課長との残業

 社員同士の会話や電話のコール音やコピー機の作動音など様々な音が混じりあい騒がしくも活気のあるオフィス内で、生野翔太はひとり静かにパソコンの画面に見つめていた。


 う~ん、何も出てこない。年末商戦に向けてのキャンペーンのプレゼンは明後日に迫っていたが、何もアイデアが浮かんでこない。


「どう、生野さん、進んでる」


 腕を組んだまま悩んでいる僕の様子を見かねた、僕の席までやってきて井上課長が声をかけてくれた。


「いや、全然です」


 僕の芳しくない返事に井上課長は眉をひそめた。


「そっか。プレゼン明後日だから明日はチェックしたいし、今日ノー残業デーだけど残業してでも仕上げてもらってもいい?」

「はい」


 周りの同僚たちは残業を命じられた僕を気の毒そうな表情でみている。

 しかし、僕の心は期待と興奮で躍動していた。


◇ ◇ ◇


 時計の針が6時を過ぎると、次々に同僚たちが帰っていく。


「じゃ、お先に。残業頑張ってね。しかし、ノー残業デーなのに残業して作れって課長も厳しいよな。明後日なんだから、明日作ればいいのに」


 日頃課長から厳しく指導されている同僚から憐みと課長への不満の混じった愚痴を聞かされた。


「まあ、明日中にできるとも限らないし、今日目途がつくところまでは頑張るよ。じゃあな」


 課長への愚痴には同意せずに、送り出した。


 フロアには誰もいなくなると、課長が席を立ちロッカーから紙袋を取り出すと僕のもとへと歩み寄ってきた。


「そろそろ、始めようか?」


 僕は頷き課長から紙袋を受け取り、僕はスーツを脱ぎ始めた。


―——1か月前


 課長に下着女装しているのがバレてから1週間が経った。課長は営業同行の時など、二人きりになると「辛かったら言ってね」とか「今はLGBTへの理解も進んでいるからみんな受け入れてくれると思うよ」とか声をかけてくる。

 完全に僕のことを心と体の性の不一致で悩んでいるトランスジェンダーだと勘違いしているようだ。


 トランスジェンダーではないとすると、男としてブラジャーを付けていることになってしまう。事実そうなのだが、それはより恥ずかしく理解してもらいにくい立場になると気づいた僕は、課長の勘違いを訂正せずにいた。


 プレゼンの資料作成に難航していた僕は、一人残業を続けていた。

 節電のためにフロアは僕以外のところは電灯は消され、それがより孤独感を高めていた。


 8時を回りお腹もすいてきたので、いったん休憩がてらコンビニでも行こうかなと思っていた時、ドアが開いて帰ったはずの課長の姿が見えた。


「あれ、課長帰ったはずでは?」

「忘れ物しちゃって戻ってきたの。あとこれ、差し入れ食べて」


 課長はおにぎりの入ったコンビニのビニール袋を手渡してくれた。


「ありがとうございます」


 僕はおにぎりを食べていると、課長はロッカーをあけ大きな紙袋を持ってきた。


「はい、これ、良かったら着てみて」


 袋を受け取り中を見てみると、白のブラウス、黒のタイトスカート、チェック柄のベストにリボン、経理など内勤の女子用の制服だった。


「これは?」

「生野さん、女の子になりたいんでしょ。今日誰もいないから着てみてよ。サイズが違うなら、変えてあげるから」


 課長にきちんと訂正しなかったのが裏目に出たようだ。課長の目は輝いており、僕が着るのを期待しているようだ。

 僕は覚悟を決めて着替えることにした。


「サイズはよさそうね」


 僕の着替えた姿を見て、課長は満足げな笑みを浮かべている。窓ガラスには恥ずかしそうに制服を着ている僕の姿が写っていた。


「すね毛は剃っておこうね。あと、私がプレゼントしたのを使ってくれてるんだね、ありがとう」


 偶然にも今日の下着は課長からプレゼントされたものだった。


「プレゼン資料、あともうちょっとだよね。手伝ってあげるから、一緒にやろう」


 急に仕事モードにもどった課長は僕のパソコン画面を見ると、修正の指示を出し始めた。

 制服から着替える間もなく僕も作業を始めた。


 不思議なことに今まで行き詰っていた資料作りが、急に捗りだした。頭にはいろんなアイデアが次々に浮かんでくる。

 終電を覚悟していた資料作りも、あっという間に終えることができた。



 それから、仕事に行き詰まると残業や休日出勤をして女子制服に着替えて仕事をするようになった。

 今日も着替えを終え仕事に戻ると、今まで悩んでいたのが嘘みたいに新しい企画が思いついた。


「ちゃんとすね毛も剃って、ストッキングもハイヒールも自分で買ってきて女の子楽しんでるみたいだね」


 タイトスカートに素足で男性用の革靴はおかしいと思い買っていたのをさっそく気づかれた。


「どう、もうそろそろカミングアウトして女の子になっちゃえば?」


 課長はしきりに勧めてくるが、僕にはまだその覚悟はない。

 

 そうこうしているうちに、資料作りもめどがついてきた。そろそろ帰ろうとしたとき、ドアが開いて同じ営業部の立川沙織が入ってきた。


「あら、立川さん、今日は出張先から直帰じゃなかったの?」

「いや、急に先方から仕事頼まれて会社に戻って作業しないといけなくなったから戻ってきました。って、えっ!?生野さん、何その恰好?」


 立川は僕の制服姿に驚き、目が点になっている。


「あっ、いや、これは……」


 言い訳しようにもよい言い訳が思いつかない。


「実はね、生野さん、女の子になりたいんだって。それで、女子の制服着せてみたの」


 パニックになった僕に代わって課長が立川に説明し始めた。


「えっ、そんな、いつからですか?」

「先月だったかな?それぐらいから、残業の時とか休日出勤の時とかに」

「課長に、生野さん」


 立川はそこで言葉を区切った。続いて「変態」とか「キモイ」とか言われるのを覚悟した僕は腹をくくった。


「二人だけで、何楽しそうなことしてるんですか?私も混ぜてくださいよ。生野さん、制服だけだと満足できないでしょ。今度一緒に服買いに行こうね」

「あら、それいいわね。私も付いていく」

「じゃ、いつにします、次の日曜にしましょうか?」


 戸惑う僕をよそに二人で盛り上がり始めた。ブラジャー着けるだけで良かったのにと言い出せない僕は、しずかに二人を見守るしかなかった。

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