の上側は『手』、下側は『目』。そうつまり手と目でる。どれだけAI技術が発達してfMRIとディープラーニングによって人間の思考が読み取れるようになろうとも、看護師だけは人間であるべきなのだ。

 なんてもっともらしく文句を言いながらも私が市立中央病院に通い続けてるのは、近くに他の精神科がないから。それと、親孝行のためだ。

「……^\[@:]/.\//.-\^;@\^#$%&」

 人間には理解できぬプログラム言語じみた事をささやき、私の手を引くのは私の母親……いやかつて私の母親だったものである。

 母の脳が電子チップに入れ替わりロボットになってしまったのは半年前のことだ。日本政府とアメリカ政府が結託して健康な人間を次々とサイバネティクスにしているのは誰もが知るところだが、うちの母もまたその犠牲者で、彼ら風に言うのなら『高度で完璧な社会を作るための礎』。

「……(’$%&#|}<$*」

 機械言語しか喋れなくなってしまった私の母親の頭部には確かに小さなチップが入っているだけなのだけれど、そこには私の母親だった頃の記憶もちゃんと遺されている。だから毎月第一火曜日、母は私のことを心配して、ロボットのように決まった時間(九時二十三分)に家を出て、この病院へ連れてくるというワケだ。

 私の母親と全く同じ記憶・思考回路を持つこのロボットがまだ私の母親なのか、それとももう赤の他人なのかについては、きっと諸説ある。でも少なくとも私はまだ、これを自分のママだと思っている。


「オクスリダシテオキマスネ」

 気付くと座らされていた妙にポップな白い診察室でそう言われ、私は事務的に立ち上がった。

 ここの医者は嫌いだ。まるで遠くの電線からこっちを見るカラスみたいに無遠慮に私の顔をじっと見るから。喋り方も全然サイバネティクスじゃなく、人間臭さが気持ち悪い。いつもお母さんが可哀想だから仕方なく来てやってるが、そうじゃなければ絶対にこんな場所へ私はやってこない。だからいつもとくと早く、私は診察室を立ち去るのだ。

 だけどその日はなぜなのか、それが上手くできなかった。

「アー、ひまりちゃん」

 恐ろしい化け物に左腕をガシりと掴まれて、怖い、涙が出そうなくらい。

 誰か助けてとそう思うけど、この診察室に居るのは皆ロボットだ。ママも看護師も決められたことをするだけで、こういったイレギュラーには対応できない。

 ずっと続く息が出来ないほどの緊張に目玉の表面が真っ白に染まり上がってもう何も見えなくなると、私はいつか見た布団の中の白い暗闇の中に居る。私の手首をつかむ大きなてのひらの感触は少しづつ大きくなって、やがて全てを支配される。

 勇気を出して目を開くと、学習机の上にカレンダーが置いてある。そうだ今日は7月の7日で、夏祭りの前日で、家庭教師の狭山先生が家に来る日で、でも先生は結局うちに来なかった。代わりに来たのはヨーロッパの自動車製造メーカーが作った悪のロボットで、狭山先生にそっくりではあったが、しかしやっぱり別人、いや別ロボだった。

 置物みたいな私のママロボとちがい、悪のロボットはまだ小さな女の子の有機脳をウィルス感染した脳チップに組み替えてしまう。あのとき私はまだ小学生だった。なのにあの家庭教師は無理矢理体をおさえつけて、口をふさいで、脳をロボットにする手術を始めた。パカっと頭を開かれると感覚は遮断され、自分の呻き声だけがずっと部屋の中に響いていて、視界の隅には私の口を押さえつける大きな手のひらの、その親指だけが見えていた。

 そうだこの医者は狭山先生と同じ爪の形をしているから、だから死ぬほど嫌いなんだって、私が何度そう言っても、こいつは怪訝な顔をするだけ、自分の爪を黒く塗りつぶそうともしない。

 人間だ、この医者は。私の目玉を一度くり抜いて、そこに空いた穴に無理矢理薬を突っ込もうとする。そんな器用で残酷なこと、人間にしか出来るはずがない。

 ちなみに私もこの医者と同じように、まだ脳をロボットにされてない。あの時狭山先生に改造手術を受けたのは別の誰かだかららららららラだ大丈夫だ、私は。

「やめられないようならもっと強いクスリを出さないといけないからね」

 人間の主治医はそう言うと、わたしの手首を不意に離した。まるでカッターでズタズタにしたように傷だらけの私の左手は、イカ焼きみたいで気持ち悪い。一体誰がどんな思いでこんなものを作ったのだろう。……どう考えても私のママだ、人間だった頃の。吹けば折れそうな自然薯のようにそう考える私は、もうしばらくそこから動けなかった。


 久々にヲと出会ったのはそれから三日後のことだ。正確にはヲは実在しない人物だから出会うということはあり得ないのだけど、逆に言えばどこにでもありふれているとも言える。そうつまり概念なのだ、ヲは。

 看護の看と同じように、字体から意味を推し量れる。未完成の器。それがヲ。

 ヲはいつでも探している。欠けてるヲの左側にかっちりと嵌って離れなくなる、世界にたった一人だけの人間を。

 もしそれが可能なら、私だってヲの空虚な部分を埋めてあげたいとは思うのだけど、もしもヲと結合を試みて、上手くそこへ嵌らなかった場合には、どちらかがこの世界から完全に消滅する事になるから難しい。

 だからまぁつまり試しに軽々しく嵌め込むわけにもいかないってワケで、それなのにヲはいつでも結合相手を探しているから、私は実に困るという事だ。


@ヲ『ねぇ良いじゃん今度会おうよ』

@himahima-ri0204『そういうのは良いです、お母さんが怒るので』

@ヲ『お母さんロボットなんでしょ、良いじゃんそんなら気にしないで』

@himahima-ri0204『アレはまだ自分を私の母親だと思ってるんです。あまり悲しいことを言わないでください』

@ヲ『天然かと思ったらガチのキチガイじゃんw』

@himahima-ri0204『たぶんあなたは私のヲじゃない』


 最後にそう返事を返して私は、@himahima-ri0204は、そのヲをブロックリストに突っ込んだ。

 現実世界にヲは少ない。というか、皆自分がヲであることを隠している。近所の本屋でよく見かける店員も、コンビニのアルバイトも、そうあの     ですらも、本当は皆ヲなのに。まるで完成した『ロ』みたいに振る舞うのだ。たまに『コ』の人も居るが、ヲほど激しく求めはしない。

 ヲはロコよりずっと不安定だ。まるで私の支えがなければ生きていけないとでも言うように、縋り付いて嵌め込もうとする。そう私も、あの時の   先 も、ヲだった。

 だけどヲとヲは繋がれない。悲しさを重ねるだけで、重くなってぶっ壊れて、必ずどちらかが消えてしまう。

 ……7月の7日に消えたのは、果たしてどちらのヲだったろう。私か、    か。

 いや    だ。だってわたしは、こんなにも存在している。

 過剰摂取の吐き気が襲ってきて、私はトイレへ駆け込んだ。目の奥をゴシゴシこすると、あの医者に詰め込まれた薬がドロドロに溶けて溢れ出し、トイレの中にたまりを作った。やっぱりあの医者は嫌いだ、目の中に沢山クスリをつっこむから。

 まだ見える左目だけを開くと、ひび割れた鏡の隙間に、ひどい顔をした自分が映っている。ロボットじゃない私の顔は、ロでもコでもない、やっぱり不安定なヲだ。

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