第三章 六月十九日 激震
六月十九日火曜日早朝、山梨県警河口警察署。その洗面所で顔を洗っていた西沢に、後ろから蓮が声をかけた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。よく眠れたかい?」
「いえ、事件の事が気になって」
「まぁ、そうだろうね」
西沢はあくびをしながらそう言う。昨日は二人ともこの捜査本部に泊まっていた。捜査本部が置かれる所轄署の道場などでの雑魚寝は捜査一課の経験のある二人にとって初めてのものではないが、未だに慣れる事はない。
「何か情報は?」
「いや、今のところはまだ何もなさそうだ。逆に言えば、出雲もまだ動いていないという事だが……今のうちにこっちもできるだけ捜査を進めておきたいところだ」
洗面を終え、二人は捜査本部のある会議室へと向かう。すでに何人かの刑事が部屋の周囲をうろついていた。だが、彼らの表情も一堂に暗い。
「無理もない……。ここの捜査員たちも色々限界なんだろうな」
「だからこそ、私たちが頑張らないといけないんですね」
「あぁ、そうだ。これ以上、事件を長引かせるわけにはいかない」
そう言いながら、二人は会議室に入り、今までの事件の流れをもう一度整理しようとした。と、その時だった。
「おい、西沢君、いるか!」
飛び込んできたのは藤だった。その表情は明らかに緊張しており、それで西沢たちも何かあったと直感した。
「どうしたんですか。何かあったんですか?」
「あぁ、えらい事になった。もっとも、これがどういう意味なのかはまだわからんが……」
「まさか、また誰か被害者が出たんですか?」
西沢が厳しい声で尋ねると、しかし藤は首を振った。
「いや、そうじゃない。だが、そうであるとも言える」
「意味がわからないのですが……」
「秋口プロデューサーが見つかった」
唐突に発せられたシンプルなその言葉に、西沢たちは息をのみ込んだ。
「本当ですか?」
「あぁ。この近くにある無人の農業小屋の中に放置されていた。発見者は警戒中の内の警官で、パトカーで巡回中に問題の小屋の前で不審火があるのを発見。消火後、小屋の中を確認したら、そこに血まみれの秋口が転がっていたって事だ。そして、その秋口の傍らに、出雲阿国が書かれたカードがあったらしい」
「それは……」
間違いない。出雲が自分の犯行である事を示すために現場に残すカードである。つまり、秋口プロデューサー失踪は、復讐代行人・出雲の仕業である事がこれで確定したという事である。そしてそれは、心臓強盗事件の犯人が秋口である事の何よりもの証明に他ならなかった。西沢ははやる気持ちを抑えながら、状況を把握しようと藤にさらなる質問をぶつけた。
「死亡推定時刻はいつですか? 被害者は……秋口はいつ殺されていたんですか?」
だが、この問いに対してなぜか藤は渋面を作った。
「問題はそれだ。正直、何がどうなっているのか私にはわからないんだが……」
「と言いますと?」
直後、藤は二人に対して想定外の事を告げた。
「秋口は死んでいない。瀕死の重傷だが……生きている。さっき病院に搬送された」
「え?」
思わぬ話に、西沢と蓮は思わず顔を見合わせた。藤は重々しく続ける。
「復讐代行人・黒井出雲は正真正銘史上最悪の殺し屋だ。奴は標的になった人間を必ず殺害する。だが、今回奴はカードまで残しておきながら、結果的にその『標的』を殺していない。……西沢君、これがどういう事なのか、説明できるかね?」
西沢は答えられなかった。今までにない状況に、さすがの西沢も混乱するしかなかったのである……。
『出雲が標的を殺さなかっただと? 確かか?』
電話の向こうで、東京の特別捜査本部にいる佐野が厳しい声で聞き返していた。
「はい。傍から出雲のカードが見つかっています。私も確認しましたが本物です。秋口を襲撃したのが出雲なのは間違いありません。そしてカードが残されている以上、出雲が秋口を『標的』と認定していたのも事実です。標的でもない人間にカードを残すような事は今までの出雲はしていませんから。ですが、現実問題として秋口は重傷ながらも生存し、警察病院に搬送されています。医者の話では両手足すべてに銃弾を受けていて、瀕死の重体だそうです。そのうち左足の銃弾は貫通せずに体内に残っていて、今、県警が摘出した銃弾を調べていますが……おそらく、出雲が普段使っているデザートイーグルの線条痕と一致するはずです」
西沢は携帯電話に向かって当惑気味の声でそう報告する。ここは秋口が搬送された警察病院の入口だが、正直、西沢にも何が何やらわけがわからない状況だった。
「警部、一応聞きますが、今までに奴が標的にとどめを刺し損ねたという事例はありますか?」
『あり得ない。奴ほどの殺し屋が、自身の標的にとどめを刺し損ねるなどという事態は考えられない。それは殺し屋としての信用に直結する問題だ』
佐野はその可能性を即座に否定した。となると、結論は一つしかない。
「なら、奴は過失ではなく、意図的に標的にとどめを刺さなかった事になります。しかし、一体なぜでしょうか?」
『……いずれにせよ、カードが残されていた以上、秋口が心臓強盗事件に関与していた事は間違いないのか?』
佐野の問いに、西沢は現状の状況を答える。
「出雲のカードの件を受けて、県警もその可能性で再捜査を始めています。聞いた話だと、発見時に秋口が着ていた服にルミノール溶液がしみ込んでいて、確認したところその服からは明らかな血痕反応が出たそうです。おそらくルミノールは犯行の証明のために出雲がかけたんでしょうが、だとするなら秋口が返り血を浴びるような何かをしたのは確実です。ただ、秋口には一件目の事件の時に大阪にいたというアリバイがあるんです。秋口に森川景子を殺害する事はできません。県警もそれで当惑しているようなんですが……」
『……もしかしたら、それがこの不可思議な状況のヒントなのかもしれないぞ』
佐野はふと何かを思いついたようにそう言った。
「どういう意味ですか?」
『問題は、奴が斧木からどういう依頼を受けたのかだ。心臓強盗へ復讐してくれと言ったのか、それとも森川景子個人の復讐をしてくれるように言ったのか。この場合、内容によって復讐相手が大きく変わるぞ』
「……まさか」
西沢もその可能性に気が付いた。
『証拠は何もない。あくまで仮にの話だが……もし、二件目以降が秋口による第一の事件の模倣だったとすればどうだ? それなら確かに秋口は心臓強盗だが、森川景子を殺した直接的な犯人ではない。つまり、斧木陽太の復讐相手そのものではない事になる。その差異が、この不可思議な状況を生み出しているとすれば?』
「犯人が二人いるって事ですか?」
『あくまでただの推測だがな。だが、それを調べる必要がある。事によっては、出雲の依頼はまだ完遂していない事になる。さらなる犯行が誘発される危険性があるぞ!』
「すぐに調べます」
それから少し話して、西沢は電話を切った。見上げると、蓮が少し怖い顔でこちらを見ている。
「先手を打たれたな……出雲は思った以上に事件に深く切り込んでいる。少なくとも、秋口の件に関しては完全に先を行かれているようだ」
「これからどうしますか?」
「話は聞いていただろう。捜査を立て直すしかない。単独犯のシリアルキラー説から秋口の模倣説へ切り替える必要があるな。ただ、気がかりなのは何でこのタイミングで出雲が秋口を開放するような真似をしたのかだ。発見のきっかけになったボヤ騒ぎも、多分出雲の差し金だろう。つまり、奴は最初から瀕死の秋口を県警に見つけさせるつもりだったって事だ。その意味がわからないし、わからないからこそ奴の行動がまったく読めない」
西沢は忌々しそうに吐き捨てた。蓮もどこか歯痒そうな表情を浮かべている。
と、そこへ病院の中から藤が飛び出してきた。
「よかった、まだいたか。ちょっと来てくれ」
「どうしました?」
「いいから来い。厄介なものが見つかった」
そのまま病院の奥にある小会議室に連れて来られる。中に入ると、藤は緊迫した声でこう言った。
「秋口の服に染み込んでいた血痕のとりあえずの鑑定結果が出た。詳細は数日かかるようだが……鑑識の報告だと、二件目の被害者・浦川祥子と、三件目の被害者・佐田豊音の血痕が検出されたらしい。それと、これを受けて旅館に停めてあったバンに対する捜索令状が出たが、検査の結果バンの床からも血液反応が出た。犯行に使用されていた証拠だ」
「そうなると、失踪当日も秋口はバンは使用していたと考える必要がありますね」
「あぁ。おそらく失踪当日、秋口はあのバンでこっそりとどこかに出かけ、その後秋口を返り討ちにした出雲が旅館にこっそりバンを返し、何食わぬ顔で鍵を旅館内に放置したというのが妥当だろう。何にしても、少なくとも二件目以降は秋口の犯行で決まりだ」
「一件目の森川景子の血痕は?」
「検出されなかった。それとだな……奴のズボンのポケットからこんなものが見つかった」
そう言って藤が取り出したのは一枚のICチップだった。それを見て西沢の顔色が変わった。
「それは……」
「聞いた話だと、確か奴は標的に対して必ず推理対決を仕掛け、その様子をICチップに録音して依頼人に送付するんだったな。こいつはもしかしたら……」
「聞いてみましょう」
西沢は即断即決する。頷いた藤がパソコンにチップを入れると、案の定、音声が流れ始めた。
『この事件は大きく分けて三つの事件によって構成されています。すなわち……』
「出雲っ!」
その声を聞いた蓮が唇を噛みしめながらそう呟く。それは明らかに蓮たちが追い求める殺し屋……黒井出雲の肉声だった。
……その後は、ひたすら出雲による『心臓強盗事件』に対する推理の独白だった。息を飲んでそれを聞いていると、途中から別の男の声が入ってきて、出雲の推理に反論を重ねている様子が録音されていた。
「男の方は、多分秋口だな」
「出雲が秋口を追い詰めているところか……」
やがて、秋口が動機を独白したところで録音は切れた。出雲が秋口を撃った部分は録音されていないらしい。
「……これが事実なら、この事件の様相は大きく変わるな」
藤が苦々しい口調で言う。
「二件目以降の犯行は秋口の模倣。肝心の一件目……森川景子殺しの犯人は未だわからず、
そして出雲はその犯人を未だに狙い続けている。そういう事になりますね」
「何て事だ……まさか、犯人が二件目以降違っていたなんて。確かにこれなら一件目の事件のアリバイなんか関係ない」
藤がそう悔しそうに言う。
「ひとまず、上層部にこの件を報告してください。早急に捜査を立て直さないと。これが正しいなら、まだ森川景子殺しの犯人が残っています」
「わかった。そのチップは君たちに任せる」
藤は頷くと部屋を出て行く。一方、蓮はなぜか厳しい表情で何かを考えていた。
「どうかした?」
「……この録音、所々おかしくないですか?」
「おかしい?」
「何と言うか、節々で会話の継ぎ目がおかしいところがあるように思うんです。意味は通っていますけど、違和感があります。まるで強引に会話を繋げたような……。それに、どうして出雲は最初、秋口が出てくるまで推理を独白しているんでしょうか?」
「……確かに、少し妙だな」
西沢も蓮に同意する。そのまましばらく何事か考えていた西沢だったが、急に怖い顔でこう言った。。
「もしかしたら……二人だけじゃなかったのかもしれない」
「どういう事ですか?」
「この場にもう一人いたって事だ。そして、出雲がその人物の発言だけを不自然にならないようにカットしていたとすれば……」
西沢は咄嗟にそれに該当しそうな人物の名前を思い浮かべていた。おそらく、蓮も同じ事を考えたのだろう。その顔が少し硬くなっている。
「矢頼千佳、ですか?」
「可能性だ。証拠は何一つない。だが、それなら昨日の矢頼千佳の態度にも納得がいく」
「県警に知らせますか?」
だが、これに対して西沢は首を振った。
「無理だな。矢頼千佳が怪しいというのはあくまでこっちの勘頼みによるところで、言った通り証拠が何もない。現地の協力者がいるところまではこのテープで何とか説明できるかもしないけど、それが具体的に誰かまでは指摘できないって事だ。出雲もそれをわかっているからこそ堂々とこいつを残したはずだ」
「じゃあ、今後の捜査で協力者が矢頼千佳だと証明できますか?」
「……難しいな。出雲がここまでして隠そうとしている相手だ。出雲自身もそれ相応の対策はしているはずだし、矢頼千佳も出雲に選ばれた以上はそう簡単に落ちる人間ではないと考えるべきだ。特定するのは難しいし、その間に標的を殺されていたら話にならない。むしろ、出雲は我々が矢頼千佳の正体を暴く事に集中する事をもくろんでいる可能性さえある。そうなれば、残る森川景子殺害事件の犯人への依頼執行がスムーズにいくからな」
「……矢頼千佳は放置するしかないって事ですか」
「もちろん動向は監視する必要があるが、あくまで俺たちの仕事は森川景子殺害犯を捜し出す事だ。それを忘れるな」
「……はい」
蓮が悔しそうに頷く。重苦しい空気の中、西沢としては、そう言うのが精一杯だったのである。
同日正午、山梨県警は行方不明の秋口プロデューサーが発見された事を発表し、同時に衣服についた血痕や再検査されたライトバンに残されていた血痕などから、心臓強盗事件の二件目以降の犯行が秋口による模倣であると断定したと公表した。
一件目の森川景子殺害事件に関してはまだ容疑者は浮かんでおらず、引き続き捜査本部は継続。また、逮捕された秋口は『樹海を逃亡した事によって』重傷を負っており、医者の話では意識不明で回復まで時間がかかるとの事。そして、一件目の事件の犯人は森川景子殺害以降一切犯行を起こしておらず、したがって模倣犯の秋口が逮捕された現状、これ以上の新たな犯行が行われる可能性は低い。
……これらの情報が公表されると、報道陣は一種のパニック状態になった。まさか報道陣の中に犯人が潜んでいるとは思いもしていなかったからである。当然、日本中央テレビは対応に迫られ、今後どうなるかは予断を許さない状況となった。その一方、これ以上の犯行が起こる可能性がほぼ消滅した事により、地元住民の間ではひとまず安堵が広がっていた。とはいえ、一件目の事件の犯人が捕まっていないのは変わっておらず、こちらの犯人は森川景子殺害以降何も行動を起こしていないとはいえ、未だ完全に不安を払拭するには至らなかったのである……。
それから数時間後、東京の警察庁にある特別捜査本部では、事態の急変に佐野達が緊急会議を開いていた。すでにテープの内容等は佐野らにも連絡が入っていた。
「秋口が模倣犯だったとはな……。だからこそ、出雲は秋口を殺さなかったという事か」
「標的はあくまで森川景子を殺した人間。つまり、秋口は心臓強盗ではあっても標的ではないという事ですね」
佐野の呟きに野々宮が追従する。
「こうなると、問題は森川景子を殺害した人間は誰かというこの一点に絞られる。それさえ特定できれば、今からでも出雲を出し抜く事は可能だ」
「出雲がすでに相手の正体を掴んでいる可能性は?」
「それなら、今頃死体が転がっているだろうし、秋口を襲うなんて面倒な事はしないはずだ。そうなると、まだ向こうも犯人の正体がわかっていないと見るべきだろう」
「でも、一体誰が殺したんだ? 普通なら恋人の斧木耀太が第一容疑者になるんだけどよ……」
日吉がそう言うと、内田が首を振った。
「もし斧木が犯人だったら、出雲が黙っているはずがない。その場合、依頼に嘘があった事になるから、確実に斧木を殺しにかかるはずだ。それに、依頼人が犯人でないかどうかは依頼の時点で出雲も必ず下調べをするはず。にもかかわらず出雲が依頼を受けているって事は……」
「斧木は犯人ではない。少なくとも出雲はそう考えたという事だな。そして斧木陽太が死んでいない以上、出雲は今でもその結論を崩していない」
佐野が結論を言う。
「となると、斧木はシロか。だったら、容疑者は誰だ?」
「現場は富士の樹海で、直接的な犯行場所や時間は明白ではない。つまり、誰でも犯人である可能性がある」
日吉の言葉に内田が答える。
「容疑者が多そうだな。定石で行くなら、こういう場合は被害者の身近な人間を疑うもんだけどよ」
「恋人の斧木は外れ。そうなると仕事や交友関係ですかね」
野々宮が意見を言う。が、内田がそれに対して厳しい表情を浮かべた。
「だが、その辺は二件目の事件が起こる前に一通り山梨県警も調べているはずだ。その時は何も問題なかったはずだが」
「捜査が甘かったか、あるいは俺らの推理が的外れの方向に向かっているのか……そのどっちかだろうぜ」
日吉が皮肉めいた口調で言う。それを受けて、佐野が取りまとめるように言った。
「幸い、彼女の生活基盤は東京だ、ならばひとまず、私たちは徹底的に彼女の周囲を洗う事にしよう。何かそこから突破口が生まれるかもしれない。内田さんと日吉は彼女の仕事関係。野々宮と私は交友関係を調べる。鷹司さんはここでバックアップを頼む。それから……」
と、その時だった。具体的な役割分担をしている中で、突然、捜査本部の電話が鳴った。佐野が取ると、相手は警察庁刑事局長だった。
「佐野です。何かありましたか?」
部屋の中の全員が電話に注目する。直後、佐野の表情が険しくなった。そして、珍しく相手に怒鳴り返し始めたのである。
「待ってください、どういう事ですか! 話が全く見えません! 順を追って説明してください! えぇ、えぇ……何ですって? 警視庁の沖田総監が? いや、しかし……」
しばらくそんな押問答が続いていたが、やがて佐野は緊張した様子で無言のまま受話器を下ろした。
「警部、一体何が……」
野々宮が恐る恐る聞くが、佐野は怖い表情のままこう言った。
「誰かテレビをつけてくれ。それで全部わかる」
「何ですか? まさか、心臓強盗がまた何か事件を?」
「違う。完全な別件だ。別件だが……最悪の事態だ。このままだと、出雲を前にして我々は動けなくなるかもしれないぞ!」
「え?」
何が何だかわからないまま、野々宮はテレビのニュースを点ける。その瞬間、緊迫したニュースキャスターの声が響いてきた。
『……こちら現場です! 現場となった高校では現在でも消防が消火活動をしていますが、未確認の情報によると、事件のあった部室棟付近で生徒数名が遺体となって発見されたという事で、現場は緊張に包まれています。警視庁の橋本捜査一課長は本件に対して徹底捜査を行うと宣言しており、すでに複数の捜査班が現地入りをしているようです』
直後、何が起こったのかわからず呆気にとられる捜査員たちの前で、キャスターは決定打となる一言を告げた。
『繰り返しお伝えします! 東京都品川区にある都立立山高校の部室棟内で、生徒四人が同時刻に別々の場所で死亡するという事件が発生しました! 警視庁は殺人事件の疑いが強いとして……』
……時は二〇〇七年六月十九日火曜日午後三時。特別捜査本部にとってはまさに運が悪かったと言わざるを得なかった。『その事件』は何の前触れもなく、警視庁と警察庁に大きな激震となって襲い掛かったのである。
後に『立山高校同時多発殺人事件』と呼ばれる事になる、犯罪史にその名を残す大事件の発生である。
『警視庁から各局。警視庁から各局。品川区立山高校校舎内において殺人事件発生の通報あり。すでに複数名の被害者が発生している模様。火災発生の通報もあり、現場は混乱中。周辺捜査員、及び捜査一課捜査員は至急現場に急行せよ! 繰り返す……』
警察無線が鳴り響く中、警視庁には激震が走り続けていた。そんな状況でも、この大事件の情報が次第に明らかになりつつあった。
『立山高校同時多発殺人事件』……品川区にある立山高校という都立高校で、高校生四人が同時刻に別々の場所でほぼ同時に殺害されるという、今までの犯罪の常識を覆すような前代未聞の不可能犯罪である。
この大事件に対し、警察上層部は即座に動いた。刑事部捜査一課からは第一係と第三係の二班が現地に出動し、他の捜査班も軒並みこの事件への対応に当てられる事になってしまったのである。そして、それは佐野達特別捜査本部の人間も同じだった。
「待機って……どういう事ですか!」
山梨県警河口署のロビーで、蓮がそう言って携帯電話に怒鳴っていた。隣にいる西沢も事態の急変に深刻そうな表情をしている。だが、電話口の佐野は努めて冷静に事実を告げるだけだった。
『立山高校の一件で警視庁の捜査一課はパニック状態だ。現状、国友警部率いる一係と斎藤警部率いる三係がこの事件を主導しているが、この他に四係と七係が周辺の捜査に応援として駆り出されている。何でも、今回の事件に関連した別事件の再捜査が必要になっているという事だ。そして他の捜査班はすべてが別件の捜査本部にかかりきりで、つまり現在警視庁捜査一課には待機中の捜査班が全く存在しないという事態になっているらしい』
「それがいったい……」
『立山高校の事件が解決するまでに新たな事件が起こらないとも限らない。だから上層部は、事件解決までの間、我々特別捜査本部を暫定的に警視庁捜査一課の待機組にするという決断を下した』
「そ、そんな無茶苦茶な……そんな無理が通るわけが……」
『知っての通り、我々特別捜査本部の存在は各県警の上層部及び刑事部の警部以上の人間にしか認識されていない。ゆえに表向きの我々の立場は、各県警の刑事部に何かあった際の救援部隊という扱いになっている。だからこそ、この手の命令に逆らう事はできない』
そう言いながら、佐野はさらに声を厳しくして続けた。
『それにどうも今回の件に関して警視庁の沖田京三警視総監や石川欽次郎副総監の気合の入れ方が尋常ではない。この処置も沖田総監と石川副総監が棚橋警察庁長官に強引にゴリ押ししたものらしく、第四係と第七係に洗わせている過去の事件の再捜査も独断で決定した様子だ。いずれにせよ、こうなっては立山高校の事件が片付くまで、我々はこの部屋から動く事ができない。何か事件が起こった際は、代理で捜査する必要さえある』
「出雲が目の前にいるのに、放っておけっていうんですか!」
蓮の目は必至だった。だが、佐野は悲しそうに首を振る。
『上の判断だ。実際問題、出雲対策のためにかなりの捜査力を有している我々は刑事部の代理としては適任だからな。もちろん、私としても刑事局長に掛け合ってみるつもりだが……少なくとも、責任者の私はこの場から間違いなく動けない。よくて、県警と協力体制にある君たち二人が動く事を認めさせることができる程度だろう』
佐野が珍しく口ごもる。その場に重苦しい空気が漂った。
『一応幸いというべきか、さっき聞いた現場の情報では、この事件に関して現在校内で第三者も含めた大規模な検証作業が行われていて、容疑者もある程度絞れているらしい。うまくいけば、今晩にでも事態は解決するという事だ。ただ……どうも犯人には大量の余罪があるらしくて、それらの後処理を含めれば我々の拘束が解けるのはかなり先の話になるかもしれん』
「……くそっ!」
蓮が女性にあるまじき言葉と共に壁を叩く。それに対し、佐野はフォローするように言った。
『さっきも言ったように、この後刑事局長に掛け合って、最低でも、そっちにいる君たち二人が動けるようにだけはするつもりだ。君たち二人まで帰還するような事になれば、我々は出雲に対して全く手も足も出なくなる。だから、君たちはそのまま県警と協力して引き続き捜査をしてくれ。ただし、絶対に東京に戻ってくるなよ。そうなったら、私としても君たちをかばいきれない。もちろん、情報の提供も不可能だし、特捜の名目で山梨県警以外に協力要請する事もできない』
「特捜のバックアップなしで、私たちだけで何とかしないといけないって事ですか」
佐野は沈黙する。それが答えだった。
『……すまないが、これが現状の最善手だ。君たちに負担を強いる事になるが……』
「……わかりました。そっちも一刻も早く復帰できるようにしてください」
『もちろんだ。じゃあ、頼むぞ』
電話が切れる。顔を上げると、西沢も難しい表情を浮かべていた。
「事実上、山梨県内に閉じ込められたな。この状況でどこまで調べられるか……」
「……畜生!」
蓮がそう言いながら再度壁を叩くのを、西沢は黙って見つめているしかなかった。
結論から言えば、『立山高校同時多発殺人事件』は、その日のうちにまさかのスピード解決を迎え、犯人は逮捕された。何でも、事件に介入した何者かが真相をたちどころに解き明かしてしまったらしい。だが、その過程で犯人の余罪が続々と出てきた事から、駆り出された捜査班は後処理を含めてかなりの日数を拘束される事になった。
結局、特別捜査本部が拘束から解除されたのは、別件で出ていた捜査一課十係が担当事件を解決して待機を引き継いだ六月二十四日の事だった。その結果、目の前に出雲を捉えながら、特別捜査本部はここで致命的な数日を棒に振る事になってしまったのである。
そして、その間にも事態は刻々と最悪の方向へと動き続けていたのだった。
「……そうでございますか。東京でそんな事が」
立山高校での同時多発殺人が起こった十九日深夜、どこともわからぬ高速道路の高架下にある打ち捨てられた暗い小屋の中で、出雲は東から東京で起こった事件の連絡を受けていた。
『警視庁はパニック状態だ。事件そのものは今日のうちに犯人が逮捕されているが、余罪がかなり多いらしい。被害者数が十人を超えるかもしれないという情報も入っている。その余波で、警察庁の特別捜査本部も当面動きが取れそうにないという事だ』
「具体的にはどのくらいでございましょうか?」
『捜査の進展具合にもよるが、多分三日程度だろうな』
「……気付かれないように捜査妨害をして、少しでもその期間を延ばす事は可能でございましょうか?」
出雲のリクエストに、東は厳しい声を出した。
『難しいな。一班だけならともかく、今回は複数の捜査班が動いているからそう簡単にはいかない。偽情報を流すなりしてやれるだけの事はやってみるが、よくても一日延ばせるかどうかだろうな』
「充分でございます。この際、少しでも特捜を封じられる期間を延ばせることが大切でございます」
『わかった。ところで……時期的にあまりにも偶然が過ぎるが、この立山高校の一件、あんたが何か関与したのか? 例えば、犯人にわざとトリックを教えたとか?』
この問いに対し、出雲は苦笑気味に答えた。
「まさか。いくら私でも、依頼を遂行するために全く関係ないところで別の殺人事件を引き起こすような事は致しませんよ。それでは復讐の連鎖を引き起こしてしまうだけでございますから。立山高校の一件、私は無関係でございます」
『そうか……。まぁ、いい。そういう事にしておこう』
「何にせよ、せっかく起こった事件でございます。ありがたく利用させて頂く事に致しましょう。他に何かございますか?」
『あぁ。特捜が動けないとは言ったが、佐野警部もなかなかやる。上層部に直談判をして、すでに山梨県警に先行していた西沢、尼子両刑事に関しては、何とか現地で引き続き活動できるように取り計らったそうだ。だから、この状況でもあの二人は動けるぞ』
「問題ございません。その状況なら、おそらく動ける範囲は山梨県内でございましょう。しかし、事件の舞台はすでに静岡に移っています。山梨に拘束されるなら、こちらとしては好都合でございます」
『そうかい。なら俺が言えることはもう何もねぇ』
「引き続き情報収集をお願いいたします。こちらも色々と仕込みをさせて頂きますので」
『わかった。じゃあな』
電話が切れる。だが、出雲はすぐに別の番号に電話をかけた。相手がすぐに出る。
『は、はい。矢頼です』
相手は山梨にいる矢頼千佳だった。
「今、大丈夫でございますか?」
『大丈夫です。今は旅館の部屋ですから』
「そちらはどうでございますか? 何か変わった事は?」
『それが……ちょっと厄介な事になりました。私、ここを離れる事になるかもしれません』
その言葉に、出雲は先を促した。
「どういう事でございましょう」
『秋口さんが二件目、三件目の事件の犯人だってわかって、県警も慌てています。それで、局の上の人たちも新人の私では対応できないと思ったんでしょうね。さっき、早急に東京へ戻ってくるように指示が出ました。多分、明日の朝一番で山梨を離れる事になると思います』
「県警がよく許可を出したものでございますね」
『私は元々佐田さんが殺されてからここに来た人間ですから、事件との関係性が薄くて県警も引き留める事ができないみたいです。さすがに井ノ坂カメラマンやADの麦原さんは離れる許可が出ませんでしたけど……』
「帰った後はどうなるのでございますか?」
『局もさすがに気まずいらしくって、私の好きな場所へ取材に行かせてやるって言っていました。それで、この後どうしましょうか? このまま事件から離れてもいいんですか?』
出雲は少し考えていたが、やがて暗闇の中で笑みを浮かべながらこう告げた。
「いいでしょう。ここは素直に帰ってきてください。ただ、その後でお願いがございます」
『お願い?』
「今の話だと、帰京後、あなたは次の取材場所を選べるとの事でございますね、ならば、行っていただきたい場所があるのでございます」
『どこですか?』
出雲は静かにその場所を告げた。
「静岡県御殿場市……陸上自衛隊北御殿場駐屯地でございます。新設されたばかりの基地でございますので、国防に関する取材がしたいとでも言えばおそらく許可は簡単に出るはずでございます。その上で、あなた様にやって頂きたい事があるのでございます」
そう言うと、出雲は何かをぼそぼそと話し始めたのだった……。
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