幕間 六月十五日 太郎坊

 夜が明けようとしている。暗かった空が薄明るくなっていく中、黒井出雲は富士山麓の開けた場所に立って、そこから麓の方を見下ろしていた。

 太郎坊。静岡県御殿場市の北方に位置する富士山中腹の地名である。標高は一三〇〇メートルから一五〇〇メートル前後。麓の御殿場市を見下ろす事ができる絶景ポイントであると同時に雪崩の名所でもあり、冬場は閉鎖されている場所だ。開山は吉田口同様に七月なので人の姿はなく、若干強めの風が出雲の服や髪を揺らしている。

 『心臓強盗』の模倣犯・秋口勝則との対決から、すでに六時間程度が経過しようとしていた。矢頼千佳はすでに旅館に送り返してある。今後の事はすでに指示をしてあった。

「よう」

 と、その後ろから声がかけられる。声の主は、情報屋・東であった。

「富士樹海にオペラシティビルと来て、今度は随分なところまで呼び出してくれたな。人使い荒すぎるぞ」

 東の軽口にも出雲は答えない。東は肩をすくめると、黙って出雲の横に立った。その視界の先には、夜明けを迎えようとする御殿場の街が広がっている。

「……話は聞いたぜ。心臓強盗、見事に見つけたそうじゃないか。これで依頼は終了か?」

 東はからかい気味にそう声をかける。が、そうでない事は本人が一番よくわかっていた。案の定、出雲は麓を見下ろしながらその問いを否定する。

「まさか。依頼はまだ何も終わっておりません」

「だろうな。話を聞く限り、あんたが依頼人から受けた依頼は『心臓強盗』への復讐じゃなくて、『森川景子を殺害した犯人』への復讐だ。一方、『心臓強盗』こと秋口勝則は最初の犯行の模倣犯であり、二件目と三件目……つまり浦井祥子と佐田豊音を殺害した犯人に過ぎない。となれば、秋口を殺したところで、依頼は全く達成されていないという事だ」

 そう、出雲の仕事はまだ何も終わっていないのである。秋口勝則は確かに『心臓強盗』だった。だが、出雲の依頼相手は斧木陽太であり、その依頼は森川景子殺害犯への復讐である。この事は依頼時に出雲自身がちゃんと確認した事項である。つまり、森川景子を殺害した犯人が見つからない限り、出雲の依頼は終わらないのである。そしてそれは、出雲という殺し屋の仕事が、未だ継続している事も意味していた。

「で、さっきの質問に戻るが、どうしてここに? 『心臓強盗』は山梨県の富士樹海で起こっていたはずだが?」

「……今までの調査で判明した事は一つでございます。すなわち、一件目の事件と二件目以降の事件は別物であるという事。そして、すべての発端となった真の『心臓強盗』は、最初の一件しか殺人を行っていないという事でございます」

 出雲は淡々と言葉を発した。東は黙って先を促す。

「二件目と三件目が猟奇的な犯行になっていたのは一件目の模倣。それ以上でも以下でもございません。では、一件目は果たして猟奇殺人犯の仕業だったのでございましょうか。確かに、一件目の犯人が心臓を持ち去っていて猟奇的である事実は変わりませんが、本当は犯行が一件しか起こっていない以上、『心臓強盗は猟奇殺人事件である』という根本的な部分から考え直さなければなりません。もし本当に犯人が心臓を持ち去るという猟奇的な趣味を持っていたのだとすれば、犯罪心理学的に考えれば犯行が一件で終わるとは思えません。しかし、実際は森川景子殺害の一回だけ。だとするなら、二件目以降の事件同様にこの第一の犯行も考え方を最初から改める必要がございます。すなわち、一件目の事件も本当に世の人々が思い浮かべるような猟奇殺人といえるのか?」

「猟奇殺人でないなら、どうして心臓なんて持ち去ったっていうんだ?」

「持ち去った、のではなく、持ち去らざるを得なかった、のだとすればいかがでございましょうか? もっとも、これは矢頼千佳様の考えでございますが……」

 出雲の意味深な問いに、東は首を振る。

「俺にはわからんね」

「……もう一つ。今まですべての犯行は山梨県側で行われたと考えられていました。実際、二件目以降は確かにそうだったわけでございますが、二件目以降が模倣犯だと判明した今、その前提さえも考え直す必要がございます。と言いますのも、森川景子が宿をとった篭坂峠という位置から考えて、犯行は山梨県と静岡県のどちらで行われていたとしてもおかしくないからです」

「確かに、警察でも二件目の犯行が起こるまではどっちかわからないという判断だったな。浦井祥子の殺害で山梨県と確定したが」

「ですが、今回の調査で二件目以降は考慮する必要がない事がはっきり致しました。だとするなら、静岡側に関しても調べてみる必要があるというものでございます。そしてその場合、篭坂峠からの位置的な関係上、被害者が立ち寄る可能性が一番高いのがここでございます」

「静岡県御殿場市、か」

 東は麓の街を見下ろしながら呟いた。

「それで、調べてきて頂けましたか?」

「事件前後……すなわち森川景子が殺害された五月二十四日前後に御殿場市で何かなかったかという話だったな。とりあえず、当日御殿場市であった出来事を雑多に調べてきた。どの情報を選ぶかはあんたに一任する」

 東が手渡す書類を受け取ると、出雲は軽くパラパラとその書類を見やった。そして、ある一点でその視線が止まる。

「やはり……」

 それは、出雲が何かを確信したという事であった。同時に、その表情が今までに見た事がないほど厳しいものになる。それを見届けると、東は出雲を見ながら興味本位と言った風に尋ねた。

「これからどうするつもりだ?」

「……この場所、どういう場所かご存知ですか?」

 東の問いに対し、出雲はしばし黙った後、唐突にこんな事を言い始めた。

「曖昧な質問だな」

「今から四十年ほど前の話でございます。情報屋のあなたであるなら、それだけでわかるはずでございますが」

「……BOAC機の事故現場、だな」

 その言葉に、出雲は頷いた。

「一九六六年三月五日、英国海外航空、通称BOACの九一一便が羽田空港を離陸後、富士山上空で空中分解を起こしてここ太郎坊に墜落。乗客乗員一二四名全員が死亡した事故でございます。この近くに慰霊碑があるはずでございますね」

「富士山の発生させる巨大な山岳波が空中を飛ぶ大型旅客機をバラバラに粉砕した、って聞いている。後の調査では、墜落の何年か前に同じ場所で空自の戦闘機二機もこの山岳波で墜落していた事が発覚したらしい。以降、富士山上空の飛行はかなり厳しく制限されているそうだ。一見優雅な富士山が、一〇〇名以上の人間を殺す思わぬ牙を持っていたという事だ。それで、それが何か?」

「……この先、この御殿場で似たような事が起こるかもしれない。そういう事でございますよ」

 それだけで、東は何かを悟ったようだった。

「一見虫も殺さぬ姿のあんたが、四十年前の惨劇を再現するってか?」

「私の考えている最悪の状況によってはそうなるかもしれないという事でございます」

 そして、出雲は御殿場市のある一点を睨みつけた。

「もちろん、私もそうならない事を祈ってはおりますが……私はいかなる場合でも一度受けた依頼を中止する事はございません。それがどんな相手であろうとも、です」

 そう言って出雲の見つめる先に、それはあった。そこは富士山の麓に広がる開けた土地であり、同時に、殺し屋が狙うにはあまりにも常識外れの場所であった。その開けた土地を、世の人々はこのように呼んでいる。


 陸上自衛隊・東富士演習場、と。


 後に『北御殿場基地事件』と呼ばれ、復讐代行人犯行史上最悪の事件として『殺し屋・黒井出雲』の恐怖を世に刻み付ける事となった前代未聞の悪夢への道が、静かに始まった瞬間である。

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