下着女装から始まる物語

勝負下着はワインレッド

 生野翔太は毎朝恒例のジョギングを終えシャワーを浴びると、タオルで体の水分を丁寧に拭きとり、それが終わると、ワインレッドのショーツを履き、同じ色のブラジャーを身につけた。


 今日は大事なプレゼンがある。最近大事な勝負どころではワインレッドにして、3連勝中。きっと今日も行けるはず。鏡に映る自分に言い聞かせた。


 僕に女装の趣味はない。ブラジャーを付けるようになったのも、1年前からだ。


―——1年前


 大事な商談をことごとく落とし、仕事が上手くいっていなかった僕は帰宅後やけ気味にビールを飲んでいた。

 スマホを見ながら2本目のビールを開けたとき、「男性用ブラジャー密かな人気」という記事が目に飛び込んできた。


 男性用ブラジャー?なんで男性にブラジャーが必要なの?女装用?

 そんな疑問を抱きつつ記事の続きを読むと、女装が目的でなくてもブラジャーをしている男性が増えているらしい。


 記事に続くコメント欄には、「キモイ」「変態」など辛らつな書き込みが目立つが、中には「自分もしてるけど、気合入っていいよ」「他人に優しくなれる」など好意的な体験談も混じっていた。


 ふ~ん、そんな世界もあるんだ。

 第一印象はそんな程度だった。


 2本目のビールを空けたが、まだ酔い足りなかった僕はアルコール度数9%のレモンサワーを飲み始めた。

 ようやく心地よい酔いが回ってきて、仕事の失敗や今後の不安など嫌なことを忘れてきた。


 いい感じ。でも飲み過ぎかな?そう思った時、ふと先ほどの男性用ブラジャーのコメント欄にストレスも減って酒の量も減ったと書き込みがあったのを思い出した。


 男性用ブラジャーを検索すると、すぐに商品ページは見つかった。

 ピンク地にかわいらしい花柄と繊細なレース。芸術品の様に美しいブラジャーは、一瞬にして僕の心を鷲掴みした。

 

 数分後、値段もそんなに高くないし、1回試してみるだけだし、自分に言い訳するように購入ボタンを押した。


◇ ◇ ◇


 地元で10店舗以上もつ地場スーパーの会議室は、緊張した空気が張りつめていた。

 バイヤー、商品部部長と10名以上の人たちが、時折質問を交えながら、僕のプレゼンを真剣なまなざしで熱心に耳を傾けている。


「度重なる値上げにより低価格帯と高価格帯の差が縮まり、消費者は安いものより多少高くても質が良いものを求めるようになっています。そこで、弊社がおすすめするのはレトルトの高級ハンバーグです。まずはご試食ください」


 一緒についてきてくれた同じ営業課の井上課長が、試食用のハンバーグを小皿に取り出し配り始めた。

 受け取った順にハンバーグを口に運び、その味に満足しているような笑みを浮かべていった。


 コツコツと隣を歩く井上課長のハイヒールの音が聞こえてくる。好感触な反応に、足音も心なし弾んでいるようにも感じる。

 上機嫌な笑顔を見せながら、井上課長は僕の方を見向いた。


「価格交渉も問題なさそうだし、いい感じだったね」

「はい、そうですね」

「それにしても、生野君、最近調子いいね」


 課長に褒めてもらった通り、最近仕事は順調だ。ブラジャーを付けることで仕事に気合が入り、商談も上手くいくし、ミスも減った。


「あと最近優しくなったって女子社員の間でも評判だよ。残業してるとお菓子差し入れてくれるし、忙しそうにしていると手伝ってくれるって、みんな言ってた」


 ブラジャーしていると女性ホルモンがでるのかどうか不明だが、イライラすることもなくなり、他人に優しくする余裕が生まれてきたのは事実だ。

 

 少し前を歩き始めた井上課長を後ろから改めて眺め見てみた。

 タイトなスカートが彼女のヒップを包み込み、歩くたびに揺れるお尻の動きをつい見てしまう。

 

 課長は30を過ぎているとはいえ、体形をシャープに保っており細身のスーツもよく似合っている。彼女の背中にかかった黒い髪は、クリーム色のジャケットと相まって彼女の気品を一層引き立てており、課長は僕のあこがれだった。


 そんな憧れの課長に褒められ僕は有頂天になった。


 オフィスは営業課のシマ以外照明が消されており静まり返っており、僕と課長の気ボードをタッチする音だけが響いていた。 

 今日のプレゼンの報告書を夢中で作っていると、気づけばオフィスには僕と井上課長しか残っていなかった。

 

「課長、すみません。僕のせいで残ってます?」

「いや、私もやることあるから。とはいえ、疲れたからコーヒーでも飲もうかな?生野君もいる?」

「あっ、コーヒーいるなら僕淹れますよ」

「いいから、ちょっと気分転換したいのもあるから」


 数分後、給湯室から課長はコーヒーを淹れた紙カップを二つ両手に持って戻ってきた。


「はい、生野君どうぞ」

「ありがとうございます」


 課長から手渡された紙コップを受け取ろうとしたとき、手が滑って落としてしまった。

 落ちた紙コップが太ももにバウンドして、熱々のコーヒーを浴びてしまった。


「あっち」

「あっ、ごめん。私雑巾とってくるね。火傷するから、すぐに脱いでて」


 脱いでと言われても、僕の今日の下着はワインレッドだ。人様に見せるわけにはいかず呆然と熱さに耐えるしかなかった。


「あら、何やってるの、早く脱がなきゃ」


 濡れ雑巾をもって戻ってきた課長は慌てて僕の上着を脱がそうとする。抵抗することもはばかられた僕は、胸を隠しながら上着を脱いだ。


「クリーニング代は出すから、あとで言ってね」

「あっ、いや、僕の不注意でもあるからいいですよ」


 課長は懸命に濡れ雑巾でズボンにかかったコーヒーを拭いてくれている。コップ一杯のコーヒーだったので、そんなにひどい火傷にはならずに済みそうだ。スーツも量販店の吊るしスーツだし、クリーニングに出してシミが残ったところで惜しくはない。


 それよりワイシャツから透けて見えているはずのブラジャーが、課長に見られないかだけが気がかりだった。

 課長も拭くことに一生懸命だったせいか、とくにブラジャーに気付いた素振りは見せなかった。


―——2週間後


 先日のスーパーと正式に納入の契約を結んだ僕は、意気揚々と会社に戻ってきた。


「課長、無事に契約が終わりました。ハンバーグだけではなくて、ビーフシチューとかエビチリなどの『ちょっと贅沢シリーズ』全般おいてくれるそうです」

「よかったね」


 課長は小さく拍手して喜んでくれた。そして立ち上がると、僕の耳元でそっとつぶやいた。


「今夜空いてる?空いてるなら、祝杯上げに行かない?」


 こっそり伝えているところをみると二人きりのようだ。憧れの課長と二人きり。僕は静かに頷いた。

 それを見た課長は、お店の名前と住所の書いたメモをこっそりと僕の手に握らせた。


 その日残業しないように必死で仕事を終えると、課長の書いたメモに書いてあったお店へと向かった。

 半個室の席へと案内されると、すでに課長は着ていた。


「課長、先に着てたんですね。遅れてすみません」

「営業先から直帰したからね。先に頂いてて、こっちこそごめん」


 課長は半分ほどビールの残ったグラスを揺らしながら答えた。


「契約おめでとう。乾杯!」


 僕のビールが届いたところで、課長とグラスを重ねた。

 乾杯の後は、取り留めもない仕事の話や職場の人間関係の話で盛り上がった。


 注文した刺身の盛り合わせが届いたところで、課長が思い出したかのように自分のトートバックの中をあさり始めた。


「あっ、そうそう。渡したいものがあったんだった。この前のお詫びのプレゼント」

「いや、気にしなくてよかったですよ」


 そう言いながらもつき返すほうが無礼かと思い、すなおに課長から差し出された紙袋を受け取った。


 紙袋を開けてみると、中にはネイビーブルーにピンクの花柄のブラジャーが入っていた。

 それを見た瞬間僕の背筋は凍った。


「私鈍くって、ごめんね。生野さんがそういう人とは気づかなくて」

「いえ、けしてそういう訳では」


 やっぱりあの日、課長にワインレッドの下着は見られていたらしい。


「いいのよ。恥ずかしいことじゃないんだから、隠さなくても。明日から、スカート履いてきてもいいよ」


 少し酔いが回って頬がピンク色に染まり始めた課長はいつもよりかわいく見えたが、僕にそれを楽しむ余裕はなかった。


 







 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る