第二部 北御殿場基地事件

第一章 六月十八日 特別捜査本部

 物語は、殺し屋・黒井出雲が人知れず『心臓強盗』を始末した三日後から静かに再開する。

 二〇〇七年六月十八日月曜日、東京・新橋。その一角にあるビルの最上階から、一人の男が難しい表情で外の景色を眺めていた。その後ろでは、テレビのニュースが何事かを伝えている。

『……以上、新宿の大畑コンツェルンで発生した殺人事件に関するニュースでした。次のニュースです。昨日代々木公園でホームレスと思われる男性の遺体が発見された事件に関し、警視庁は殺人事件として代々木署に捜査本部を設置しました。警視庁によると、最近まで代々木公園周辺で発生していたホームレス狩り事件が今回の事件に関与しているものとして、慎重に捜査を進めているとの事です。被害者の身元は現在でも判明しておらず、警視庁は被害者の情報を公開して身元の特定にも全力を挙げています』

 アナウンサーが代々木で発生したという殺人事件の情報を伝えているが、男は険しい表情のままテレビに背を向けている。が、続いて流れ始めたニュースに、不意に男の方がピクリと動いた。

『次のニュースです。先月から富士樹海で発生している連続殺人事件に関してですが、現在までに四件目となる犯行は発生しておらず、山梨県警は警戒を強めています。この事件ではすでに女性三名が殺害されており、警察は犯人の捜索に全力を挙げていますが、未だに容疑者が特定されていません。姿の見えない犯人に対し、地元住民の間には不安が広がっています』

 そのニュースに、男はゆっくりと振り返ると、自分のデスクに歩み寄った。そこにはクリップでとめられた書類の束が置かれており、その最初の紙にはこんな名前が書かれていた。

『クライアントNo30035 斧木陽太 職業:開業医』

 さらにその後には本人の詳細な情報が続く。

『関与事件:富士樹海女性連続猟奇殺人事件(通称:心臓強盗事件) 恋人の森川景子が同事件で殺害』

 そうした情報が何枚もの紙にまとめられている。男はその紙の束を無言で見つめていたが、やがてその最後の紙の一番下に目をやった。そこには次のような文言と共に、この書類を発行した人間……すなわちこの男の印が押されていた。

『……以上により、当クライアントに関しては、さらなるカウンセリング処置が妥当と判断し、ここに紹介状を発行する次第である。 財団法人犯罪遺族支援協会理事長・鳥梨和定』

 男……元警察庁官僚にして、現在は犯罪被害者救済のための法人を運営している鳥梨和定は、無言でその紙の束を何度も見直していた。その顔には何とも言えない苦悩のようなものが浮かんでいる。

 と、その時部屋のドアがノックされた。

「失礼します」

 入ってきたのは、鳥梨の秘書をしている女性だった。江崎コノミ。この春に高校を卒業し、そのままこの協会に就職してきた少女である。実は彼女自身も二年前にある殺人事件に巻き込まれていて、その際に友人三名を失っている。彼女が進学もせずにこんな協会に就職したのも、その辺に事情があるのではないかと鳥梨は考えていた。

「理事長ぉ、斧木さんの件について調べてきましたぁ」

 どこか間延びした口調でコノミが報告する。一見のんびりとした言動をしているが仕事そのものはなかなかに有能で、鳥梨は密かに彼女の本質は別にあるのではないかなどという推察をしているくらいである。

「どうだった?」

「予想通りでしたぁ。六月十一日付で斧木さんの口座からかなりの額のお金が動いているみたいですねぇ。詳しい金額は不明ですけど、生活状況を調べた限りだとそれだけの大金を動かすような何かが斧木さんの側にあったとは思えないみたいですよぉ」

「……そうか」

 鳥梨は何を思ったのか、それらの報告を聞くと天井を見上げてため息をついた。それを見るとコノミは無言で隣の秘書室に戻り、後には鳥梨一人が残される。

「決まりだな……。だが、今ならまだ間に合うかもしれない」

 一人でそんな意味不明の事を呟くと、デスクの電話を手に取り、どこかの番号にかけた。相手はすぐに出る。その相手に対し、鳥梨はこう呼びかけた。

「鳥梨だ。久しいね。早速だが、今から少し時間を取れないか? いや、君の耳にぜひ入れておきたい情報があるものでね。そう、警察庁刑事局復讐代行人特別捜査本部本部長の君に対する有益な情報だよ、佐野正警部」

 今、出雲に対抗するもう一つの勢力が、人知れず動き出そうとしていた。


 復讐代行人特別捜査本部。数年にわたって犯行を重ね続ける復讐代行人こと黒井出雲に対抗するために警察庁が全国から選りすぐりの刑事たちを集めて設立した専門部署で、組織上は警察庁刑事局に所属している。出雲捜査のためであるなら全国の都道府県警に対してあらゆる権限を持ち、出雲の犯行の阻止や依頼人の特定及び逮捕、さらには出雲が殺害した人物が何の犯罪に関与していたのかを調べる事後捜査を主な仕事にしていた。

 かつては他部署同様にキャリア組が捜査本部長を務めていたのだが、二年前に出雲にそのシステムを突かれて警察が出雲の調査に利用されるという失態を起こしてしまい、以降は出雲の事をよく知るノンキャリアの捜査員が本部長を兼任している。その失態を犯した元キャリアというのが鳥梨であり、以降彼は警察を辞めて犯罪遺族が出雲に依頼しないように民間の立場からサポートを行っているというわけだ。

 現在、この特別捜査本部の捜査本部長をしているのは、二年前は特別捜査本部の主任だった佐野正という警部である。元は神奈川県警刑事部捜査一課の刑事で、県警在籍時に出雲が真相に行きつく前に真犯人を逮捕して出雲の犯行を阻止したという実績を持っている。これは現在に至るまで出雲が完敗をした唯一の事例であり、その経歴から特別捜査本部に抜擢されている。

 そんな佐野に対し、鳥梨は一つの約定を交わしていた。それは、もしこの犯罪遺族支援協会に通っているクライアントが出雲に依頼をした疑いが浮上した場合、その情報をいち早く佐野に伝え、出雲の犯行を阻止する手助けをするというものである。そして、今回その約定が果たされる事になったのだった。

 電話してから一時間もかからないうちに、待ち人……佐野正は鳥梨の部屋に現れた。

「来たな」

 鳥梨はそう言って佐野を迎え入れた。

「お久しぶりです、鳥梨さん。情報提供、感謝します」

 佐野はそう言いながら一礼しながら部屋に入る。見た目こそ四十代前半のサラリーマンめいた格好だがその目は鋭く、怪物「黒井出雲」と互角に渡り合うだけの貫禄を併せ持っているのがわかる。かつて上司だった時にはその視線にプレッシャーを感じていたものだが、今では逆に頼もしく感じられるのだから不思議なものである。

 ただ、いつもと違ってその隣には新顔がいた。鳥梨が何かを言う前に、その新顔の女性が驚いた表情で声をかけてきた。

「あなたは……鳥梨警視?」

「もう警視ではない。二年前、あの事件の直後に警察は辞めている。久しぶりだな、尼子蓮君」

 そんな言葉を返しながら、鳥梨はその女性……尼子蓮刑事を見つめていた。

 尼子蓮。年齢は覚えていないが、まだ二十代なのは確かだ。最後に出会ったのは二年前、鳥梨が警察を辞める直前であり、当時の彼女は荻窪中央署刑事課の若手刑事だった。

 そして、彼女は鳥梨が警察として最後にかかわった出雲関連の事件で、実の妹・尼子凛を出雲によって殺されていた。この事件の捜査失敗で警察を追われた鳥梨同様に、彼女も黒井出雲によって人生を変えられた人間の一人であった。

 彼女があの後まるで人が変わったかのように仕事に没頭し、異例の若さで警視庁刑事部捜査一課に移籍したという話は佐野から聞いていた。また、本人のたっての希望により、今日付けで復讐代行人特別捜査本部に異動になったという事も、事前に佐野から聞いている。その目的は明らかに妹を殺した出雲に対する復讐であろうが、警察から逃げ出した自分にそれを責める資格はないと鳥梨は考えていた。

 二人を部屋の中に案内し、初顔の蓮に対しこの協会の事などを軽く説明した後、鳥梨は用意しておいた斧木陽太の資料が入った封筒を佐野に渡しながら早速本題に入った。

「最近、うちのカウンセリングを受けに来たクライアントだ。守秘義務があるから出雲の犯行が発生していない現段階では誰とは言えないが……ある事件の被害者関係者であるという事だけは言っておく。何の事件に関係しているかに関してはその封筒の中に書かれているから後で読んでくれ。それで、だ。どうもその人物が、出雲に対して依頼をした可能性がある」

 その言葉に、蓮が緊張した表情を浮かべるのを、鳥梨は見て取っていた。

「本当ですか?」

 はやる蓮に対し、鳥梨は冷静に釘を刺した。

「もちろん断定はできない。本人に確認するわけにもいかないからな。だが、私の印象からしてみればクロに近い。事件の規模的にも申し分ないし、何よりその事件は現在でも未解決だ。警戒しておいても損はない。さて、どうする佐野?」

「……いいでしょう。少し探りを入れてみます」

 鳥梨の言葉に、捜査本部の責任者である佐野はそう言うと、その封筒をしっかりと抱えた。鳥梨はそれを見ながらひとまず安心した表情を見せながらも、二人に聞こえないように小声でこう呟いていたのだった。

「さぁ、出雲……今度こそ年貢の納め時だ。覚悟しておけ」

 

 東京霞ヶ関中央合同庁舎二号館。首都・東京を守護する警視庁本庁舎ビルのすぐ横に位置し、総務省など多数の政府機関が入っている総合ビルだが、その中に一つの巨大組織が入っている。

 警察庁。日本全国の警察を統括する部局で、トップは警察の最高権力者である警察庁長官である。復讐代行人特別捜査本部は、この警察庁の刑事局に所属する特別部署だ。全国的な活動を行う出雲に対抗するためにあえて全国の警察に顔の利く警察庁内部に設置され、各都道府県警から選抜された捜査能力の優秀な数名の刑事によって構成されている。ちなみに、現在の人数は総勢七名となっていた。なお、この捜査本部の存在は規則上各県警の上層部か、各県警本部の刑事部に所属する警部以上の人間でなければ知る事を許されない。それ以外の警察官に対しては何かあった際の救援部署という何とも曖昧な説明がなされている。

 さて、鳥梨のビルを辞した佐野と蓮は、警察庁に戻ると刑事局の奥にある普段誰も来ないような小さな部屋へと向かっていた。その小さな部屋こそが、復讐代行人特別捜査本部の本拠地である、部屋のドアを開けると、中には佐野と蓮以外のすべてのメンバーがすでに集まっていた。

「みんないるな?」

「もちろんです」

 答えたのは佐野の右腕的ポジションにいる刑事……元警視庁町田署刑事課所属の野々宮啓介巡査部長だった。所属していた町田署ではその若さでかなりの検挙率を誇り、その功績からこの捜査本部に配属されている。佐野の事実上の右腕ともいえる存在で、軽いノリとは裏腹に佐野とともに長年出雲を追い続けてきた出雲捜査の第一人者である。

 佐野はその野々宮の言葉に頷くと、改めて他のメンバーの顔も見渡し、それぞれの事を思い返していた。

 野々宮の向かいに座っているのが、この部屋で一番年長である内田元義警部。元は広島県警のSATに所属していたという武闘派の人間で、高度な暗殺技術を誇る出雲に対抗する目的で警察庁から捜査本部入りを抜擢された人材だ。SATに入る前は広島県警刑事部捜査一課、その前は広島県警警備部機動隊所属と現場第一線で活躍し続けており、メンバーの中では非常に頼りになる存在である。かかわってきた事件も、広島で起こった西鉄バスジャック事件やプリンス号シージャック事件、それに応援要請で出動した大阪での三菱銀行北畠支店猟銃立て籠もり事件など、日本の犯罪史にその名を残す大事件ばかりだ。

 そんな内田の正面にいる実直そうな刑事が西沢俊夫警部補。元は蓮同様に警視庁刑事部捜査一課所属の刑事で、その前は警視庁航空警察隊のパイロットだったという変わり種の人材である。ゆえにヘリコプター操縦のライセンスも所持しており、捜査一課時代も多くの事件を解決した事があるなど、ある意味オールマイティな存在である。ちなみに、実家は和歌山県の田辺市らしく、実家から送られてくるミカンをこの部屋に持ち込むのが慣例になっている。

 西沢の隣にいるのが日吉鬼一郎巡査部長。元は警視庁新宿署組織犯罪対策課……いわゆる丸暴出身で、階級こそ巡査部長だが、その縁から裏社会の人間に関する情報に関しては警察内では右に出る者はいないとされる人物である。裏社会の人間と繋がりを持つ出雲に対抗するために抜擢され、本人もどことなくアウトローな雰囲気をまとっている。主にそうした裏社会の情報収集を担う事が多い。また、そんな経歴でありながら一時期同じ新宿署の鑑識にいたというあまりにも畑違いな経歴も持っていて、本職程とはいかないまでも鑑識や検視の知識があるという意外すぎる特技を持っている。

 最後の一人、一番窓際でひっそりと座っている眼鏡をかけた人物が、鷹司歌麿という冗談としか思えない名前の刑事である。元は京都府警刑事部に所属。藤原五摂家の一つである鷹司家の遠く離れた亜流筋の人間らしいが、何とも不思議な雰囲気を醸し出している。特別捜査本部唯一のキャリア組で階級は警部であり、立場的にはここの責任者でもおかしくないはずなのだが、上層部の判断で二年前から本部長は現場を知るノンキャリアの人間がやる事になったため、彼自身は名ばかりの副本部長という地位にとどまっている。実際、ここへの異動は特別捜査本部の暴走を抑えるために上層部が派遣した制御役という側面が強いようで、お世辞にも管理職という感覚は薄い。

 とはいえ、彼が京都府警刑事部でかなりの戦績を挙げていたというのは事実で、データ上は未解決事件解決率もかなり高い。どちらかと言えば、安楽椅子型の刑事だったようで、この捜査本部では出雲に対する戦略を立てるブレーンの役割を担っている。

 ここに佐野と蓮を含めた合計七名が、黒井出雲という怪物に対抗するために警察が作り出した対抗組織、警察庁刑事局復讐代行人特別捜査本部のメンバーである。階級別にみるなら警部三名、警部補一名、巡査部長三名となるが、捜査能力とチームワークがすべてとなるこの捜査本部では階級はあまり重要視されていない。それだけに、誰でも自由に意見を言える空気がこの場には形成されていた。

「では始めようか。みんな席に座ってくれ」

 佐野の合図に、蓮も含めた全員が自分の席に座る。それを見て、佐野は問題の封筒から資料を取り出すと情報の解説を始めた。

「さて、すでに知っての通り、二日前に新宿で起こった会社社長殺害事件において出雲の関与が疑われている。またしても我々は後れを取ってしまったわけだが、ついさっき鳥梨さんから新たな出雲の犯行につながるかもしれない情報の提供を受けた。うまくいけば、今回は出雲を出し抜く事ができるかもしれない」

「本当ですか?」

 元捜査一課刑事の西沢が緊張した様子で尋ねる。佐野は頷きながら話を先に進める。

「この場にいる全員、最近富士樹海で起こっている『心臓強盗事件』については知っているな?」

「あれだけ連日テレビで大騒ぎしていますからね。でも結局今週は新たな犠牲者が出なくて県警関係者がホッとしていたと聞いていますが」

「その心臓強盗事件第一の犠牲者・森川景子の恋人である斧木陽太という人物が、殺人鬼・心臓強盗への復讐を出雲へ依頼した疑いが浮上した」

 その言葉に、その場の空気が大きく変わる。代表で野々宮が聞き返す。

「間違いないんですか?」

「一通り情報を読んだが、私は信憑度が高いと判断する。実際、この資料によれば斧木陽太の銀行口座から用途不明の多額の現金移動があったようだし、また斧木陽太が出雲御用達の『犯罪学総論』を購入した記録もある。状況は限りなくクロだ」

「よりにもよって、あの凶悪殺人鬼を次の標的に選んだか」

 内田が忌々しそうに呟いた。

「知っての通り、心臓強盗事件に関して山梨県警の捜査は行き詰まりを見せている。我々が出雲に勝つには、出雲本人を逮捕するか、あるいは出雲が真相にたどり着く前に問題の心臓強盗を我々の手で逮捕するかのいずれかになる。いずれを選ぶにせよ、今回も厳しい捜査になるのは間違いない。心してくれ」

「はっ!」

 全員の返事に、佐野はブレーン役の副本部長・鷹司を見つめる。

「鷹司さん、何か策はあるか?」

「そうですねぇ……とりあえずは山梨県警に話を聞いてみない事には始まらんでしょう。それに、出雲が本気で心臓強盗を狙っているのかも確認しなければなりませんねぇ」

 どこかマイペースな口調で鷹司が述べる。初めての会議である蓮は目を白黒させるが、これが鷹司の普段からの話し方らしく、他のメンバーは特に突っ込むような事はしない。

「山梨県警には出雲が心臓強盗を狙っていると伝えるべきか?」

 佐野の言葉に鷹司は少し考えた後で首を振った。

「何度も言うように、現段階ではまだ推測に過ぎませんからねぇ。証拠がその資料だけでは県警を説得するにはあまりにも弱いですなぁ」

「けどよぉ、何の理由もなく警察庁が県警の捜査に首を突っ込むのは問題じゃねぇか? それはそれで県警側も身構える可能性が出てくるぜ」

 日吉がぶっきらぼうな口調で反論する。口が悪くて階級が上の佐野達に対しても敬語を使わないが、それで不思議と嫌味にならないのが日吉の凄いところである。

「そうだな。これに関しては直接現地に行ってみるしかあるまい。問題は、いざ出雲が心臓強盗を狙っているという事がわかった後の話だ」

「まずは、山梨県警上層部に話をつけて正式な捜査協力の体制を取るべきでしょう。その上で、出雲が現段階でどこまで調べているのかを把握するのが先決です」

 西沢の言葉に、佐野は頷いた。

「すでにこの斧木という医者が依頼してから一週間が経過していると思われる。どうやら新宿の事件と並行して依頼をこなしていたようだが、それでも向こうはかなりの事を調べているだろう。まして新宿の一件に蹴りがついた今、奴は本格的にこの一件の調査に着手するはずだ。一刻の猶予もない」

「事件関係者に対する聞き込み等が必要ですね。未だにその手の死体が見つかっていない以上、やつが現段階ではまだ依頼を遂行しているとは思えませんが……」

 野々宮はそう言いながらも、どこか歯切れの悪い口調である。実は依頼はすでに遂行されていて、誰とも知れない「心臓強盗」の遺体がまだ見つかっていないだけかもしれないという事を考えているのだろう。

 だが、これについては佐野には今までの経験から確信があった。

「それについては安心していいだろう。もし奴が依頼をこなしていたら、依頼遂行が完了した事を依頼人に示すためにも標的の死体を発見させないなどという事はあり得ないはずだ。少なくとも奴のカードが添えられた死体が見つかっていない以上、奴はまだ依頼を遂行していないのは確かと見て間違いない」

「しかし、本部長がさっきも言ったように、あまり猶予がないのも確かですねぇ」

 鷹司がそう言い添える。

「鷹司さん、どう動く?」

「とりあえず、何人かを山梨の現場へ派遣するのが最善でしょうなぁ。その上で、まずは向こうの捜査関係者の誰かと接触を持っておくべきでしょう。上層部との折衷の前に、その程度のフライングをしても問題はないでしょうからねぇ」

「誰を向かわせる?」

「……ここは西沢君に行ってもらいましょうか。元警視庁捜査一課の西沢君なら、向こうの捜査一課の人間にも顔が利くのでは?」

 鷹司の問いに、西沢は小さく頷いた。

「ここに来る前に何度か山梨県警と合同捜査した経験がありますので、その時の知り合いが捜査本部にいれば大丈夫だと思います」

「決まりですな。あとは誰か一人補佐役でついてもらえば充分でしょう」

 鷹司がそう言った瞬間だった。不意に蓮が鋭く手を上げた。

「私が行きます」

「尼子君……」

「佐野さん、行かせてください。お願いします」

 その真剣な表情に佐野は少し考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。

「いいだろう。ただし、西沢君の指示には絶対に従う事。勝手な暴走は許さない。いいね?」

「……はい」

「では決まりだ。早速二人は出発してくれ」

 そう言われた瞬間、蓮と西沢は立ち上がってそのまま部屋を出て行ったのだった。


 同日同時刻、静岡県御殿場市、陸上自衛隊東富士演習場。戦車の砲撃演習にも対応できるように広大な面積を誇るこの演習場であるが、意外な事に演習が行われる以外の日は、入会権を持つ地権者に限られるとはいえ演習場への侵入は制限されておらず、山林などでの山菜などの採取が実際に行われている。また、これら入相団体の許可があれば一般人の立ち入りも制限付きではあるが認められているそうだ。これは、この演習場がそもそも自衛隊の土地ではなく御殿場市の一般市民の所有地であるという事があるが、近年はこの土地の所有者以外の部外者の無許可での不法侵入が問題になっているという。当然、地権者以外の侵入は不法侵入という事になり、通常は明らかな違法行為になる。

 その広大な面積の中には、草原の他、富士山麓の森林地帯も広がっている。富士樹海ほどの広さではないとはいえ、訓練のためもあってそれなりの広さは確保してある。しかも自衛隊の演習場である事もあって、あまり人の手が加えられていないのも特徴だ。

 その東富士演習場の森林地帯を、漆黒のセーラー服の少女……黒井出雲が歩いていた。うっそうと茂る森林の中を行くセーラー服の少女の姿はあまりにも異質であるが、本人は全く気にする様子もなく、それを咎める人間もいない。

「なるほど……確かに、ここなら『今までにない富士山の写真』を撮る事が可能でございますね」

 出雲はそう呟くと、森の木々の間から見える富士山を見やった。

 そもそも、第一の犠牲者である森川景子の目的は『今までにない富士山の写真』を取る事だった。それは今までの聞き込みや東の資料から確実な事である。しかし、今までの捜査で彼女がいたとされる山梨側からの景色では、それに該当する場所は存在しない。元より富士山の好きだった彼女はそちらからの写真など何枚も撮っているはずだからだ。

 だが、先日の秋口への追及で森川景子殺しとそれ以外の二件が別件である事が判明し、犯行が静岡側で行われた可能性が浮上した。そうなると、その『今までにない富士山の写真』の候補に挙がってくるのが、この御殿場市に広がり、通常一般人が立ち入らない陸上自衛隊の東富士演習場なのである。確かに、いくら彼女でもこの場所から富士山を撮った事はないだろう。

 また、そう考えれば彼女が『現代深層』のバックナンバーを請求した理由も判然とする。硬派な記事を掲載している『現代深層』では自衛隊に関しても取り上げられており、その中には自衛隊の基地のめぐる住民との軋轢の問題もあったと大垣は言っていた。そして、この東富士演習場は土地の所有権をめぐって自衛隊と市民との間で対立があった場所でもあるのである。当時講英館に在籍していた彼女がこの取材で東富士演習場の事情を知っていた可能性は高く、今回の取材に際して改めて雑誌のバックナンバーを調べ直したという可能性が出てくるのだ。出雲が今回、御殿場市を調べるにあたってこの東富士演習場に狙いを定めたのは、そのような理由があった。

 そして、仮に彼女が東富士演習場の取材を行っていて、その際に事件が発生したのだとすれば、事件の構図はがらりと変わって来る。仮に犯行が演習日以外に行われていたとすれば、周囲数キロにわたって誰もおらず、また事実上の出入りが自由であるこの演習場はまさに絶好の犯行現場だ。しかも自衛隊の演習場である以上、警察も根拠がないままこの場所を捜査できるはずがない。となれば、そこに犯行の痕跡が残っている可能性が極めて高いのである。それを探し求めて、出雲はこの場所に来ていたのだった。

 もちろん、この広大な演習場から犯行の痕跡を捜し出すのは大変だが、出雲も当てもなく探していたわけではない。

 先の推測が正しいなら、そもそも森川景子の目的は「東富士演習場からの富士山の写真を撮る」事であり、当然事件発生地点も彼女が写真を撮ろうとした現場である可能性が非常に高い。だが、いくら演習日外の出入りが自由とはいえ勝手に不法侵入をしている以上、見晴らしの良い開けた場所で写真を撮るなどという事をするとは心理的な観点から考えにくい。よって、探索地点はこうした森林地帯が第一候補となる。

 その上であくまで富士山の写真を撮るというのであるなら、富士山に近づきすぎては全体像を収めきれないので何の意味もないし、また演習場の外周付近では演習場の外からも同じような写真が撮れてしまうためそもそも侵入してまで写真を撮る意味が薄い。また、当然木々が生い茂りすぎて富士山そのものが見えない場所などは論外であり、見えたとしても物が雑誌掲載用の写真である以上はそれなりの構図は求められる。

 以上から探索ポイントは、演習場内の森林地帯であり、富士山や演習場の外周から一定程度の距離があって、なおかつ木々などの間から富士山……それも雑誌に掲載できるレベルの構図がはっきり確認できる場所、という事になってくる。いくら広大な演習場とはいえ、この条件に当てはまる場所というのはそうないはずだった。無論、いきなり闇雲に探しているわけではなく、あらかじめネットの衛星写真や富士山側から直接見てある程度場所に絞りをかけており……先日、太郎坊に登ったのはそうした意味もあった……これで見つからなければまた別の候補地を絞ってという事を繰り返すつもりでいた。

 が、実際はそこまでしなくてすんだようである。探し始めてから五時間程度経過した頃だろうか。森林地帯の一角……まさに正面の木々の間から富士山が見えるその地点で、不意に出雲は足を止めて地面を見つめた。

「……当たり、でございますね」

 そこには、一ヶ所だけ土の色が変色している場所があった。カモフラージュのつもりなのか草がかぶせられ、なおかつ事件から半月以上経過しているので雑草も生えてきているようだったが、出雲の目はごまかされなかった。

 出雲がキャリーバッグの底を軽く蹴ると、上から小さな園芸用シャベルが飛び出してくる。出雲はそれを無造作にキャッチすると、そのまま慎重にこの部分を掘り返し始めた。そのまま三十分ほどが経過し、やがてその手が止まる。

「おやおや……随分あからさまでございますね」

 そこにあったのは、森川景子の持ち物の中で今まで発見がなされていなかった彼女のリュックサックや一連の写真道具、それに一人用の小型のテントセット一式だった。カメラはデジタルではなく旧来のアナログのフィルムを使ったもので、ご丁寧にフィルムは抜き出されて感光させられてしまっている。もちろんこうなってしまえば、そこに何が写っていたのかを知る手立てはない。さらにもう少し掘ってみると、粉々に砕かれた携帯電話らしきものも見つかった。ただ、くりぬかれた心臓のようなものはこの場には確認できない。

 とはいえ、こうして彼女の遺品が見つかった以上、出雲の推理が正しい方向に進んでいる事の証明になるはずだった。もちろん後でちゃんと本人の物かどうかを調べる必要はあるだろうが、指紋などは間違いなく彼女のものと一致するはずだ。ただ、最初からわかっていなければ、元々自衛隊の演習地で人の立ち入りも少ないこの場所からこれらの物品を見つけるのはまず不可能だっただろう。もちろん、犯人もそれを理解した上でこの場所にこれらの遺品を埋めているはずだ。一筋縄でいきそうにないのは間違いなさそうだった。

 しかし出雲はそんな事など気にしないと言わんばかりに、無言で目の前に転がる証拠品を見下ろすと、おもむろにキャリーバッグの底を蹴って、飛び出してきた書類を掴んだ。それは、先日東から受け取った、犯行日前後に御殿場市で行われた出来事を雑多に並べた物だった。

 先程の推論は、あくまで「犯行が演習日以外に行われていた」事を前提とするものだった。その場合、犯人はこの演習場に侵入した第三者の可能性が非常に高くなってくる。だが、犯行日とされる五月二十四日の御殿場市の出来事には、このような記述が確認できたのだ。

『東富士演習場にて、陸上自衛隊による臨時合同演習』

 そう、犯行当日、この演習場では自衛隊の演習が行われているのである。記述によれば日程のずれこみによる本来より一日早い臨時の演習だったそうだが、そうなってくると根本的に推理を考え直さなければならない。

 証拠品がこうして見つかった以上、犯行現場がこの東富士演習場である事は間違いない。犯人は東富士演習場のこの場所で被害者を殺害し、おそらくは夜にでも犯行現場をごまかすために車か何かで遺体を山梨の樹海へと移動したのだろう。自衛隊の演習場である以上、放っておけば遺体がいずれ見つかるのは明白だからだ。実際、二人のボランティアがたまたま見つからなければ、樹海の遺体は見つかっていなかったはずだ。

 しかし、事件当日に演習が行われていたとなれば、大きな問題が二つ浮上する。一つは、演習中のこの場所になぜ森川景子が立ち入ったのかという事だ。言うまでもなく、演習中の一般人の立ち入りは厳しく制限され、演習直前には周辺地域に対してサイレンで警告が行われる。

 だが、これに関して出雲はある仮説を立てていた。彼女が事件数日前から現地入りし、写真撮影のためには野宿する事も多かったという証言を考慮すると、彼女がこの演習場でキャンプを張っていた可能性が出てくるのだ。もちろん、演習日などはちゃんとチェックしていたのだろうが、先程の記録では二十四日が演習日になったのは急な日程の前倒しによる臨時処置である。となれば、何も知らずに演習場でキャンプしていた彼女が、演習とかち合ってしまった可能性が出てくる。もちろん違法行為だが、こう考えれば彼女が演習場にいた事について疑問とはならない。

 問題はもう一つの方である。演習日以外の犯行であればあらゆる人間が犯人候補になって来るが、これが演習中の犯行だとすれば話は別だ。演習中の自衛隊の演習場で事件を起こせるのは、ただ一つの職種しか考えられない。

 それはすなわち……

「自衛官の犯罪、でございますか」

 出雲は厳しい声でそう呟いていた。この演習場が犯行現場である可能性が出てからその可能性は考えていたが、いざその証拠が出てくるとなかなかに重いものがある。もっとも、それでひるむような出雲ではないのだが。

 しかし、自衛官の犯罪となってくるとそれはそれで問題である。誰が犯人なのかはこれからの調査次第だが、なぜ自衛隊員が森川景子を殺害しなければならないのだろうか。何しろ、彼女がこの演習場にいたのはあくまで偶然に過ぎない。その動機が見えてこないのである。

 出雲が思案していると、不意に懐の携帯電話が鳴った。真黒な携帯電話を取ると、相手は東だった。

『例の件、調べたぞ』

「ご苦労様です」

『手短に用件だけ言う。事件当日、東富士演習場で演習していたのは陸上自衛隊第1師団第60普通科連隊。その演習場の近くにある北御殿場駐屯地を本拠地にしている新設されたばかりの連隊だ』

「自衛隊の連隊、でございますか」

 出雲の目が厳しくなる。自衛隊の普通科連隊というものは通常複数の中隊などが組み合わさって自衛官一〇〇〇人前後で構成されるものだ。犯人がこの中にいるとしても、とてもではないが候補が多すぎる。

 そこで出雲は即座に東に指示を出した。

「その演習、正確には隊ごとに演習をしていた場所は違うのでございませんか?」

『まぁな。演習場も広いから、あちこちに散らばっていやっていたらしい』

「では、今から言う座標の地点で演習をしていた部隊を割り出して頂けますか?」

 出雲が座標を述べると、東はしばらく何かを調べていたようだが、やがてこう返事した。

『その辺は森林地帯だな。そこで演習をしていたのは第2普通科中隊の第3小銃小隊だ』

 陸上自衛隊の普通科連隊は、先程も言ったようにいくつかの中隊によって組織され、それぞれの中隊もまたいくつかの小銃小隊で組織される。東の話では、第60連隊は四つの中隊で組織されており、それぞれの中隊には同じく四つの小銃小隊があるらしい。一つ当たりの小銃小隊は二十一名~三十二名。つまり、これで容疑者が一気に三十名前後まで減った事になる。それならまだ何とかなる範囲だと出雲は瞬時に判断した。

「ありがとうございます。どうやら目途が立ったようでございます」

『……調べるのか、自衛隊の第60連隊を』

 東がこちらも厳しい声で言う、無理もない。相手が自衛官だとすれば、相手の身分如何によっては、最悪の場合自衛隊そのものを敵に回す事が想定されるからだ。だが、出雲は一切迷う事なくはっきりと宣告した。

「もちろんでございます。先程、北御殿場駐屯地と申されましたが?」

『あぁ、その近くにある新設された駐屯地だ。連隊が入っているだけあってかなりの大型駐屯地になる』

「となれば、調査の主舞台はこの演習場ではなくそちらの駐屯地になりそうでございますね。東さんにも協力して頂きますが、よろしいですか?」

『ここまで来たら後には引けないのは俺も変わらねぇが……さすがに自衛隊の駐屯地となると俺一人では骨が折れるぞ。できないとは言わないが、それなりに時間がかかる』

「それに関してはこちらにも考えがございます。あなたはあなた自身の考えて動いてください。さしあたっては問題の第2普通科中隊第3小銃小隊のメンバー全員の名簿でございますね。あなたが調べている間に、私もいくつか手を打たせて頂きます」

『わかった、駐屯地の場所を教える。無理はするなよ』

「誰に物を言っているのでございますか?」

『冗談だ。名簿に関しては今夜にでもそろうと思う。受け渡し場所は追って連絡する』

「わかりました。他に何かわかった事は?」

『それだがな、ちょっと気になって被害者の事をもう一度調べ直した。もっと言えば森川景子の祖先に関する事だな。そしたら意外な話が浮かんできた。東富士演習場が開かれたのは一九一二年に当時の陸軍が演習場を開設した時だが、その頃の森川家は今の御殿場市に住居を構えていた事がわかった。そして、この時東富士演習場の一角に、村の入会地という形ではあったが自身の土地をわずかながら所有していた』

 その言葉に出雲の眉が動いた。

「それは本当でございますか?」

『役所のデータを参照して調べたから間違いない。さらに言えば、森川家は太平洋戦争後に東京に移住して現在に至っているが、どれだけ調べても森川家が該当する東富士演習場の土地を売ったという記録が確認できない。買収記録もない上に、自衛隊は東富士演習場の地元住民の入会権を認めてしまっている。つまり、法的には森川家は未だに東富士演習場の土地を入会地という形で所有し続けているという事になる。おそらく、登記は今でも森川家のものになっているはずだ。これが事実ならつまり……』

「森川家は東富士演習場の地権者であり、すなわちちゃんと入会権を持っていたという事でございますか」

『そうなるな。つまり、彼女は数少ないその演習場に入る権利を持つ人間だったわけだ。実際調べてみたが、入相団体の構成員の中に森川の名前もちゃんとあったよ。つまり、演習日でなければ、彼女が演習場に入る事は違法行為ではない事になる』

 だとするなら、彼女が演習場に入るという危険を冒した理由も説明がつく。彼女の両親が事故死して森川家が彼女一人である現状、彼女は森川家の土地管理を一人で行っていた事になる。となれば、東富士演習場の入会権を自身が持っている事も知っていたはずだ。そして今回の写真展の企画を受け、この権利を使ってこの場所での写真を撮影しようとしたのだろう。まさか、演習日が前倒しされるなどとは夢にも思わずに。

「一応聞きますが、彼女が所有する土地の座標は?」

『お察しの通り、あんたがさっき言った場所だ。広さ自体はそこまで大きくないがな』

 つまり、出雲が今いるこの地点こそが森川景子の所有する土地だった事になるのである。これですべてに合点がいった。

「……調べて頂いてありがとうございます」

『いつもの事だ。次は名簿を渡すときに会おう。じゃあな』

 電話が切れる。出雲は携帯をしまうと、そのまま無言で北御殿場駐屯地のある場所の方角を見つめたのだった。

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