第十章 六月二十四日 北御殿場基地事件~大逃走劇

 長かった夜が明ける。空がうっすらと明るくなろうとする中、出雲は駐屯地の入口からキャリーバッグを引きながら、ゆっくりとした歩調で敷地の外へ出るところだった。

 周囲にそれを止める人間はいない。もはやすべては終わった後だった。

「さて……面倒な事になる前に退散しなければなりませんね」

 そう言って、出雲が雑木林に囲まれた道を下ろうとした時だった。不意にどこからともなく、ヘリコプターのプロペラ音のようなものが響いてきた。出雲は無言のまま、反射的に上空を見上げる。

 すると、雑木林の向こうから、一機のヘリコプターが飛来して出雲の頭上でホバリングした。そのヘリの側面に「山梨県警」の文字が書かれているのがはっきり見える。

「山梨県警のヘリが御殿場に来るとは……まぁ、誰なのかは大方の予想はつきますが」

 出雲がそう呟いた瞬間、ヘリのドアが開き、そこから一人の女性が上空から拳銃を出雲目がけて突き付けた。

「出雲!」

 それを見上げながら、出雲はいつもと変わる事なく微笑む。

「お久しぶりでございますね、尼子蓮様」

 それは特別捜査本部の刑事……尼子蓮だった。隣には山梨県警の藤警部が乗り込んでおり、操縦しているのは元航空警察隊の西沢である。

 あの後、事件の主軸がすでに山梨から静岡へと移っているかもしれないという疑惑に対し、西沢たちは何かできる事はないかと必死に策を練り続けていた。念のために昼のうちに直接駐屯地に連絡をしたりもしたのだが、電話口に出た駐屯地のトップである鶴木連隊長は「何も変わった事はない」の一点張りで、協力は絶望的な状態だった。

 だが、夜になってもう一度連絡を入れてみるとなぜか連絡がつかず、ここに至って西沢は事態が最悪の状況に陥ったと判断。そして、自身の判断で山梨県警の上層部に直談判し、県警のヘリで御殿場への偵察を行う事を認めさせたのである。もちろん、これは県警の管轄的には明らかな違反行為で、何もなければ西沢が処罰を受けるという交換条件の上での処置である。だが、西沢はそれを飲んだ。彼の経験上、何かが起こっているのは間違いないと断言できたからである。

 そして、元航空警察隊出身の西沢が操縦桿を握り、蓮と藤を同乗させた山梨県警航空警察隊のヘリはこうして御殿場へ駆けつける事に成功したわけだが……事態は西沢や蓮の予想をはるかに超えて最悪の状況を演出してしまっていた。そこに広がっているのは、もはや一人の犯罪者がしでかしたとは思えないほどの「地獄絵図」だった。

「これは……自衛隊が全滅している!」

 上空から基地の惨状を見ながら、藤が呻き声を上げた。西沢もそれに同調する。

「そんな馬鹿な……あいつ一人でこれをやったのか!」

「出雲……貴様、何をしたぁ!」

 蓮が銃を突きつけながら叫ぶ。それに対し、出雲は普段と変わらぬ笑みを浮かべたまま答えた。

「仕事でございますよ。もっとも、すべては終わった後でございますが」

「何だって……」

「あなた方こそ、よくここにたどり着けたものでございます。山梨県警はまだここまでたどり着けていないものと思っていましたが」

「その減らず口を閉じろ!」

 激高した蓮が一発発砲するが、弾は外れて出雲のすぐ近くの地面に着弾する。弾道が事前にわかっていたのか、出雲は微動だにせず涼しい表情で蓮を見上げ続けていた。

「正直なところ、すべてが終わった今、あなた様方と対峙する理由はこちらにはないのでございます。現場はお渡しいたしますので、このまま引いて頂けませんか?」

「ふざけるな!」

 蓮は即座にそう言い返す。その態度に、出雲は小さく肩をすくめた。

「まぁ、そうでございましょうね。とはいえ、私もこのままおめおめと捕まるわけにはいきません。ですので、私も最後の一手を打たせて頂きました」

「貴様! この期に及んで何を言って……」

 と、その時だった。不意に向こうの御殿場市内の方から、何やらサイレンのような音が聞こえてきた。蓮が顔を上げると、大量の静岡県警のパトカーがこっちへ向かっているところであった。

「もう県警に連絡したんですか?」

「いや、まだだ! どうしてこのタイミングで県警が……」

 操縦席で西沢と藤がそう言葉を交わす。本来なら、出雲を追い詰められると喜ぶべき場面である。が、蓮は何か嫌な予感がした。

「何をした!」

「怒られる言われはございませんね、。ただ、市民の義務を果たしただけでございますよ」

 そう言うと、出雲はどこからともなく携帯電話を取り出して、それを目の前の地面に無造作に放り投げた。なぜかはわからないが、その瞬間、蓮の背筋にヒヤッとしたものが流れた。それを見て、出雲が悪魔の微笑みを浮かべる。

「万が一に備え、県警には私の方から通報させて頂きました。邪魔が入らなければ騒ぎの混乱に乗じて逃げ出せればそれでよし。もし、このように邪魔が入ったとすれば……」

 そう言った瞬間、県警のパトカーが駐屯地の前に到着し、中から県警の警官たちが銃を構えて飛び出してきた。

「動くな! 手を上げて投降しろ!」

 警官の一人が叫ぶ。が、彼らの装備を見て、蓮が顔色を変えた。彼らは特殊部隊でも刑事課の刑事でも何でもない、出雲の情報を一切知らない一般警官ばかりである。おそらく、最寄りの御殿場署の地域課の警官たちだろうが、出雲はそんな警官たちを軽く見つめると、ここ一番の笑顔を見せながら、あえて蓮に聞こえるように大声で宣告した。

「邪魔が入ったならば、力ずくで逃走するまででございます!」

 次の瞬間、いつの間に握られていたのか出雲のマグナム拳銃が火を吹き、パトカーの陰で銃を構えていた警官の一人が吹っ飛ばされた。それを平然と見ながら、出雲は続けてこう叫ぶ。

「さて、大変無粋ではございますが、パトカー一台、拝借させて頂きましょう! 止められるものならばそちらも力ずくで止める事でございます!」

「い、出雲ぉっ!」

 自分の逃走手段を確保するためにわざわざ何も知らない県警の警官たちを呼び寄せた……それがわかった瞬間、蓮はそう叫びながら、思わず上空から何度も拳銃の引き金を引いていた。


 二〇〇七年六月二十四日土曜日午前六時、北御殿場駐屯地での自衛隊との戦闘が終結すると同時に、今度は出雲と静岡県警による最後の攻防戦が始まった。


 静岡県警御殿場署所属の三木谷則康巡査は顔を真っ青にしてどうすることもできないでいた。三木谷の目の前では、仲間の警察官たちが一人のセーラー服姿の少女によって赤子の手をひねるが如く次々と倒れていっていた。

 陸上自衛隊北御殿場駐屯地で発砲事件が起こっている。そんな通報が入り、御殿場署の警官たちが駐屯地に駆けつけたのがわずか五分前。だが、駆けつけるや否や、駐屯地の入口前では惨劇が繰り広げられる結果となった。入口前にいた一人の少女が、警官隊に銃を突き付けられているにもかかわらず微笑みながらまず一発撃って一人の警官を倒し、その後はあろう事か自分から警官隊目がけて襲い掛かってきたのである。

 その美しささえ感じる銃捌きと、副次的に使っているらしいワイヤーや小太刀による攻撃も相まって、拳銃以外は大した装備もない警官隊はほぼ一方的に狩られる状態だった。なぜか上空に山梨県警のヘリが飛んでいて、そこから警官隊に対する援護射撃が行われているが、相手はそれすらもすべて避けきって順調に警官隊を殲滅しつつあった。

「悪夢……悪夢だ。これは現実じゃない……」

 三木谷はそうパトカーの影で呻くように呟き続けていた。拳銃を握る手は細かく震えており、すでに戦意喪失状態である。

 と、そんな三木谷の前に急にスッと黒い影が立った。ハッとして顔を上げると、黒いセーラー服の少女が場違いな笑みを浮かべながら銃口をこちらに向けている。反射的に銃を向けようとするが、その前に彼女はあくまで可憐な口調で告げた。

「どうも、お疲れ様でございました。ゆっくりお休みくださいませ」

 直後、銃口が火を吹き、三木谷の右腕に激痛が走る。痛みのあまり意識を失った三木谷が最後に見た物は、その場に倒れ込む自分を尻目に悠々とパトカーの運転席に乗り込もうとする、その少女の姿だった……。


「あいつが逃げるぞ!」

 ヘリの中で、藤が歯噛みするように叫んだ。すでに地上の御殿場署の警官たちは壊滅状態で、出雲はそんな中で悠々と一台のパトカーを奪うと、そのまま市街地目がけて走り始めてしまった。蓮も最初こそ上空から発砲を繰り返していたが、次第に場が乱戦になるにつれて警官に当たる可能性が出てしまったため、撃ちたくても撃てない状況が続いていた。蓮が何もできないままでいる間に、いつの間にか出雲の思惑通りに事が進んでしまっていたのである。

「このまま逃がすなんて絶対に許さない!」

 蓮は怒りに燃えた表情で叫ぶ。と、ここで西沢が叫んだ。

「よし、静岡県警本部につながった!」

 ようやく、静岡県警本部に連絡がついたのである。先方からは県警刑事部捜査一課の係長が無線に出ていた。刑事部の係長なら階級は警部。出雲についての情報も知っているはずである。

『県警刑事部捜査一課警部の榎本康行です』

「警察庁刑事局復讐代行人特別捜査本部の西沢です」

『挨拶は抜きにしましょう。一体さっきから何がどうなっているんですか? 御殿場署からの連絡が混乱状態にある中で復讐代行人の特別捜査本部からの連絡とは……』

「詳しい説明は後です! 事態は急を要します。現在、復讐代行人こと黒井出雲が御殿場署のパトカーを奪って陸上自衛隊北御殿場駐屯地から御殿場市内へ向けて逃走中です。すでに北御殿場駐屯地は出雲の手により壊滅状態! 駆けつけた御殿場所地域課の署員たちも排除されています。一刻も早く、県警の総力を持って逃走する出雲に包囲網を敷いてください。このままだと、奴は何をしでかすかわかりません!」

『自衛隊の基地が壊滅した?』

 にわかには信じられない情報に榎本も戸惑っている。が、相手も県警刑事部の警部である。すぐに頭を切り替えたらしく、即座にこう尋ね返した。

『……出雲が逃走中というのは確かなのですか?』

「確かです。現在、山梨県警のヘリで上空から追尾中! 管轄外の空域を飛行している事については後ほど釈明を入れますが、今はそんな事を言っている場合ではありません! とにかく、事態が悪化する前に出雲の暴走を止めるのが先決です!」

『……わかりました。ひとまず県警本部長と相談します。すぐに結論を出しますので、少し待ってください。それと、事態がそのような状況なら管轄がどうだのと言っていられません。管轄外におけるヘリの飛行に関しては、私の権限で許可を出します。すぐにうちの航空警察隊のヘリも合流させましょう』

「ありがとうございます」

『では、後ほど』

 いったん通話が切れる。一方、蓮も東京の佐野に連絡を入れ、現状を報告していた。

「以上が現在の状況です」

『……君たちも随分無茶な事をしたな。だが、自衛隊の駐屯地を丸ごと壊滅させるとは……何かやるとは思っていたが、ここまでの惨事とは……』

 さすがの佐野も、今までの出雲の犯行に比べて明らかに桁違いの惨状に絶句しているようだった。だが、蓮としてはそんな事を言っている場合ではない。

「こうなった以上、もはや待機命令も何もあったものではありません! すぐに刑事局長から静岡県警に応援要請を出してください! いくら立山高校の事件があったとしても、自衛隊の駐屯地が壊滅して、しかも事態は現在進行中となれば上も特別捜査本部の活動を制限する事はできないはずです!」

 蓮の必死の訴えに、佐野は重々しい口調で答える。

『……わかった。すぐに刑事局長に掛け合う。この状況なら優先権はこっちにあるだろう。警視庁の沖田総監や石川副総監にも口出しはさせない』

「お願いします」

『君らも無茶はするなよ』

 電話が切れる。その直後、西沢の操縦するヘリは、御殿場市内を逃走する出雲のパトカーを追いかけ始めたのだった……。


 それから十分後の午前六時半、警察庁刑事局長から静岡県警本部長に対して復讐代行人の捜査に関する正式な捜査協力要請が通達され、この時点を持って、静岡県警が本格的に動き出し始めた。そして間髪入れずに、以下のような無線が県警の全職員に向けて流されたのである。


『至急、至急! 県警本部から各局! 県警本部から各局! 御殿場市内、陸上自衛隊北御殿場駐屯地において、重大事案発生! 同駐屯地自衛官、及び御殿場署員に多数の被害者が出ている! 現在、重要参考人がPC(パトカー)を奪って御殿場市内を逃走中! 近隣県警署員は、当該PCの確保を急げ! なお、被疑者は発砲を繰り返しており非常に危険な状態! 署員全員、最大限の警戒態勢を取られたし!』


 午前六時四十五分、東名高速道路御殿場インターチェンジ。一台の暴走状態のパトカーがサイレンを鳴らしながら突っ込んでくるのを、料金所の係員が呆然とした様子で見つめていた。

「な、何だあれは!」

 係員は咄嗟に料金所のバーを閉じる。が、パトカーはそれを無視するように料金所に突っ込むと、バーを弾き飛ばしながら係員の目の前を通過し、そのまま東名高速へと侵入した。そのパトカーを運転している人間を間近で目撃した係員の口から、思わず言葉が漏れる。

「お……女の子?」

 唖然としている係員だったが、それも直後に今度は複数のサイレンが鳴り響いてくるまでだった。振り返ると、今度は複数のパトカーがサイレンを鳴らしながらこちら目がけて突っ込んでくる。パトカーはETCのレーンを次々通過していくと、そのまま東名高速へと突入していく。どうすればいいのかわからない係員だったが、そんな料金所の真上を、猛スピードで『山梨県警』と書かれたヘリが通過していった。

「何が……何が起こっているんだ……」

 すべてが終わって静けさを取り戻した料金所で、係員はそう呟くしかなかったのだった。


 インターチェンジから東名高速下り線に入った瞬間、出雲の運転するパトカーは走行中の高速バスと接触し、バスはそのままバランスを崩して中央分離帯に接触しながら停車した。それを尻目に、パトカーはそのまま下り方面へ向けて一気に加速していく。

 その後方から、御殿場署のパトカーと、応援として駆け付けた静岡県警高速隊の高速パトカーも追尾していく。大量のサイレン音の中、早朝の東名高速下り線は物々しい空気に包まれつつあった。

 そして、それを上空から追いかけ続けているのが、西沢の操縦する山梨県警のヘリコプターと、こちらも応援として駆け付けた静岡県警航空警察隊所属のヘリコプターだった。

「野郎、派手にやりやがって」

 西沢がそう呟きながら必死にヘリでパトカーを追い続ける。一方、無線には北御殿場駐屯地に到着した御殿場署刑事課からの報告が入ってくる。

『こちら、御殿場署刑事課。北御殿場駐屯地内の捜査を開始。現在負傷者百名、死者一名を確認。死亡者は三竹高菜自衛官。爆発物らしきもので足首を吹っ飛ばされ、脳天を撃ち抜かれて死亡している。我々は県警刑事部の到着まで、被害者の救護活動、及び現場の保存活動に努める』

 それは蓮たちにとって非常に重い言葉だった。各県警で出雲に対する対応ができるのは各県警本部の刑事部の警部以上の面々だけだが、県西部の静岡市に本部を置く静岡県警本部の刑事部の刑事たちが県東部の御殿場市に到着するまでかなり時間がかかる事が想定される。とういより、現状では北御殿場基地の捜査よりも、現在進行形で継続している出雲の暴走劇への対処が最優先になってくる。事態はあらゆる面で後手に回りつつあった。同時に、県警航空警察隊のヘリから全車両に対する無線通信が入る。

『えー、現在当該車両は東名高速道路愛鷹パーキングエリア付近を西へ向かって逃走中。非常に危険な運転をしており、すでに一般車数台が巻き込まれて事故を起こしている模様。見た限り、現在前方に渋滞等は確認できず。よって当面、当該車両が停車するとは思えない。高速警邏隊はすぐさま応援に向かわれたし』

 と、ここで県警本部による割り込み無線が入った。

『県警本部から各捜査員へ告ぐ! 現在、東名高速道路にて発生している自動車暴走事案に関し、道路管理会社との協議の結果、静岡県内の東名高速下り線の封鎖が決定した! 状況はさらなる事故が誘発されかねない状況である。県警捜査員は県内各所のインターチェンジを直ちに封鎖し、一般車両のこれ以上の高速道路への侵入を阻止されたし! 繰り返す! 県警捜査員はすぐさま最寄りのインターチェンジを封鎖し、一般車両侵入を防がれたし! また、現在高速内を走行中の車両に対しては、適宜最寄りのインターチェンジから出るか、最寄りのパーキングエリアに退避する等の誘導を指示されたし!』

「静岡県警が思い切った判断に踏み切ったぞ」

 藤が緊張した様子で呟く。早朝間近で通勤ラッシュによる渋滞が想定されるこの時間帯に東名高速道路を封鎖するのは、日本の主要物流ルートを潰すのと同じである。それによる混乱がどれほどのものになるのか、藤たちには想像もできなかった。

「県警の動きが予想以上に早いですね。しかし、一体奴はどこまで逃げるつもりだ!」

「この先のインターチェンジはどうなっているんですか?」

 蓮が窓から下を暴走し続ける出雲のパトカーを睨みながら尋ねる。

「今、愛鷹パーキングだから……十五キロほど先に富士インターチェンジ、その約二十五キロ先に清水インターチェンジで、その次は静岡インターチェンジが約十五キロ先にある」

「静岡市まで約五十五キロ……その間にインターチェンジは三つだけですか」

「あの速度なら一時間以内に静岡インターチェンジまで到達してしまうぞ。その先は焼津や浜松だが……まさかこのまま愛知県まで抜けるつもりか?」

 藤が呻く。実際、暴走するパトカーは明らかに時速一〇〇キロ以上は出ていた。

「いや、待ってください。確か富士川サービスエリアにETC専門のスマートインターチェンジがあるんじゃないですか? そこからなら強引に高速を脱出できるはずです」

 西沢の指摘に、しかし藤は首を振った。

「さっき県警の無線を聞いたが、その富士川サービスエリアのスマートインターチェンジも県警が封鎖したらしい。その辺はさすがにぬかりはなさそうだ」

「なら、奴はどこから高速を脱出するつもりなんだ……」

 と、ここで県警本部から新たな無線が入った。

『県警本部から各捜査員へ! 清水インターチェンジ手前での検問の実施を許可する。そこで当該車両を食い止めろ。繰り返す、清水インターチェンジ直前で検問を実施! 当該車両確保まで検問を絶対に解くな!』

「県警は封じ込めに出るつもりだ」

「清水インターという事は、ここから約四十キロほど先ですね」

「そこで止まればいいんだが……相手は出雲だ。嫌な予感がする」

 西沢が深刻そうな声でそういうのを、二人は重苦しい表情で聞いていた。


 午前七時、静岡市内にある静岡県警本部は緊迫した空気に包まれていた。県警本部長室には、出雲の情報を知る静岡県警本部長の天谷信正警視長の他、県警刑事部長の三松藤助警視正、そして県警刑事部捜査一課係長の榎本康行警部の三人が集まり、深刻な表情で状況への対処を行っていた。

「まさか出雲とはな……。できれば、私の任期中に来てほしくはなかったが……」

 天谷本部長が苦々しい表情で言う。その横で、三松刑事部長が榎本に尋ねた。

「状況はどうなっているね?」

「北御殿場駐屯地壊滅の情報については、現在御殿場署刑事課が改めて現場の捜査を実施しています。出雲の情報を知る本部刑事課の警部二名がすでにヘリで北御殿場駐屯地に急行していますので、出雲絡みの詳しい情報はいましばらくかかりそうです。なお、先行して壊滅した御殿場署地域課の面々は病院に搬送されていますが、命に別状のある人間はいないとの事。ただ、駐屯地の自衛官及び御殿場署地域課署員を含め、負傷者は数百名規模になる事が想定されます」

「数百名……」

「現在東名高速で逃亡を続けている出雲に対して対処を誤れば、犠牲者はさらに増加する危険性があります。事件は現在形で進行中です」

 榎本の厳しい言葉に、天谷は呻き声を上げた。

「……三松君、これからどうするつもりだね?」

「すでにネクスコ中日本、県知事、及び国土交通省との交渉で、静岡県下における東名高速道路の一時閉鎖を決定しています。何しろ相手は自衛隊の基地を壊滅させた奴です。そう言ったら比較的スムーズに話が進みました」

「だが、逆に言えば静岡県下で何とかしないと後がなくなるという事だ。それに誘導はしているとはいえ、すでに高速に進入している車両をすぐに追い出す事はできない」

「その通りです。ですから、清水インター付近で検問の実施を許可しました。機動隊及びSIT(刑事部特殊事件捜査係)ら県警の精鋭を集結させて、ここで何としても食い止める所存です。それと、警察庁刑事局長を通じて愛知県警に対してSAT(特殊急襲部隊)の出動も要請しています。許可が出次第、彼らも駆けつける事になっていますが、それがいつになるかは現時点では不明です」

 日本警察の誇る特殊部隊・SATは全県警に設置されているわけではなく、いくつかの大規模県警に分散して設置されている。静岡の場合、一番近いSAT設置県警は愛知県警となり、県内でSATの出動が求められる事件が発生した場合は愛知県警に対する応援要請が必須となるのだ。なお、SATは自衛隊などと違って一般人に対する被害を最小限に抑えるために最初から犯人を排除する事を目的としており、指揮者である県警本部長らの命があれば速やかに犯人を射殺する事が可能となっている。その意味では、出雲からしてみれば自衛隊以上に厄介な相手なのは間違いなかった。

 しかし、それでも天谷の表情は変わらなかった。

「……だが、今までの出雲の行動を見る限り、検問で停車した一般車に被害が出る可能性が高いのではないかね?」

 天谷の指摘に三松は厳しい表情で頷く。

「事がここに至ってはやむを得ないかと。このまま何もせずに出雲を暴走させた場合、被害は明らかに拡大してしまいます。苦渋の決断です。ただ、これでも確実に防げる保証はあるかと言われれば……」

 三松が口ごもる。それで天谷はすべてを悟ったようだったが、それを振り切るように榎本に指示を出した。

「とにかくベストを尽くしたまえ。このまま県下で好き放題されるわけにはいかん。捜査員全員に発砲許可を出す。何としてもここで食い止めろ!」

「もちろんです」

 榎本は真剣な表情で頷いたのだった。


『現在、目標車両は富士インターチェンジ付近を通過! 一般車両による事故も複数発生している! 清水インターチェンジまであと二十五キロメートル! 現在の推定速度は時速一〇〇キロから一五〇キロ! 到達予想時間は推定十分から十五分前後! 厳重に警戒されたし!』

 無線から流れるそんな声を聴きながら、出雲はハンドルを鋭く切って前を走る一般車両をギリギリのところで避け続けていた。その余波を受けて一般車両が後方で急停車したり事故を起こしたりしているが、それが逆に追いすがる高速パトカーを邪魔する事につながっている。無論、出雲としてもそうなる事を予想した上での意図的な運転のやり方である。

「県警の動きが早うございますね。もう少し先のインターで検問をするものかと思いましたが、清水とは準備がいい事でございます」

 清水で検問が実施されるという情報はすでに警察無線で流れていて、パトカーを運転している出雲にもこうして何の問題もなく聞こえている。が、県警としてはパトカーで逃走を続ける出雲が聴いている事を前提にわざとこの内容を無線に流しているらしく、前が検問で封鎖されている事を知らせた上で出雲の出方を伺っている様子である。もちろん、具体的な部隊の人数や配置など本当に重要な情報は一切流れてこない。

「さて……どうしたものでございましょうか。手前で一般車が渋滞を起こしているでしょうし、さすがにパトカーのまま検問を突破するのは難しい話でございます。となれば……」

 出雲は一瞬周囲を見回すと、やがてある一点で目を止めた。

「……あれを使わせて頂きましょうか」

 そう言うと、おもむろに出雲は走行中の運転席のドアを大きく開け、さらにマグナム拳銃を取り出してドアのつなぎ目に狙いを定めた。

「少々過激でございますが、致し方ありません」

 直後、轟音と共に銃が火を吹き、次の瞬間運転席のドアが車体から弾け飛んで路面に落下する。後方で一般車や高速パトカーが急ブレーキをかけ、中にはどこかにぶつかっているような音も聞こえるが、出雲は気にする事なくそのままアクセルを踏んで一気に速度を上げた。その視線の先にあるのは、先行して走っている高速バスの巨大な車体だ。あっという間にパトカーは高速バスの左側に並走する形となる。それを確認すると、出雲はドアのなくなった運転席から再度マグナム拳銃を構えて、凄惨な笑みを浮かべた。

「さて……では、失礼させて頂きます」

 そう言うや否や、出雲は右手一本で高速バス左前方にある昇降口のドアのつなぎ目目がけて立て続けに発砲した。バスのドアはひとたまりもなく落下し、密閉されたバスの車内に猛烈な風が吹き込む。運転手が慌ててブレーキを踏もうとする姿が見えるが、出雲はすかさずその足元の床に銃弾を撃ち込み、運転手に対して微笑みながら宣告する。

「そのまま速度を落とさずにお願いします」

 そして一度銃をしまうと、右手でハンドルを切りながら助手席に置いてあったキャリーバッグを左手でつかみ、直後、パトカーをバスの車体にぶつけながらドアのなくなった入口からバスの車内に飛び移ってしまった。黒い長髪をなびかせながらバスに飛び移る漆黒のセーラー服に包まれた出雲の姿は、まるでバスに襲い掛かる巨大なカラスそのものである。運転手のいなくなったパトカーはバランスを崩し、バスにぶつかった反動でそのまま反対側の側壁に激しく衝突し、直後に鋭い爆発音が響いた。バスの車内から動揺の声が響く。

 が、出雲は即座にバスの運転席に駆け寄ると、青ざめた表情で呆気にとられている運転手に手刀を食らわせて気絶させ、乗客を銃で牽制しながら気絶した運転手を後ろの方へ放り、代わりに自分が運転席に腰かけた。そのまま車内マイクに向かって話しかける。

「ご安心ください。下手な事をしない限り危害を加えるような事は致しません。ただし、邪魔をするのであれば容赦は致しません。しばしの間、シートベルトを締めておとなしくしておく事をお勧めします」

 その言葉に、乗客はどうする事もできずに、皆が皆青ざめた表情で出雲に指示に従った。

「さて……これで準備は整いました。あとは向こうがどう出るかでございますね」

 そう言うと、出雲はアクセルを一気に踏んでバスの速度を上げたのだった。


『出雲が車を乗り替えた! 走行中の高速バスをジャックし、現在も暴走中! バスは青の車体で、現在興津トンネル手前を走行している! 厳重に警戒されたし! なお、今まで乗っていたパトカーは側壁に衝突して大破炎上中! 消防の出動を要請する!』

 航空警察隊の無線から響く連絡に、東名高速下り線と清水インターチェンジの合流地点付近で検問を実施している県警刑事部と警備部機動隊、それにSITの面々は緊張した表情を浮かべていた。ここで出雲を食い止めるべく総力を結集している状況で、インターチェンジは一般車ですでに満杯状態となり、かなりの渋滞が発生してしまっている。

「何を考えている……バスになんか乗り換えて何をするつもりだ!」

 指揮を執る静岡県警警備部機動隊の隊長が険しい表情で言う。と、SITの捜査員の一人が少し青ざめた表情でこんな事を言った。

「まさか……バスの巨体に任せてそのまま渋滞に突っ込むつもりでは?」

 その言葉に、誰もが息を飲む。そんな事になったら一般市民への被害は計り知れない。

「隊長、どうしますか! もう間もなく、奴は渋滞の最後尾に到達します!」

「今、渋滞の最後尾はどの辺だ?」

「ちょうど袖師トンネルを出た辺りです! 現在、機動隊第三班と第四班が誘導のために周辺で待機中!」

 富士インターと清水インターの間には五つのトンネルが存在し、袖師トンネルはその中でも清水インターに一番近いトンネルになる。ちなみに先程無線で流れていた興津トンネルは五本の中でちょうど真ん中のトンネルに相当し、そこから清見寺トンネル、袖師トンネルを経て清水インターに到達する順番だ。検問による渋滞は、その袖師トンネルを抜け出たところから清水インターの辺りまで続いている。そんなところにバスで突っ込まれたらどんな被害が発生するかなど予想もできないし、考えたくもない。隊長は思わず無線に叫んでいた。

「第三班と第四班は袖師トンネル下り線の入口付近に移動! 渋滞はまだそこまで至っていない! トンネルに入る前にバスを食い止めろ!」

『し、しかしどうやって! バスには乗客が……』

「とにかく猛スピードで渋滞に突っ込まれる事態だけは避ける必要がある! 止められないにしても、タイヤを撃つなりして速度を落とせ! すでに本部長から発砲許可は出ている! それができなければ、どのみち乗客には被害が出てしまう!」

『了解!』

 まもなく迎える出雲との邂逅を前に、清水インター付近では一気に緊張が高まる事となった。


 一方、上空から出雲を追う西沢らのヘリも、清水インターチェンジに近づきつつあった。そのはるか下では何台ものパトカーに追われながら、青の大型バスが今しがた興津トンネルを抜け出たところである。この先に清見寺トンネルがあり、そこを抜ければすぐに機動隊が待ち構える袖師トンネルの入口だ。

「西沢さん、トンネルを先回りしたらどうですか?」

 蓮が提案するが西沢は首を振る。

「いや、何か嫌な予感がする。少し様子を見よう」

 間もなく、バスは清見寺トンネルの入口付近に到達しようとしていた。清水インター……と言うよりその手前の袖師トンネルまでもう五分もない。そう思って西沢が一瞬腕時計を確認して再びバスを見やった時だった。

「なっ……」

 それは、あまりにも予想外の行動だった。

「ば、馬鹿かあいつ! そんな事をしたら……」

 西沢の視線の先には、清見寺トンネル手前にある上下線の連絡誘導路があった。本来はトンネル工事や点検の際に工事車両などが車を止めたり、トンネル災害が発生した時の避難場所として設定されたりしている場所で、その用途故に高速道路の中でも上下線双方に接続しているエリアである。当然、通常においてこの場所は立入禁止であり、実際に手前には車止めが設置されていたのだが……。

「畜生っ!」

 誰もが信じられない思いでいた。出雲の運転する高速バスは、一切速度を落とす事もないままトンネルではなく手前のその誘導路に突入して、車止めを弾き飛ばしながらそのまま上り車線へ侵入。走ってくる車にぶつかりつつも、上り車線を逆走しながら一切速度を緩めずに上りの清見寺トンネルへと侵入してしまったのである。

 直後、西沢は思わず無線に向かって叫んでいた。

「緊急事態! 出雲の運転するバスが清見寺トンネル手前で上り車線に侵入! 現在、バスは上り車線を逆走しながらそちらへ向かっている! 繰り返す! 現在バスは東名高速上り線を、スピードを緩めることなく愛知方面へ向けて逆走中!」

 そう叫ぶ横で、藤が絶句していた。

「無茶苦茶だ……映画じゃあるまいし、高速道路を逆走しにかかるなんて……」

 そんな中、バスは清見寺トンネルを抜け、上り車線を逆走したまま清水インター目がけて爆走を続けていたのであった。


 車内で悲鳴が上がる中、出雲はバスをトンネル手前の連絡誘導路に突っ込ませ、そのままの勢いで上り車線へと侵入した。侵入する際にクラクションを鳴らしながら突っ込んできた乗用車を跳ね飛ばし、一切速度を落とす事無く上り車線を逆走しながらトンネルに侵入する。突如現れた逆走バスに上り車線はパニック状態で、前からくる車がバスを避けようとして次々と事故を起こしている。中には避けきれずにバスにぶつかってくる車両もあったが、バスの大きさゆえに弾き飛ばされる事が大半だ。

 そのまま清見寺トンネルを抜けると、すぐ先に袖師トンネルが見える。下り線の袖師トンネル入口では指示を受けた機動隊員たちが待ち構えていたが、出雲のまさかの暴挙にどうする事もできずにその場で棒立ちになっている。悪い事に、袖師トンネルは清見寺トンネルと違ってトンネル出入り口付近に両車線を接続する連絡誘導路が存在せず、しかもこの区間においては二つの車線は独立した高架として完全に分断されてしまっている。ゆえに、下り線にいる隊員たちが上り線の車線へ行く事は、この袖師トンネル入口では不可能になってしまっていた。

「予想通りでございますね」

 出雲はそう呟くとさらにバスの速度を上げ、機動隊員たちが歯噛みしてこっちを見る中、猛スピードで上り線の袖師トンネルへと突入した。前から突っ込んでくる車のブレーキ音やクラクションの音がトンネル内に響き渡るが、出雲はそれを鋭いハンドルさばきで避け続けながら前進し、そのままスピードを落とさずに袖師トンネルを抜け去る。そして、隣の渋滞している下り線を尻目に、封鎖が全くなされていない上り車線を一般車をはねのけながら一直線に逆走していく。

「まるでいつぞやの『スピード』とかいう映画でございますね」

 自分自身の行動に対して出雲がそんな事をうそぶく中、やがてバスは検問が実施されている下り線の清水インターチェンジ出口の横を何の障害もなく通過した。だが、その先を見て出雲は目を細める。前方から、二台の大型トラックっが並走して走ってくるのだ。いくらバスでもこれは突破できない。

 だが、出雲は慌てる事なくチラリと横を見た。すでに先程分かれていた高架はインターチェンジ付近になって再び合流しており、上下線の境には中央分離帯が存在するだけである。

「さて……検問も突破いたしましたし、もうここを走る理由はございません」

 そう言うと、出雲は何を思ったのか左に急ハンドルを切り、そのまま中央分離帯に猛スピードでバスを突っ込ませる。轟音とともに中央分離帯のコンクリートが砕け散り、バスはそのまま強引に検問の先の下り車線へと再び侵入した。元いた上り車線を見ると、前から突っ込んできた二台のトラックが慌てて急ブレーキをかけているのが見える。

 だが、出雲も下り車線に戻った時点で突然道路を横にふさぐような形でいきなり急ブレーキをかけると、そのまま車内マイクに向かって乗客にこう呼びかけた。

「さて皆さま、名残惜しいですが、ここで降りて頂きたいと思います。もちろん、このまま乗り続けたいなどという奇特な方を止めるような事は致しませんが、その場合は命の保証はできかねません。逆に、今降りて頂けるのであれば、命の保証は致します。そんなわけで……今から一分以内に下りて頂きましょうか」

 そう言った瞬間、一瞬客席は静まり返ったが、やがて先頭の座席にいた乗客が悲鳴を上げながら出口から飛び出したのを皮切りに、他の乗客たちも我先にと出口に殺到した。見ると、この状況にインターの検問にいた刑事たちが慌ててこっちへ向かってくるが、飛び出してくる乗客たちへの対応でバスに近づく事ができない。やがて、最後に先程気絶した運転手を肩に担いだ交代要員の運転手が飛び降り、バスには出雲一人になった。

「これで、心置きなく先へ進めます。では、失礼して」

 そういうや否や、出雲はどこから取り出したのか手榴弾状の物体のピンを抜き、それをバスの出口から逃げまどっている乗客の方へと放り投げた。直後、乗客のいる当たりの路上で鋭い閃光が走り、乗客や駆け付けた刑事たちが目を抑える。

「く、くそっ! スタングレネードだ!」

 刑事の一人が叫ぶ声が聞こえる。が、出雲はそれを尻目に再びアクセルを踏み、一気にバスを急発進させて暴走を再開させた。

「さぁ、ここからが正念場でございます。捕まえられるものならば捕まえてご覧くださいませ!」


「検問が突破されただと!」

 静岡県警に設置された対策室で、天谷本部長はもたらされた報告に激高していた。

「現在、目標の乗ったバスは静岡インター方面へ向けて逃走中! 検問により一般車の数はかなり減っていますが、それでもまだ相当数の一般車が高速を脱出できていません! また、突破の際にバスが侵入した清水インター付近の上り車線では事故が多発! 負傷者がかなり出ている模様!」

 通信担当の捜査員が状況を報告する。それを受けて、三松刑事部長ががすかさず指示を出した。

「次の静岡インターで再度検問を実施できないか? 今度は上り線も含めてだ!」

「無理です、到達まで時間がなさすぎます! 総力を清水に集中させ過ぎていた事もあって、今から静岡で検問を実施しても体勢を整えられません!」

「この県警本部から増援を送れないのか! ここから一番近いインターだろう!」

「東名高速の封鎖、及び検問の実施に伴い、ラッシュアワーを迎えている静岡市と焼津市の公道各所で大渋滞が発生しています。いくら近いとはいえ、この状況で時間内に増援を送るのは物理的に不可能です」

 榎本が厳しい表情でそう告げた。三松は反論する。

「だが、静岡インターから静岡市内に下りられたら最悪の事態になるぞ!」

「検問は無理ですが、インターチェンジそのものの封鎖は可能です。ひとまず静岡インターでは、確保ではなく奴が下に下りない事に全力を注ぐべきかと」

「くそっ!」

 が、榎本はすでに次の策を練っていた。

「ここは静岡インターではなく次の焼津インターで勝負をかけるべきです。清水インターから静岡インターまで約十五キロ、静岡インターから焼津インターまでは約十二キロ。合計二十七キロありますから、焼津ならギリギリ検問が間に合います」

「だが……あの場所には……」

 三松がためらうようなそぶりを見せる。それも無理はなく、この静岡~焼津間にはある不確定要素が存在しているのだ。榎本がその答えを告げる。

「部長の心配はわかります。日本坂トンネル……ですね」

 三松は頷いた。

「あぁ。全長二.五キロ、東海の大動脈になっている東名高速最長のトンネルがこの区間にはあるんだぞ。もしここで何かあってトンネルに被害が及べば、流通に与える被害が深刻なものになる。実際、三十年ほど前に起きた日本坂トンネル火災事故の時は、流通の停止から日本経済に無視できない影響が出ている。あれの二の舞を平成の今になって起こすわけにはいかない!」

「ですが、現状では焼津での食い止めが最善の方策です。無理して静岡で勝負をかけても、出雲相手では……」

「……くそっ、それしかないか!」

 と、ここで通信役の捜査員が新たな報告を受け取った。

「愛知県警からです! 警察庁刑事局長の要請を受け、SATの出動が許可されたそうです! 現在、ヘリで移動中との事!」

「現在位置は?」

 伝えられた位置を聞いて、榎本の表情は険しくなった。

「……その地点ではやはり静岡インターでは間に合わないな。そのまま焼津インターへ向かうよう指示を出してくれ。そこなら勝機はある」

「了解です!」

 榎本は支持を終えると、改めて天谷本部長の方を見やった。天谷は重々しく頷く。

「致し方ない。そこに賭けよう。その代り、必ず焼津で食い止めろ!」


「県警は焼津インターで勝負を賭けるつもりだ」

 東名高速上空を飛ぶ山梨県警のヘリの中では、西沢が無線から流れる情報を蓮に伝えていた。藤が難しい表情を浮かべる。

「静岡インターは捨てるか……」

「距離の問題でしょうね。静岡では近すぎで体勢が整えられないと踏んだんでしょう。その代り、インターを封鎖して出雲が下に下りる事だけは防ぐ構えのようです」

「うまくいけばいいんだが……厄介だな」

 藤の表情が険しくなる。彼も、その間にある日本坂トンネルの事を心配しているようだった。何しろヘリから出雲を追う西沢たちからすれば、出雲が視界から消える瞬間が二.五キロも続いてしまうのだ。当然、その機会に出雲が何かを仕込んでくる可能性が容易に予測できた。

「もしかしたら、出雲もそれを見込んで東名を逃走経路に選んだ可能性があります。何をしてくるかまでは、正直予想できませんが」

 一方、蓮は物凄い形相で下を走る高速バスを睨みつけていた。速度は時速一〇〇キロを軽く超えており、ラッシュアワーだけあって検問で減っていた一般車の数も次第に増えてきている。バスはその一般車の間をすり抜けるように暴走していた。

「出雲……何を考えているの……」

 蓮はそう言いながら、手に持つ拳銃のグリップを強く握りしめていた。


 時刻はすでに午前八時を迎えようかというところである。日はすでに昇っており、朝日が照らす中、出雲の運転するバスは疾走を続けていた。県警は出雲が一般道に下りる事を警戒して静岡インターを封鎖していたようだが、元よりこんなところで下りるつもりはなく、つい先程静岡インターをあっさりと通過したところだった。時間的に考えて静岡インターで検問が実行される可能性は出雲も低いと見ており、実際にそれは的中していた。

「ここまでは予定通りでございます。さて……いよいよでございますね」

 出雲の視線の先には、焼津へと続く東名最長の長大なトンネル……日本坂トンネルの入口が見え始めていた。チラリとバックミラーを見ると、何台かの高速パトカーが追跡を再開してバスの後をぴったりと追走しているのが見える。また、空を見ると数機のヘリがこちらを追尾しているのがよくわかった。

「ご苦労な事でございますが……私も忙しゅうございます。鬼ごっこはここで幕引きといたしましょう」

 そう呟いた瞬間、バスは日本坂トンネルに侵入した。ここから先しばらくはヘリによる監視はない。それを確認すると、出雲はおもむろに自分の右にある窓ガラスを銃の台尻で叩き割った。車内に吹き込む風がさらに激しくなり、同時に後ろから響いてくる高速パトカーのサイレンの音がより大きくなる。

 それを確認すると、出雲は右手でハンドルを握りながら横に置いたキャリーバッグを軽く叩き、そこからいくつか飛び出したものをそのまま左手でキャッチした。それは、先程投げつけたスタングレネードと同じ形をしたものだった。ただし、よく見ると側面に描かれているラインが先程投げたスタングレネードとは違う。スタングレネードのラインが黄色だったのに対し、今出雲が手に持っているのは赤のラインである。

「黄色のラインは閃光弾……一般的に言うスタングレネードでございますが、赤は通常の手榴弾式の爆弾でございます。まずは、これをこのように」

 出雲は誰ともなしにそう呟くと、それを無造作に後ろ手で後部の客席の方へと放り投げる。その後、何度かキャリーバッグを叩いて同じものを取り出しては客席の方へ放り投げるという動作を繰り返す。

「その上で……次はこれでございます」

 そう言うと、出雲は再度キャリーバッグを叩いて、今まで同様にいくつかの手榴弾を取り出した。が、今までの赤いラインと違って、今出雲が手に持っているものは黄色のラインと、そして白のラインのものが混在している。それを右手に持ち帰ると、出雲は左手だけでハンドルを器用に操りながら凄惨な笑みを浮かべた。

「赤は爆弾、黄色は閃光弾、そして白は……煙幕弾でございます」

 そう言った次の瞬間、出雲は先程割った右の窓から、手に持った閃光弾と煙幕弾を無造作に道路へとばらまいた。ばらまいたそれが道路に落ちる音がトンネル内に響き渡り……

 次の瞬間、日本坂トンネル下り線内で、轟音と共に激しい煙と閃光が発生したのだった。


「畜生っ!」

 高速パトカーで暴走するバスに必死に追いすがっていた静岡県警高速警邏隊の丸川武一警部補は、目の前で突如発生した煙と閃光に思わずそんな叫び声を上げてブレーキを踏みこんでいた。視界はあっという間にゼロになり、トンネルのあちこちで同じく急ブレーキをかける音が響いているのが聞こえる。同じく追いすがっていた他の高速パトカーも同様にブレーキをかけて何とか事故を防ごうと必死だ。

 助手席に座る若い巡査部長が顔を青くしながら叫ぶ。

「警部補、これは……」

「絶対に窓を開けるなよ! 煙が車内に入ったらこれ以上の追跡が不可能になる! それより、本部に報告!」

「了解!」

 巡査部長は無線を手に取って本部に連絡を入れる。

「こちら高速警邏隊12! 現在、日本坂トンネル内で白煙及び閃光が発生! 煙幕弾及び閃光弾によるものと思われ、トンネル内での走行は困難! 視界不良につき目標の動向は不明! トンネル内ではこれによる事故が発生しているようで……」

 と、そこまで言った時だった。不意にこれまでにないほどのキキィッという甲高い音と、直後に何かが派手にぶつかる音、そしてドンッという腹に響くような爆発音が響いたと同時に、未だに煙でよく見えないトンネルの奥で何かオレンジ色の発光が確認された。

「何だ!」

 思わず丸川は叫ぶ。と、同時に非常ベルが鳴り響き、天井からスプリンクラーが放水を始める。間違いない、何かが燃えている。

「トンネル内で何かが炎上中! 繰り返す、トンネル内で何かが……」

 巡査部長が報告する中、丸川は意を決してゆっくりとパトカーを前進させた。一連の出来事で急停車している一般車の間をすり抜けているうちに、スプリンクラーの水で徐々に煙幕が消えていく。が、それと同時に奥の方で燃える何かの姿が鮮明になってきた。

「こ、これは……」

 そこで燃えているものを見て、丸川は絶句した。パトカーの三十メートルほど先……そこにはトンネルの側面に正面から突っ込み、派手に炎上をしている一台の大型バスの姿があったのである……。


『トンネル内でバスが炎上! 繰り返す、トンネル内でバスが壁に衝突して大破炎上! 炎の勢いが強くて、犯人の姿は確認できず!』

 その報告を聞きながら、西沢たちは呆然とした様子で上空から眼下の日本坂トンネルを見つめていた。バスがトンネルに入った時点で、西沢は先回りをすべくヘリを二.五キロ先の日本坂トンネル出口付近に飛ばしていた。そして、そこからバスが出てくるのを待ち構えていた矢先に、無線からトンネル内で煙幕弾が炸裂し、その直後にバスが炎上している旨の連絡が入ったのである。

 下の出口からは最初大量の白い煙と慌ててトンネル内から脱出してくる一般車が出てくる姿が確認できていたが、しばらくすると白い煙は一気に黒煙となり、出口付近で急停車した一般車からはドライバーが次々トンネル横の連絡誘導路に避難しているのが見えている。だが、空から見た限り彼らの中に出雲の姿はない。

「炎上って……まさか自爆したか?」

 藤が呟くが、それに対して西沢は大きく首を振った。

「あり得ません。あの出雲に限って、そんなお粗末な事は絶対にあり得ない!」

「だが、見ている限り出雲が他の一般車を乗っ取って脱出した形跡はない! もし奴が死んでいないなら、まだトンネル内にいるとしか思えない!」

 その言葉に、西沢は思わず無線に叫んでいた。

「高速パトカーは周囲に注意してください! まだ奴が周辺にいて、パトカーを奪おうとしている危険性があります! それと、焼津インターの検問はもう準備できていますか?」

 それに対しては、先行している焼津インターでの検問の責任者が答えた。

『こちら焼津インター! 検問の準備は既に完了している! まもなく愛知県警のSATも到着する』

「一般車の検問を確実に実施してください! 奴が一般車を乗っ取っている可能性も充分に考えられます! それと、SATに連絡して、日本坂トンネルに来るよう言ってください。もし奴がトンネル内、もしくはトンネルの非常用通路に潜伏しているとすれば、対処できるのはSATだけです!」

『了解した。焼津インターには念のため焼津署の機動隊を増員する。また、周辺の所轄から日本坂トンネルへも増員を派遣する』

「お願いします」

 それから数分して、西の方からヘリが一機飛んでくると、そのまま日本坂トンネルの出口辺りでホバリングを始めた。そして、そこから黒ずくめの重武装の男たちがロープを伝って降下してくる。日本警察の切り札……SATの面々である。彼らは機敏な動きで入り口近くにある誘導連絡路に集結すると、そこにある非常用通路の入口から次々に突入していく。これから彼らはトンネルの非常用通路に出雲が潜伏していないのかを確認するのだ。

 ほぼ時を同じくして、駆けつけた県警の増援のパトカーが次々と日本坂トンネル周辺に集結しつつあった。降りてくる全員が重武装で、さらにそこにバスの消火のために消防車も駆けつけてくる。彼らは慎重な様子で上下線双方のトンネルに突入していき、中を確認しにかかった。日本坂トンネルは少し変則的なトンネルになっていて、下り線が一本だけなのに対して上り線は左右二本のトンネルが存在する。これは焼津から静岡に行く車両が多く毎回のように渋滞が発生していた事から、渋滞緩和のために元々下り線だったトンネルを上り線に転用して分岐させたことによるものであるが、それゆえにこのトンネルは二.五キロのトンネルが三本も並列しているという事になるのである。そう考えると、このトンネルはとんでもない巨大建造物と言っても過言ではない。

「全部合わせて七.五キロ。非常用通路も二本あるから、それを合わせると十キロを超える。それを全部確認するとなれば、これは相当に時間がかかるぞ」

「出雲の狙いもそれでしょうか?」

 西沢の呟きに蓮が問いかける。西沢は首を振った。

「わからない。ただ……何か嫌な予感がする」


 ……それから二時間が経過した。すでにバスは突入した消防によって消火され、その残骸の中に出雲の遺体がない事はすぐに確認された。だが、SAT及び静岡県警の捜査員によってこの長大なトンネル施設のすべてが確認されたが、そのどこにも出雲の姿は存在しなかったのである。

「どうなってる……どうして見つからない!」

 連絡を受け、藤が呆然とした様子で叫んだ。西沢たちは依然として上空からトンネルを見下ろしているが、不審な人間が捜査中に出て行った痕跡は全くない。反対側の出口には静岡県警航空警察隊のヘリが張り付いているが、こちらも同様の結果だった。出雲は日本坂トンネルから忽然とその姿を消してしまったのである。

「焼津インターの検問はどうなっていますか?」

 西沢の問いに、検問をしていた刑事の一人が答える。

『来た車は一台残らず確認したが、ジャックされているような車は確認できず。もちろん車内も一通りは確認したが、隠れている形跡もない。すでにすべての一般車が検問を通過していて、現在検問には一台も車がない状態だ』

「なら、奴は一体どこへ……煙と一緒に消えたわけでもあるまいし」

 西沢が呻く。もちろん、県警本部でもパニックになっているようで、念のために県下各所で検問を実施しているようだが、仮に脱出していたとしてこれだけ時間が経ってしまえばもう捕まえるのは絶望的と言ってもいいだろう。それは西沢にもよくわかっていた。

 と、そこで別の高速パトカーからの無線が入った。

『えー、現在東名高速上で発生している各交通事故についての状況を報告する。負傷者は百名を大きく超える見込みではあるが、現在のところ死者は確認できず。繰り返す、負傷者は多数発生しているものの、死者はゼロ。引き続き事故処理を続行する。以上』

 その報告に西沢が呻き声を上げる。

「あれだけの事をやっておいて死者ゼロ……こんなところまで自分に課したルールを徹底させてくるとは、ある意味、背筋が寒くなってくる。この状況なら普通一人くらい死者が出てもおかしくないぞ」

 一方、蓮は後部座席で何やら機器を操作していた。それはヘリに搭載されているヘリテレのモニターで、画面には先程の日本坂トンネルでの騒ぎの際の映像が映し出されている。どうやら映像の再検証を行っているようだ。

「どうだい? 何かわかったか?」

「いえ……何度見ても、事件直後にトンネルから脱出した車に出雲の姿は確認できませんし、出雲がどさくさに紛れて脱出した様子もありません。やっぱり、まだトンネルから出ていないとしか……」

「だけど、県警が散々捜索しても発見できなかったんだ。もう脱出していると考えた方が筋が通る」

 だが、蓮は納得しない。

「でも、どうやってですか? いくら出雲でも超能力者とかそんなんじゃないんです。生身の人間である以上、姿を見せずにトンネルから消えるなんて不可能です」

「確かに……トンネルから一人で脱出するのには無理があるな。せめてどうなったのかさえわかれば、次の方策を練れるんだが……」

 西沢が悔しそうに言う。と、その時だった。

「待ってください。今、何て言いました?」

 蓮が何かに気付いたような声を上げた。

「何って、トンネルから一人で脱出するのには無理がある……ん?」

 そこで西沢も何かに気付いたようだった。と、すかさず蓮が再度ヘリテレの映像をチェックする。その視線がある一ヶ所に止まった。

「これ!」 

 そこには、白煙が立ち込めた直後にトンネルから出てきた一台のタンクローリーの姿があった。タンクには『天然ガス』の文字が書かれていて、ヘリテレで見る限り運転席には四十台と思しき男が映っている。もちろん、見た限りで出雲の姿はどこにもなく、運転手も出雲に脅迫されているような様子はない。

 だが、蓮は次の瞬間何もかも悟っていた。そして、それは出雲がこの県警による大包囲網を突破して、すでにどこかへ逃走してしまっているという何よりもの証拠になっていた。

 そして、西沢もすぐに同じ考えに至ったようだった。

「すぐに県警に連絡して、タンクローリーを探すように要請しよう。もっとも……今となっては手遅れの公算が高いが……」

 次の瞬間、蓮はヘリのドアに拳を打ち付けながら怒りの形相で絶叫していた。

「い、出雲ォォォォォッ!」

 その絶叫が、今回の事件における警察側の全面敗北を示す合図となったのであった……。


 ……同時刻、静岡県牧之原市。数年後に開港予定の静岡空港の建設地近くにある山林の、誰も来ないような細い山道。そこに一台のタンクローリーがひっそりと停車していた。

 運転席に座る四十代くらいの運転手の男はタバコをふかしながらジッと周囲の様子を伺っていたが、不意に車を降りるとタンクをノックした。

「おい、もういいぜ」

 その言葉と同時に、『天然ガス』の表示がなされたタンクローリーのタンク上部のふたが開き、中から黒い長髪をなびかせた漆黒のセーラー服の女性……黒井出雲が姿を現した。

「お疲れ様でございます。これで今回の仕事はすべて終了でございます。今回も色々無理をして頂き、ありがとうございます……輪廻さん」

 そう言った瞬間、運転席の傍には先程の運転手の姿はなく、代わりにビジネススーツを着た眼鏡の女性……輪廻が厳しい表情で出雲を見上げていた。

「本当にね。自衛隊の駐屯地に潜入する仕事が終わったと思ったら、そのままタンクローリーの運転手に化けて中身のないタンクローリーで東名高速を先行して走ってほしいとか……人使いが荒いにもほどがあるわよ。しかも、午前八時に日本坂トンネルを通過するようにしてほしいとか。時間合わせにどれだけ退避エリアで故障のふりをしたと思ってるのよ。そもそも、空のタンクローリーを用意するのも大変だったし、檸檬さんにかなり無理を言ったわ」

「もちろんそれ相応の報酬は支払わせて頂きます。何にせよ、おかげで無事に逃げ切る事ができました」

 出雲はそう言ってキャリーバッグと一緒に地面に飛び降りると、改めて輪廻に頭を下げた。

 ……あの時、出雲は日本坂トンネルに入ると、トンネル内で先行していた輪廻が運転するタンクローリーの右横でバスを並走させた。すでにバスのドアは破壊されており、距離さえしっかりしていれば飛び移る事に造作はない。そして、トンネル内で閃光弾と煙幕弾を炸裂させると、間髪入れずにキャリーバッグを持ってバスからタンクローリーの側面へ飛び移り、運転手を失ってよろめきながら壁に衝突して爆発したバスを尻目に、走行するタンクローリーの上部のふたを開けて空のタンクの中に隠れたのである。

 あとはそのまま、輪廻が何食わぬ顔で一般車に紛れてタンクローリーをトンネルから脱出すればすべてはお終いである。焼津インターで検問に引っかかりはしたが、輪廻の変装は検問している刑事程度に見破られるような代物ではなく(もちろん、あらかじめ免許などは偽造してある)、いくら警察であっても天然ガスが積んである旨を表示してあるタンクの中身を確認するような事はできない。こうして堂々と検問を突破した輪廻は念のためにそのまま次の吉田インターまで走ったところで高速を降り、こうしてこの場所までやってきたわけである。

「私は物事に対してすべてを一人で無理に何とかしようなどという事は致しません。もちろんできるところまでは一人でできるよう努力いたしますが、一人でできないと判断すれば輪廻さんのような協力者の助けを求める事を躊躇するような事は致しません。私は、とにかく依頼達成のためならばあらゆる手段を持って最善の手を尽くすのが主義でございますので」

「よく言うわよ。一人で自衛隊の駐屯地を壊滅させたのはどこの誰だったかしらね」

 輪廻の皮肉に対し、出雲は微笑みながらこう続けた。

「今頃日本坂トンネルの捜索が終わって、警察も私があの場にいない事に気付いたころでございます。少しでも警察の捜索を遅らせてこちらの逃亡時間を稼ぐには、日本坂トンネルほどの規模のトンネルが必須でございました。それゆえ、今回はこのような作戦を取らせて頂き、輪廻さんにも協力いただいたのです」

「それだけじゃないわよね。先行する私が運転するタンクローリーと並走するタイミングもあれだけの距離があったら合わせやすいし、飛び乗りを決行するタイミングにも余裕ができる。警察に気付かせずにこの脱出劇を実現するには、密閉されていて煙幕がこもりやすくて、上空のヘリからの監視がないトンネルが必要だったはずだから。それができるのは数百メートル程度のトンネルじゃ無理で、二.五キロもの長さがあるあのトンネルでしかできなかった。違う?」

 輪廻の補足説明に、出雲は笑みを浮かべながら一礼した。

「御明察でございます」

「そう言われてもあまり嬉しくないわね」

 そう言いながら輪廻は大きく息を吐いて天を仰いだ。

「それにしても、今回は随分派手にやったわね。あなたらしくもない」

「真相の解明に必要があったからやっただけでございます。それ以上でもそれ以下でもございません。もちろん、それなりの出費もございますし、こんな事は滅多にするような事ではございませんが」

「そりゃ毎回こんな大暴れをされてもらったら、政府も警察ももたないわよ。まぁ、どんな理由であれこれだけの事をした以上、しばらくは裏社会でこの話がもちきりになると覚悟した方がいいわね。まぁ、私が心配するような事でもないし、むしろ私はあなたがひどい目に遭えばいいと思っているわけだけど」

 そう言うと、輪廻はそのまま今しがたタンクローリーで走ってきた道を戻り始める。

「何にせよ、今度こそ今回の仕事は終わりね。私は帰るけど、あなたはどうするの?」

「私も帰らせて頂きます。さっきも言ったように、仕事は終わりでございますのですから」

「そう。なら、今回はここでお別れね。そのタンクはそのまま放っておいていいから。下手な証拠は残していないから警察に発見されても特に問題はないわ」

「左様でございますか。お気遣い、恐れ入ります」

「余計なお世話よ。それじゃあね。できれば、二度と会いたくないけど……そうもいかないんでしょうね」

 そのまま、輪廻はその場を去っていき、すぐに姿が見えなくなった。出雲はそれを見送ると、小さな笑みを浮かべてこう呟く。

「何にせよ……これで本当の意味で、今回の依頼は終了でございますね。それでは……今度こそ失礼させて頂きましょう」

 その言葉を最後に、出雲はキャリーバッグを引きながらおもむろに近くの山林へと足を踏み入れていき、そのまま森の暗闇の中へとその姿を消したのだった……。


 ……その三十分後、蓮の推理を受けて緊急捜索をしていた県警航空警察隊のヘリが山道に停車するタンクローリーを発見したが、すでにその場はもぬけの殻で、それ以上の出雲の追跡は不可能だった。そして、その時点で天谷県警本部長は、出雲の追跡を断念する事を決定した。


 こうして、長かった出雲最悪の事件である「北御殿場基地事件」は、ちょっとした延長戦はあったものの、今度こそ本当の意味で幕を閉じる事になったのである……。

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