第五章 六月十三日 殺意

 翌日、六月十三日水曜日。東京・上野。この日、黒井出雲は上野公園の近くにあるビルの前に立っていた。目的は、そのビルの中に入っている出版社である。社名は『山東社』といい、主に写真誌の発行を行っている会社だ。特に「フォトマウント」という山岳写真専門の月刊写真誌に力を入れていて、登山愛好家を中心にそれなりの売り上げを伸ばしていた。

 その「フォトマウント」の編集者に、川廣松治という男がいた。出雲はチラリと写真を確認する。三十代半ばの中肉中背の男で、自身も若い頃は日本各地の山を制覇していたという登山家の端くれである。そして、この川廣という編集者こそが、心臓強盗事件第一の犠牲者である森川景子の担当編集者だった。今日の出雲の目的は、この川廣という男である。

 すでに斧木の名をかたってアポイントメントは取ってある。今までと違って向こうもそれで信じてしまったらしく、比較的スムーズに話が進んでいた。その事もあって、出雲は全く憶する様子もなく会社の入っているビルの三階へと向かう事ができた。

 エレベーターを降り、少し進むと「山東社」の入っている部屋の前に到達する。出雲は軽くドアをノックすると、その中に入った。

「失礼いたします」

 小規模出版社とはいえ、中は雑多な印象で何人かの社員が忙しそうに動き回っていた。山岳写真を専門としているだけあってかその手の本や登山道具なども置かれている。そんな中、動き回っていた社員の一人が出雲に気付いたらしくこちらに近づいてきた。川廣と同じく三十代半ばの無精髭を生やした男だ。

「あの、何か?」

「お忙しいところ失礼いたします。先日連絡を取らせて頂いた大和日名子と申します。川廣様にアポイントメントを取っているはずでございますが」

「あぁ、君か。川廣から話は聞いてるよ。斧木君の恋人の親戚なんだって? 斧木君も森川君と一緒に何度かここに来たことがあるけど、今回はその……残念だったね」

 どうやら、森川景子の恋人だった斧木陽太も何度かここに来たことがあるらしい。それだけに、比較的あっさり日名子こと出雲の話を信じてくれたようだった。

「失礼ながら、あなた様は?」

「俺か? 脇野公人、『フォトマウント』の編集長だ。今、社長が海外出張で出払っているものだから、一応社長代理って事になるかな。ま、よろしく」

 男……脇野はそう言って挨拶した。この男が編集長というのも少し意外な話だが、ある意味好都合である。

「それで、川廣様は?」

「あぁ、今、奥のパソコン室で写真の現像をしているところだ。少し待ってくれるか?」

「構いません」

「じゃ、こっちに座っていてくれ」

 出雲はそのまま来客用のソファに案内され、脇野が自らお茶を出してくる。それから五分ほどして、奥の部屋のドアが開いて、写真で見た中肉中背の編集者が顔を見せた。担当編集者の川廣松治である。

「おい、川廣! お客さんだ!」

「すみません、ちょっとデータ処理に手間取っちゃって。あと十秒待ってください」

 脇野の言葉に、川廣はすぐさま自分のデスクに資料を置くと、頭をかきながら出雲の前のソファに腰掛けた。なぜか隣に脇野も座る。

「あの、何で編集長が?」

「いや、この際編集長として同席させてもらいたい。まだ森川君のお悔やみも言えてなかったしな」

「はぁ」

 川廣は少し戸惑っていたが、考えても仕方がないと思ったのか改めて出雲に向き直って挨拶した。

「改めまして、森川さんの担当編集者をしていました川廣です。よろしくお願いします」

 そう言いながら川廣は名刺を差し出す。出雲はそれを受け取ると、それをテーブルの上に置いてこちらも丁寧に頭を下げた。

「大和日名子と申します。本日は、お忙しいところお時間を割いて頂いてありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ、本来でしたら森川さんの御葬儀に出るべきだったのですが、彼女が死んで雑誌の編成が大きく変わりましてね。つい行きそびれてしまったのです。斧木さんによろしく伝えてください」

 川廣は恐縮気味に頭を下げる。

「承知いたしました。さて、早速ですが、お話を聞かせて頂けませんか?」

「電話口でのお話では、森川さんの事について詳しく聞きたいという事でしたね」

「彼女の仕事に関して詳しく知りたいと叔父様も申していました」

「なるほど。わかりました。僕のわかる範囲でお教えします」

 川廣は気さくに出雲の要請に応える。

「森川君はいわゆるフリーカメラマンでしてね。うちには契約カメラマンという事で出入りしていました。彼女の撮る写真は綺麗なものが多くて、雑誌上でもなかなかに評判だったものです。それだけに、今回の事は非常に残念に思っています」

 川廣はそう言って沈痛そうな表情を浮かべた。

「山岳カメラマンという事でございましたが、具体的にはどのような山を?」

「こう言っては何ですけど、日本にある有名な山はほとんど登っていたと思いますよ。行動が積極的で、色んなところに行っていたみたいです」

「富士山にも?」

「もちろんです。彼女は富士山が好きで、今までにも何度か富士山の写真を撮っていました。実は今回、うちの雑誌で富士山特集をする事になりまして、改めて今までにない角度から富士山周辺の景色を取ってほしいと彼女に撮影を依頼したんです。少し難しい注文だったのですが、彼女は何か当てがあったのかあっさりOKしてくれました。それがまさか……こんな事になるなんて」

 多少責任を感じているのか、川廣は悲しそうな顔をした。

「今までにない富士山の写真、でございますか」

「えぇ。ただ、どんな写真を撮るつもりだったのかは、彼女が死んだ今となってはわかりません。カメラも盗まれていたようですし」

 そう、事件現場には彼女の持っていたリュックサックは残されていなかった。これもまた、事件における大きな謎の一つであった。

「森川様と最後に会ったのはいつですか?」

「五月二十日だったと思います。この部屋で富士山撮影の依頼をして、彼女が了承したのが最後です。撮影方式とかはすべて彼女に一任していましたから、どういう撮影ルートだったのかまではわかりません」

「その時、何か変わった事はございませんでしたか?」

「うーん、特になかったと思いますよ。普段通りの彼女でした。ですよね、編集長」

「あぁ、俺から見てもそう見えたよ。別に変わった事はなかった」

 川廣はあっさり答え、脇野も同調する。

「何でもいいのでございます。何か思い出す事はないでしょうか?」

「そうですね……あ」

 唐突に川廣が声を上げた。

「何か?」

「いや、大したことじゃないんですけど、打ち合わせ中に彼女の携帯電話に着信がありましてね。誰からかと聞いたんですけど、その時彼女は、昔の職場の先輩だと言っていたんですよ」

 出雲の目が小さく光る。

「昔の職場、と申しますと?」

「彼女、最初は大手出版社の講英館が発行している『現代深層』っていう週刊誌でカメラマンをしていたんだ。一年で辞めてフリーになったはずだけど、先輩となればそこしか考えられないな」

 脇野が答える。確かに、そんな話は東の報告書にも載っていた。

「『現代深層』とはどのような雑誌でございましょうか?」

「俺らと違って、バリバリの本格的な社会派雑誌だよ。政治家の汚職とか警察不祥事とか自衛隊と住民のトラブルとか……社会問題や政治問題に関する硬派な記事を次々叩き出していて、スクープの数も多い。ま、俺らからしてみれば天の上の存在だな」

 脇野は冗談交じりに言った。

「川廣様、その『先輩』の名前はわかりますか?」

「確か……電話口で森川さんは『オオガキさん』と呼んでいましたよ。後で聞いた限り、東城大学の写真部にいたときの先輩らしいです」

 そこまでわかれば後は自分で調べられるだろう。出雲はとりあえずこの件については後で調べる事にし、話題を別のものに移した。

「森川様が亡くなって、記事はどうなるのでございますか?」

「それなんだが、急遽特集記事……というより彼女の追悼特集をやろうと思っている。今まで彼女が撮ってきた写真の中でも出来のいいものを一挙掲載したいと思っていてね」

 脇野が口を挟んだ。

「その写真、見せて頂くわけにはいきませんか?」

「発刊前だからそれは困る……と言いたいところだが、他ならぬ斧木さんの親戚じゃ、見せないわけにはいかないだろうな。くれぐれも発刊までは内密に頼むよ」

 そう言うと、脇野はいったん自分のデスクに戻り、何枚かの写真を持ってきた。

「拝見します」

 出雲はそう言って頭を下げると、その写真をサッと確認していく。川廣が言ったように様々な山の写真が撮られている他、高原植物や動物の写真も多い。さすがにこれで生活しているだけの事はあってかなりの撮影技術で、川廣達が絶賛するのもある意味納得できる話だった。

 出雲はそうした写真をすばやく確認していくと、改めて富士山やその周辺が写されている写真をピックアップした。富士山が好きだったというだけの事はあってその数は多く、山頂や登山中の写真はもちろん、静岡側、山梨側双方からかなりの数を撮影している。遺体発見現場となった樹海周辺と思しき写真もそれなりにあった。

「……ありがとうございます。参考になりました」

 出雲はそう言って写真を返却する。が、脇野は笑いながら首を振った。

「いやいや、気に入ったのがあるなら何枚か持って行ってもかまわないぞ。データはパソコンの中にあるからな」

「あの、編集長。さっきくれぐれも内密にと言っていませんでしたか?」

「川廣、細かい事を言うな。この子なら約束を破るような事はしないだろう」

「そんな、いい加減な……」

 川廣がため息をつく。とはいえ、くれるというのならもらっておいて損はないだろう。

「では、お言葉に甘えて」

 そう言うと、出雲は富士山関連の写真をもらう事にした。

「僕らから話せるのはこのくらいです。参考になりましたか?」

「貴重なお時間、ありがとうございました。では、私はこの辺で失礼させて頂きます」

 出雲はそう言って立ち上がると改めて二人に一礼した。

「また何かあったら気楽に来て構わないよ。それと、できれば来月号の感想も送ってほしいな」

「……前向きに善処させて頂きます。それでは」

 脇野の言葉に対し、出雲は彼女にしてはやや珍しい事に苦笑めいた笑みを浮かべると、そのまま「山東社」を後にしたのだった。


 その数時間後、文京区にある大手出版社・講英館のビルの前。黒井出雲はそこに姿を現していた。言うまでもなく、森川景子が大学卒業後の一年間勤めていた会社である。

 山東社を出た後、出雲が真っ先に向かったのは国会図書館だった。そこには今まで国内で発刊されたすべての書籍が納められており、それは「現代深層」も例外ではない。該当する年代の「現代深層」を片っ端から調べ、森川景子の先輩だったという「オオガキ」なる人物が誰なのかを特定する。それが出雲の狙いだった。

 狙いはあっさり当たった。この条件で該当する人物は一人。当時「現代深層」の担当編集者だった「大垣仁」という男だった。念のために最新の「現代深層」も調べてみたが、彼は現在でも「現代深層」の編集者を続けているらしい。

 この男が森川景子と同じ大学出身だという事はすでにわかっている。出雲は即座に彼女の出身大学である東城大学に向かうと、その事務室に潜入して歴代の卒業アルバムをチェック。この大垣仁なる男の写真をピックアップするとそれを頭の中に叩き込み、その足で直接講英館に向かったのである。

 もちろん、山東社と違ってアポなしでこんな大企業を訪れるわけにもいかない。ゆえに出雲は、ビルの前の道路からジッと出入りする人間を見つめていた。通常ならこんな事をしている出雲のような特徴的な格好の少女はすぐに怪しまれるはずなのだが、なぜだか誰も出雲に注目しようとしない。まるで多数の人間が行きかう東京という都市の人混みという背景に紛れ込んでいるようにも見える。そんな中で静かにビルを見つめる出雲は、まるで獲物を静かに待っている肉食動物のそれに近かった。

 そして、しばらくしてそんな出雲の狙いは的中する。正面の巨大なビルの入口から、スーツを着た一人の男が姿を見せたのだ。その瞬間、出雲は間髪入れずに動いていた。卒業アルバムの写真から少し歳を取っているが間違いない。その男こそが、「現代深層」編集者にして森川景子の先輩だという大垣仁その人だった。

 出雲はビルからどこかへ歩いて行こうとする大垣に素早く近づくと、そのまま後ろから声をかけた。

「大垣仁様、でございますね?」

 その言葉に、大垣は思わず足を止めて振り返る。その顔には訝しげな表情が浮かんでおり、出雲が誰なのかを懸命に思い出そうとしているようだった。

「はぁ、確かにそうですが……ええっと、すみません、顔が思い出せなくて。どなたでしたか?」

「思い出せないのも無理はございません。初対面でございますから。初めまして、大和日名子と申します」

 出雲はもう何度目かわからない偽名を名乗ると、軽く一礼した。

「大和日名子……その日名子さんが私に何の用ですか?」

「実は、森川景子様の事について少々お話を伺いたくて。森川景子、御存知でございますね?」

 その言葉に、大垣の顔が厳しくなる。

「君は一体?」

「私は森川様の婚約者である斧木陽太の姪でございます。今回、叔父様の代わりに森川様が殺害された事件に関して独自に調べているのでございます」

「斧木陽太……。確かに森川君から婚約者としてその名前を聞いた事があるが……。いや、すまない。いきなりの話で戸惑ってしまった」

 大垣はそう言うと頭を下げる。どうやら性格的にかなり実直な人間らしい。とはいえ、そういう性格であるならこの説明で出雲の事を完全に信じたとは思えない。案の定、大垣の次の言葉は慎重だった。

「しかし、言葉だけではどうにも信じられないものでしてね。何か証拠があればいいんですが……」

「無理もない話でございます。では、こちらでいかがでございましょうか」

 そう言うと、出雲はポケットからある物を取り出して大垣に見せた。それは、あらかじめ斧木から送ってもらっていたもので、彼女の形見だというペンダントだった。裏には森川景子のイニシャルも入っている。

「これは……確かに彼女がしていたものですね」

「納得して頂けましたか?」

「……まぁ、いいでしょう。別に疑うような事でもありませんし」

 大垣はそう言うと改めて出雲の方へ体を向けた。

「それで、話を聞きたいという事ですが」

「お時間はございますか?」

「まぁ、少しくらいなら構いませんよ。立ち話もなんですから、どこか喫茶店にでも入りませんか?」

 出雲は了承する。それを受けて大垣は少し歩くと、講英館のビルの近くにある小さな喫茶店に入った。

「ここ、私の行きつけなんです。狭いですが、まぁ我慢してください」

 大垣はコーヒーを注文し、出雲も同じものを頼む。注文した品が来た時点で、出雲は話の口火を切った。

「早速でございますが、いくつか質問をさせて頂きます」

「構いません。どうぞ」

「実は先程、森川様が事件直前に訪れていた山東社という出版社にお邪魔していました。その中で、打ち合わせの最中に森川様があなた様からの電話を受けたという話を聞きました。その電話について教えて頂きたいのでございます」

「電話、ですか。すみません、日々たくさんの電話を受けているもので日付がわからないと何とも言えません。具体的にはいつの事ですか?」

「五月二十日だと伺っています」

「五月二十日……あぁ、あの事か」

 大垣には思い当たる節があったらしい。

「えぇ、確かに電話しましたよ。でも大した要件じゃありません。近々大学の写真部OBでOB会をするからと、その出席確認を取っただけです。私が幹事だったんですよ」

「話したのはそれだけでございますか?」

「えぇ、私からはそれだけでした。ただ、その時森川君の方から頼み事をされましてね」

 聞き捨てならない事を言われて出雲の目が光った。

「頼み事、と言いますと?」

「いや、大したことじゃないんです。ただ、自分がうちで働いていた頃の『現代深層』のバックナンバーがあれば何冊かほしい、という事でしたね。ちょうど余りもあったし、電話口で聞いた彼女の家に郵送しておきました」

 大垣は特に問題ないように言うが、出雲からしてみれば重要な事だった。この時、森川景子は山東社からこれまでにない構図での富士山の撮影を依頼されていた。だとするなら、この頼み事にも何かあるのではないかというのが出雲の推察である。

「つかぬ事を聞きますが、そのバックナンバーに富士山に関連する内容の記事はありませんでしたか?」

「富士山?」

 大垣は訝しげな表情になる。

「何でそんな質問をするのかはわからないけど、そんな内容あったかなぁ。うちは基本的にバリバリの社会派記事だから、自然絡みのネタはあまりやらないはずです」

「では、全くなかったと?」

「……いや、確か富士山の世界遺産登録をめぐる景観問題を一度特集した事がありますね。ちょうどごみ問題で自然遺産登録が頓挫した頃の話ですから。あとは同じ世界遺産絡みで三保の松原を候補に入れるかどうかの問題とか。でも、富士山にかかわるのはそれくらいです」

「では、富士山周辺の記事ではどうでしょうか?」

「周辺というと、山梨と静岡の辺りですか。そこまで広がると逆に候補が多すぎますね。山梨出身の議員の汚職を巡る問題とか、自衛隊の基地をめぐる住民との軋轢とか……。そこまでいくと詳しくはバックナンバーを読んでくださいとしか言えませんね」

 大垣は困惑気味に言う。出雲もこれ以上は情報を聞き出すのは難しいと判断した。いずれにせよ、彼女がかつての雑誌のバックナンバーを気にしていたという収穫はあった。

「一応お聞きしますが、森川様が講英館を退職された後、問題の電話までは大垣様は森川様と付き合いはなかったという事でよろしいですか?」

「そりゃ年賀状交換したり、仕事の都合で年に一度くらい会ったりした事はありますから全くなかったとまでは言いませんが、ほとんどないに等しいですね。あぁ、でも一ヶ月くらい前に久しぶりに街で再会して、その時に一緒に近くのラーメン屋で食事をしましたね。斧木さんと婚約したという話もその時に聞きました」

 大垣は慎重に言葉を選びながら言う。

「森川様の様子に以前と変わった事はございましたか?」

「なかったと思いますけどね。むしろ前よりも明るくなっていたかな。今の仕事にも満足しているようでしたし、結婚前で幸せそうな感じだったと思います」

 大垣の答えはあくまで当たり障りのないものが多かった。丁寧な物腰に反して、なかなかにしたたかな男である。

「……あの、もうよろしいですか? 私も仕事がありますので」

「仕事というと、どちらへ?」

「日本中央テレビに行くんです。報道番組のプロデューサーと少し打ち合わせがあって」

 その言葉に出雲は反応を示した。日本中央テレビと言えば、第三の被害者である佐田豊音の勤務先だ。

「差し支えなければ、ご一緒してもかまいませんか?」

「え?」

「私もこの後、日本中央テレビに用があるのでございます。そこまではご一緒しても?」

「ま、まぁ、構いませんけど……」

 突然の成り行きに大垣は戸惑い気味である。が、出雲はこの時すでに立ち上がっていた。

「では、参りましょう」

 穏やかに微笑みながらも、出雲の頭の中では今まで集めた情報が目まぐるしく整理されているところだった。


 日本中央テレビは六本木近くにある民放のテレビ局である。すでに現地で取材中の秋口たちには話を聞いていたが、テレビ局そのものに足を運ぶのは出雲も初めてである。

「あの、私はこの辺で……」

 入口まで来たところで大垣が恐縮気味に言う。見ると、受付近くに大垣を待っていると思しき男が立っている。あれが大垣の言っていたプロデューサーなのだろう。

 あの後、ここまでくる間に世間話のような事を話してはいたが、結局この男からは喫茶店以上の情報を引き出す事は出来なかった。もっとも、出雲もこの辺が限界だと思っていたので、それほど落胆はなかった。

「わかりました。貴重なお時間を頂き、ありがとうございます」

「いえ。それではこれで」

 大垣は一礼すると、そのままその男の方へ向かっていった。後には出雲だけが残される。

「さて、どうしたものでございますかね。このまま侵入するのはたやすいですが……」

 そう呟きながら出雲はテレビ局のロビーを見回す。テレビ局だけあって警備員があちこちにいるが、実際、出雲の実力をもってすれば潜入屋の手を借りずともこの程度の場所に侵入するのは造作もない事である。ただ、侵入するとなるとある程度の目的は決めておかねばならない。そう考えて出雲が手近な館内案内図に近づこうとした時だった。

「あれ? あなたは……」

 その声に出雲が振り返ると、そこには一昨日に河口湖畔で出会ったばかりのアナウンサー……矢頼千佳が困惑気味の表情でこちらを見つめていた。

「あなた様は確か……矢頼様、でございますね」

「え、えぇ。大和日名子さん、でしたよね?」

「矢頼様がどうしてこちらに? 例の事件の取材で山梨にいたのでは?」

「ちょっと用事で一度戻って来たんです。夕方にはまた山梨に戻りますけど……」

 そう言いながらも千佳の目には明らかに警戒の色が浮かんでいる。思えば、一昨日に出会った時にも、彼女は出雲の前では一言も言葉を発していないのである。彼女が出雲に対して何らかの警戒心を抱いているのは確かだった。案の定、千佳は出雲にこんな問いを発してくる。

「それで、あなたはどうしてここに? 私を待っていた、というわけでもないようですし」

「佐田様の事についてさらに詳しく知りたいと思いまして、こうしてやって来た次第でございます。それ以外に他意はございません」

 警戒気味の千佳に対し、出雲はあくまで微笑みながら答える。そして、このチャンスを逃すような出雲ではなかった。

「ところで、これも何かの縁でございます。せっかくですので、よろしければ矢頼様のお話をお聞かせ願えないでしょうか?」

「私に、ですか?」

「一昨日はあなた様から話を聞けませんでしたので。それに、矢頼様は第三の事件の後に現地入りをなされた、いわば事件の第三者のポジションにいる方でございます。そんな矢頼様の視点から見えてくるものもあるのではないかと思いまして」

 千佳の顔に迷いが浮かぶ。一方、出雲はこう言葉を続けた。

「もちろん、時間がないというのなら断っても構いません。ただ、その際は誰か佐田様の事について詳しく知っている方を紹介して頂ければ幸いです。私もここまで来て後に引く事はできませんので。いかがでございましょう?」

 千佳はしばらく慎重な様子で出雲を見つめ何事か考えていたが、やがて何かを決意した様子で小さく頷いた。

「……わかりました。情報がほしいのは私も同じです。この際情報交換といきましょう」

 どうやら、千佳の方もこれを何かのチャンスと判断したようである。そう思いながらも、出雲は表向き馬鹿丁寧に頭を下げる。

「ありがとうございます」

「そうと決まれば、このまま立ち話というのもなんですから、こちらへどうぞ」

 千佳はそう言うと、出雲を受付に連れて行き来館者用のパスを受け取らせ、そのまま局の建物の奥へと連れていく。連れていかれたのは小さな打ち合わせ室と思しき場所で、入ると同時に千佳はドアの鍵を閉めると出雲に相対した。

「厳重でございますね」

「あまり人に聞かれたくない話ですから」

 そう言いながら、千佳は途中の自動販売機で買ったペットボトルのお茶を出雲に差し出した。

「どうぞ。こんなもので申し訳ありませんが」

「いえ、お気遣いなく。話を聞きに来たのは私でございますので」

 出雲はペットボトルに口をつける事なく千佳を見据えた。

「それで、私に聞きたい事というのは何ですか?」

「……佐田豊音さんの評判や人となり、何でも構いませんので、聞かせて頂きたいのでございます」

「それが事件に関係あるのですか? この事件は無差別殺人だと聞いていますが」

「さぁ、どうでございましょうか。私は事件に関するあらゆる情報を知りたいだけでございます」

 出雲ははぐらかすように言う。一方、千佳はジッと出雲を見つめると、おもむろにこう切り出した。

「正直に言ってもらえませんか?」

「と、申しますと?」

「日名子さん、あなたはこの事件を単なる無差別殺人と思っていないのではないですか? だからこそこうして被害者の周辺をしつこく嗅ぎまわっているのでは?」

 単刀直入な問いだった。だが、あくまで出雲はとぼける態度を続ける。

「さぁ、一介の女子高生である私にはわかりません」

「一介の女子高生、ですか。私にはそうは思えないですけどね」

 千佳は意味ありげな言葉を投げかける。

「どういう意味でございましょう?」

「……この間、河口湖で会った時、あなたから言い知れぬ気配のようなものを感じました」

 唐突に千佳はそんな事を言い始める。

「気配とは大げさでございますね。一応お聞きしますが、それはどのような気配でございましたか?」

「……殺気。今でも私はそう考えています」

 その言葉に、出雲は無言の笑みで答えた。

「面白い話でございますね」

「私、そういうのはわかるんです。昔、感じた事がありますから」

「と、申しますと?」

「殺されかけた事があるんです。今から二年くらい前、大学三年の頃ですけど」

 さらりと言われて、出雲は微笑みを崩さないまま心のうちでは彼女の発言を慎重に検討していた。二人の間で、無言のうちの駆け引きが繰り広げられていた。

「何かの冗談にしては笑えませんね」

「冗談じゃありません。信じられないかもしれないけど、あなたの気配はその時相手が発していた殺気によく似ているんです」

 そう言うと、千佳は静かに語り始めた。

「二年前、私は大学の同じサークルにいた先輩と付き合っていました。でも、しばらく付き合っているうちにその先輩とちょっとトラブルになって、ついに別れる事になったんです。でも向こうはそれを認めなくて……ある日、私のアパートの部屋に侵入してきて、私を殺そうとしたんです」

 出雲は無言のままその話を聞いていた。

「いきなりベッドに押し倒されて、そのまま首を絞められて……。たまたま隣の部屋の人が物音に気付いてきてくれて、彼を捕まえてくれたので助かりましたけど、あと一分でも遅かったら死んでいたと思います。そのとき薄れゆく意識の中で感じたんです。相手が私を殺そうとしている気迫……殺気を」

 千佳は毅然とした表情で出雲を見据えた。

「少なくとも、私はあなたが発していたものが、その時感じた殺気と同じようなものだったと確信しています。その殺気が誰に対するものなのかはわかりませんけど……」

「……それが本当だとしたら、なかなかに興味深いお話でございます」

 千佳からの厳しい視線を受けながらも、出雲はそれを受け流すようにただただ笑みを浮かべたままコメントした。それを聞いて千佳は眉をひそめる。

「はぐらかすつもりですか?」

「そんなつもりは毛頭ございませんが、心当たりがないものでございまして。とにかく、そのお話は佐田様の事について聞いてから、という事に致しましょう」

 あくまで自分のスタンスを崩さない出雲に対し、千佳はしばらく何か言おうと努力していたようだったが、やがて諦めたように大きく息を吐いた。

「……わかりました。そうした方が、話が先に進みそうですね」

「では、改めてよろしくお願いします」

 出雲は丁寧に頭を下げた。千佳は不承不承話し始める。

「と言っても、私もそんなに詳しいわけじゃないんです。私がここに入社したのは今年の四月ですから、まだ三ヶ月ほどしか経っていないので。本人と直接話した事も少ないし、ちょっとした噂くらいしか聞いた事はありませんが」

「その噂というのはどのようなものでございましょうか?」

 出雲はそれでも構わないようだった。

「えーっと……女好きで有名なうちの編成局長が佐田さんに手を出そうとしたけど、佐田さんはそれをあっさりはねつけて、うちの女性陣が拍手喝采したって」

 千佳はバツが悪そうに言う。

「それは……随分と勇ましいお方だったようでございますね」

「というより、あの人は仕事一筋で男には興味ないって感じだったみたいです。こういう業界ですからその手の噂ってかなりあるはずなんですが、佐田さんに関しては全くそういう噂がありませんでしたから」

「一緒に仕事をしていた二人は?」

「秋口さんと井ノ坂さんですか? あの二人は論外です。局内でも仕事一筋で有名で、独身の井ノ坂さんはともかく、秋口さんは美人の奥さんがいながら仕事ばかりで家庭をほったらかして、離婚調停になりかけているって噂もあります。最近は他局から移籍してきた若手プロデューサーが台頭してきた事もあってますます仕事にかかりきりで、とても浮気なんかしている暇はなかったはずです。もちろん、それは一緒に仕事をしていた佐田さんにも言える事ですけど」

「なるほど……そう言えば、もう一人ADがいたはずでございますが?」

 出雲の問いに千佳は頷く。

「麦原さんですよね。あの人はずっと佐田さんの付人みたいなことをしていました。地味に見えますけど仕事は確かで、佐田さんも彼女の事は信頼していたみたいです。何でも大学時代のサークルの後輩で、卒業後にブラック企業に就職してしまって悲鳴を上げていた彼女にうちを紹介したって事らしいです」

「大学というと、明正大学でございますね。麦原様は佐田様の一つ年下だったと伺っていますが」

「その通りです」

「ちなみに、麦原様が大学時代何のサークルに入っていたかご存じでございますか?」

 この質問に関しては、千佳もその意図を見抜いたようだった。

「もしかして二件目の被害者の浦井祥子が所属していた山岳部じゃないかと思ったんですか? 生憎ですけど、だったら私たちが放っておくはずありません。麦原さんが所属していたのは山岳部とは縁もゆかりもない映画研究会です。さっきも言ったように佐田先輩も麦原さんと同じサークルでしたから、同じ大学でも浦井祥子さんと佐田先輩は何の関係もありませんよ」

 そもそも、浦井祥子が現在二年生で佐田豊音が就職したのは三年前。という事は、浦井祥子は佐田豊音が卒業した後に入学してきたわけで、これでは関係しようがない。

 だが、出雲はさらにこう突っ込んだ。

「それでは、佐田様が母校である明正大学に取材に出かけた、というような事はございませんか?」

「え?」

 思わぬ問いに、千佳は戸惑う。

「どうでございましょう?」

「さ、さぁ。少なくとも今年になってからはないと思います。それ以前は少しわかりませんね」

「では、都丸達美と高松頼江。この名前に心当たりはございますか?」

 それは問題の山岳部にいた二人の名前だった。出雲としては念のための確認だったのだが、千佳の反応は予想外だった。

「高松という人は本来浦井さんと一緒に富士山に行くはずだった人ですよね。取材の段階で名前が出てきたので覚えています」

「その通りでございます。担当になって日が浅いのに随分よく調べているようでございますね」

「それが仕事ですから。でも……どうして都丸達美さんの名前が?」

 この逆質問に出雲は反応した。都丸達美は被害者の上級生というだけで直接的に事件に関係してはいない。ゆえに取材の段階で名前が出てくるとは思えないのだ。

「知っているのでございますか?」

「知っているも何も……都丸達美さんとは別の取材で会った事がありますから。そう言えば、彼女も明正大学だったっけ」

「別の取材、といいますのは?」

「大した取材じゃないんです。私、この取材に組み込まれるまでは旅番組のリポーターをしていたんですけど、一度だけピンチヒッターで地元の剣道教室を特集した番組のリポーターをしたことがあるんです。その時に取材した剣道場で小学生たちを指導していたのが都丸達美さんだったんです」

 それは今までにない情報だった。

「都丸様は剣道経験者だったのでございますか?」

「というより、お父さんの影響らしいです。お父さんが昔そこの指導者だったとかで」

「都丸様の父親というのは?」

 次の言葉にさすがの出雲も少し真剣な表情を見せた。

「警察官だそうです。確か今は、山梨県警の警備部長か何かをしていたと思いますけど」

 山梨県警は、今まさにこの事件を捜査している県警である。部署が違うので直接的な捜査にはかかわっていないだろうが、警備部という事は『心臓強盗』に対する警戒業務に追われている可能性もある。となれば、達美が事件の事について多少知っている可能性も否定できない。

 また、達美の出雲に対するあの態度も、警察関係者の父親がいるとすれば納得がいく。警察官の娘として、怪しい人間にはそれなりに警戒するよう教育を受けているのだろう。

 だが、出雲が気にしたのはさらに別の事だった。

「……私の調べでは、佐田様は高校時代に剣道をしていて、剣道三段の腕前だったという事でございますが」

「は、はい。そのはずです」

 よく知っているものだと、千佳は思わず出雲を見やった。が、出雲はさらに質問を重ねる。

「では、大学以降は剣道をやっていないという事でございますか?」

「えーっと……すみません、そこまでは……」

「……つかぬ事をお聞きしますが、その都丸様が通っていた剣道教室というのは、中野にある『広木剣道教室』ではございませんか?」

 その言葉に今度は千佳が絶句した。

「どうしてそれを……」

「やはりそうでございますか」

 そう言うと、出雲は頷いて、あっさりと種明かしをした。

「先日お会いした時でございますが、実は蛭田様からも佐田様に関する情報を少しお話し頂いているのでございます。ほとんどはあなた様の話された内容と一致していますが、その中にこんな話があったのでございます。佐田様が大学時代以降、月に数回程度ではありましたが、中野にある自宅アパート近くの剣道教室に通っていた、と」

 そう、それは先日蛭田から話を聞いた際に出てきた話だった。どうやらこの話は彼女自身が秘密にしていたようで、テレビ局の人間も知らなかったらしい。が、さすがは元ストーカーだけあって、そのような情報においては蛭田の方が上だった。

 一方、千佳は動揺していた。

「ま、まさかその剣道場が……」

「『広木剣道場』でございます。となれば、少なくとも佐田様と都丸様の間には面識があった可能性が出てまいりますね」

 そう言われて、しかし、千佳は思わず反論していた。

「ま、待ってください。だとしたら変です。それが本当なら、佐田さんは自分が取材していた森川景子殺人事件に関連するニュースソースを握っていた事になります。これは他局を追い抜く大チャンスですよ。絶対に都丸さんを通じた取材活動をしていないとおかしいはずです。でも、そんな話は私も他のスタッフも聞いていません。なぜ佐田さんは都丸さんへの取材をしなかったんでしょうか?」

「さぁ……なぜでございますかねぇ」

 出雲ははぐらかすように言う。何がどうなっているのかわからず、千佳は混乱気味に出雲を見つめる他ない。重い沈黙がその場を支配する。

 と、唐突に出雲は表情を切り替えると、なぜかいきなり話をまとめるようなそぶりを見せた。

「さて……今までの話を伺っている限り、佐田様は仕事一筋ではあるが面倒見のいいお方だった、という事で落ち着きそうでございますね。それでよろしいでしょうか?」

「え、ええ。その認識で間違いないと思います」

「そうでございますか」

 出雲は意味深に頷いた。その様子に、千佳は不安そうに尋ねる。

「あの、何か?」

「いえ、色々とわかりましたので少し整理しているところでございます。なかなか面白そうな結論になりそうでございますね」

 出雲は謎めいた言葉を口にすると、そのまま立ち上がった。

「貴重なお話、ありがとうございます。これでどうにか決着がつきそうでございます」

「ちょっと待ってください。まだあなたとの話に決着がついていません。結局、あなたは何者なんですか?」

 今にも立ち去りそうな気配の出雲に対し、千佳は椅子から立ち上がると押し殺した声でそう牽制した。これに対し、出雲はしばしその場で千佳を見やった後、唐突にこう告げた。

「……私は大和日名子。それ以上でも以下でもございません」

 ですが、と千佳が何か言う前に出雲は言葉を続ける。

「私は約束を破る趣味はございません。先程、この件は後で話すと申し上げた以上、私にはその言葉を守る義務がございます」

 そう言いながらも、出雲はそのまま部屋の入口のドアノブに手をかける。その瞬間、千佳の背中に何か冷たいものが走り、彼女はその場から動けなくなってしまった。

「ただ、今すぐ説明するというわけにいかないのもまた事実でございます。あなたが望むのであるならば、いずれまたお会いする事もあるでしょう。すべてはその時にでも。もっとも、あなた様にそのお覚悟があればのお話でございますが……」

 その言葉を最後に、出雲は堂々とドアを開けると、そのまま部屋から出て行ってしまった。後にはなぜかその場から動く事ができず、出雲の静かな剣幕に頬に冷や汗を流した千佳だけが残されていた。

「今の感じ……間違いない……あれは……あの時の……」

 千佳の脳裏に、二年前に自分を殺そうとした男の顔がありありと思い出される。あの時、恐怖と共に刻み込まれたあの何とも言えない嫌な気配。今、千佳の背中に走った寒気は、まさにそれだった。

 自分は何かとんでもないものに足を踏み入れているのかもしれない。千佳は椅子にへたり込みながら、しばらくの間その場でどうする事もできないでいたのだった。


 その日の夜、東京・新宿のオペラシティビル。その五十四階にある展望レストランの窓際の席に、漆黒のセーラー服を着た少女が堂々と一人で座り、眼下に広がる新宿の夜景を見下ろしながらオードブルを食べていた。言うまでもなく、黒井出雲その人である。明らかにこの場所には場違いな服装をしているが、すでにカードで支払いを済ませてあるためか店の人間は特に詮索しようともしない。この手のレストランは、そういうところが気が楽だった。

 その出雲はと言えば、オードブルをゆっくり口にしながら誰かを待っている様子である。現に、前の席にはもう一人分のディナーの用意がなされていた。

 と、しばらくして店の入口に一人の男が姿を見せた。茶髪にビジネススーツという何ともいびつな格好は、先日富士樹海で出雲と会っていた情報屋・東その人である。東はボーイに何事か話していたが、やがて出雲を見つけるとすぐに複雑そうな表情で席に近づいてきた。

「お疲れさまでございます」

「まったく、何でまたこんな場所に呼び出しやがった。ここは俺らにはあまりにも似合わない場所だぞ」

 不満そうな東に対し、出雲はにっこり笑ってこう告げた。

「ここからなら、夜空に飛ぶUFOを見つけ出せるかと思いまして」

「……笑えねぇ冗談だな」

「本気でございますよ。実際、何年か前の某怪獣映画でUFOがこのビルの屋上に着陸していたはずでございますから」

「そのUFOは某怪獣王が完膚なきまで吹っ飛ばしていたはずだが……まぁ、表向きはそういう事にしておこうか」

 そう言うと、東は出雲の向かいに座って慣れた手つきでナプキンを用意する。

「手慣れておいでですね」

「情報収集の状況次第じゃこんなレストランにも入る必要があるからな。最低限のマナーはわきまえている」

 で、と東は声を潜めながら尋ねる。

「建前はあんたが言うUFO云々で別に構わねぇが……実際の所、どうしてこんな場所に?」

「すぐにわかります。それよりも、先に仕事の話をしてしまいましょう」

 出雲がそう言った瞬間、コース料理のスープが運ばれてきた。何かの冷スープらしいが、二人は食事をしつつも、すでに頭の中は仕事の事でいっぱいになっている。

「この間富士山で頼まれた、三人の被害者の近くにいる人間に関する調査資料だ。確認してくれ」

「……確かに受け取りました」

 テーブルの下で密かに封筒のやり取りが行われる。

「調べている最中に随分あんたの話を聞いた。相当あちこちで調べまわっていたようだな」「それが仕事でございますから」

「だったら、俺は別にいらなかったんじゃないか?」

「そんな事はございません。さすがに私一人でやれる事には限界がございますので」

 そう言いながら出雲は微笑みを浮かべる。

「で、用件はこれだけじゃないんだろう。それだけのために俺にディナーをおごってくれるわけでもあるまい」

「いつの間にか私がおごる事になっているのが少々気になりますが……まぁ、受けて頂けるのであればそれでも構わないでしょう」

「受けなかったら?」

「逆におごっていただきましょうか」

「脅しじゃねぇか。まぁ、いいけどよ。内容を言え」

「……矢頼千佳というアナウンサーをご存じでございましょうか?」

 その言葉に、東のスプーンの手が止まる。

「確か佐田豊音を調べているときにちらっと名前だけ出てきたな。佐田豊音が殺された後に現地入りしたアナウンサーだったか? もっとも、事件当時に被害者の周りにいた関係者じゃないから、今回の調査では調べていないが」

「彼女は二年前に当時の元恋人に殺害されかけた経験があるという事でございます。その話が本当かどうか調べて頂けませんか?」

「なぜだ? そいつは事件に関係ないんじゃないのか?」

「私も関係ないとは思います。ただ、彼女は私の殺気を感じ取っていました。その要因がその事件にあると本人は言っています」

 東が眉をひそめる。

「あんたの殺気を感じ取ったか……なるほど、それは気になるだろうな」

「状況によっては今後の仕事に差し支えが出るかもしれません。頼めますか?」

「わかった。一日あればなんとかなるだろう。明日にでも知らせる。大した仕事じゃないから、料金も十万程度で充分だ」

 東はそう言って出雲の頼みを了承した。それとほぼ同時にメインディッシュとなるステーキが運ばれてきて、話は一時中断する。

「……なかなかの味だな。さすがに値が張るところはいい肉を使っている」

「あなたに肉の良し悪しがわかるのでございますか?」

「人は見かけによらないっていうぜ。まぁ、それより、話の続きをしようか。まさか、話があれだけというわけじゃないんだろう」

 出雲は頷く。

「現時点における警察の動きはどうなっていますか?」

「あまり大した動きはないな。正直、手詰まりになりつつある。これといった新しい情報もないし、情報面ではこちらの方が警察よりも先行しているとみて間違いないだろう」

「ならば結構でございます」

 そう言うと、出雲は不意にどこからか一枚のメモ用紙を取り出し、それをさりげない動作で東に手渡した。東は黙ってそれを受け取る。

「これは?」

「その方に関して集中的に調べて頂きたいのでございます。お願いできますか?」

「……って事は、こいつが今回の本命か?」

 出雲は答えなかった。東は黙ったまま、タバコを吸うふりをしてそのメモをライターで燃やす。

「いいだろう。任せてもらおうか」

「頼りにしています」

「あんたはこれからどうするんだ?」

「もう一人だけ、お話を伺う必要がある方がおられます。その話とあなたの調査結果があれば、とりあえずの結論を出す事は出来ます」

「なるほど、ね。じゃ、今日はその前祝いという事で、御馳走になろうか」

 東は外見に似合わぬ丁寧さでステーキを頬張る。と、そこへ若いボーイがテーブルに近づいてきた。

「ワインのお代りはいかがでしょうか?」

「おいおい、見りゃわかるだろう」

 東はそう言ってテーブルに置かれた満杯のワイングラスを指さす。が、ボーイは気にする様子もなく一礼すると、

「あら、情報はもう満杯、という事かしら?」

 と、突然女声になってそんな事を話し始めた。さすがに呆気にとられている東の前で、出雲はすました様子で言う。

「お見事でございますね、輪廻さん」

「輪廻……お前、輪廻か!」

 どこからどう見ても若いボーイにしか見えない姿のまま、ボーイ……否、輪廻はワインをつぐふりをしながら用件を伝える。

「潜入中で時間がないから手短に言うわ。朝平とかいう秘書に化けて『大畑コンツェルン』へ潜入しているけど、結論から言えばあなたの依頼はどうにかなりそうよ」

「証拠が見つかったのでございますか?」

「えぇ。手筈が整えばいつでも証拠を持ち出せる。後は依頼主であるあなた次第よ」

「わかりました。ただ、こちらはもう少しかかりそうでございます。そうでございますね……十六日の土曜日、新宿の一件はそこですべての蹴りをつけると致しましょう。それまでにこちらの一件もひとまず決着をつけようと思います」

 出雲はそう言って眼下のビル群を見つめる。その一角に問題の大畑コンツェルンのビルがある事を、東は今になって思い出していた。

「三日後ね。じゃあ、それまで潜入していればいいの?」

「申し訳ございませんが、よろしくお願いします」

「わかった。じゃあ、私はこれで」

 輪廻は再びボーイの表情に戻ると、そのまま踵を返す。潜入中の輪廻はそう時間を空ける事ができない。ゆえにこうして潜入先に近い新宿を密会場所に指定し、出雲もこうしてここにやって来たのだった。

「そういうわけかよ……あんたがこんな場違いな店で食事をしていたのは」

「彼女は思った以上に有能でございます。必要があれば、こちらの一件でも協力して頂きましょう」

「『復讐代行人』に指名されるっていうのは裏社会じゃこれ以上ない名誉だが……あいつがそれを喜ぶとは思えねぇな」

 輪廻の過去を知る東が複雑そうに言う。

「さて、輪廻さんに怒られないように、こちらも手早く済ませてしまいましょう。宣言してしまった以上、こちらは十五日までにひとまず片づける必要がございます」

「要するに、俺にも十五日までに情報をそろえて来い、と」

「よくおわかりの御様子で」

「長い付き合いだからな。もっとも、こんな事はわかりたくもねぇが。約束だ、今日はおごれよ」

 東はそう言うと、うっぷんを晴らすようにステーキを噛みちぎる。出雲はそれを微笑みながら見つめると、それとは対照的にステーキを上品に口へと運んだのだった。

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