第四章 六月十二日 輪廻

 翌日、六月十二日火曜日。東京、明正大学。広大な面積を誇るそのキャンパスの一角に、多くのサークルの拠点となっている部室棟がある。その一角に、二番目の被害者・浦井祥子が所属していた山岳部の部室があった。

 もっとも、今その部室の中は普段に比べてひっそりしている。部員の浦井祥子が殺害された事で、一時的な活動休止状態になっているのだ。もちろん、七月に行われるはずだった富士山登頂計画も白紙になっていた。一部では、このままサークルそのものがなくなるのではないかとまで言われている。

 そんな部室の中で、ただ一人書類整理をしている人物がいた。山岳部部長で文学部三年の都丸達美。いくら部活が休止状態になっているとはいえ書類仕事はいくつか残っており、部長である彼女はその処理に忙殺されていた。ゆえに部員のいない部室にここ数日は毎日通っている状態である。

 と、そんな部室のドアがノックされた。

「どうぞ」

「失礼しまーす」

 顔を出したのは、本来であれば浦井祥子と一緒に下見に行くはずだった高松頼江という経済学部の二年生だった。彼女もこのサークルの所属である。

「頼江ちゃんか。どうした? わざわざ誰もいないこんなところに」

 どこか男勝りの口調で話す達美は女子からの人気も高く、女性ながら山岳部の部長をしている事もあって未だにファンレターをもらっている事が多いという。この山岳部に女性の部員が多いのも、彼女が部長になったが故だともっぱらの評判だった。

「講義が早く終わって暇なんで来てみたんです。にしても、本当に誰もいませんね」

「祥子ちゃんがあんな死に方をして、来づらくなっている部員も多いみたいだ。退部届を出した人も何人かいる」

「世知辛いですね」

「言うな。私だって、立場が逆なら、そうするかもしれない」

 そう言いながらも、達美はてきぱきと事務処理を進めていく。頼江は手近な椅子に座ってぼんやりとその様子を見つめていた。

「……よし、と。大体こんな所かな。ちょうど区切りもついたし、お茶でも入れようか?」

「あ、すみません。先輩にそんな事をさせちゃって……」

「いいよ。このくらいの事はさせてほしい」

 そう言いながら、達美は手際よくお茶を入れる。すっかり静まり返った部室で、二人は向かい合うように座ってお茶を飲んだ。

「……あの日、私が風邪をひいていなければ、こんな事にはならなかったんでしょうか?」

 唐突に、頼江がそんな言葉をポツリと呟いた。

「それは、もう言わないと約束したはずだ」

「でも……」

「過ぎた事を言っても仕方がない。それに、頼江ちゃんが巻き込まれなかったとも限らないだろう」

「わかっています。だけど、そう思えて仕方がなくて……」

 重い沈黙がその場を支配する。表向き明るく振舞ってはいたが、やはりこのサークルにも、猟奇殺人事件の暗い影は確実に浸食していた。

「頼江ちゃんは祥子ちゃんと随分仲が良かったね」

「はい。入学直後のレクリエーション大会で一緒の班になって、そこから仲良くなったんです。趣味も一緒で……」

「バードウォッチング、だよね」

「はい。でも……まさか、こんな事になるなんて……私が、予定通り一緒に下見に行っていれば……」

 そう言って頼江が顔を歪め、達美が思わず顔をうつむかせた時だった。

 何の前触れもなく、部室のドアがノックされた。思わず、二人は顔を見合わせる。

「今日、他に誰か来る予定があるのか?」

「い、いえ。私一人だけだったはずです。他のみんなは、もうあまりこのサークルにかかわりたくないって言っていて……」

 とはいえ、追い返すわけにもいかない。達美が代表して声をかけた。

「どうぞ。開いています」

「……失礼いたします」

 どこか可憐さを残すような声がしたかと思うとドアが開く。その向こうに立っていたのは、二人の想像外の人物だった。

 漆黒のセーラー服に黒のキャリーバッグ。大学のキャンパスにはあまり見かけない、どう見ても高校生としか思えない少女だったのである。

「あなたは?」

「初めまして。京都にある西城高校に通っています大和日名子と申します。ここは、山岳部の部室でよろしかったですね?」

 この問いに対して、達美は慎重に答えた。

「そうだけど、どうしてここに?」

「実は、先日お亡くなりになられた浦井祥子様の事についてお話を伺いたいのでございます」

 その言葉に、達美の表情が険しくなった。

「どうしてだい? いきなりやってきて、君は一体何者なんだ?」

「私はあの殺人事件の最初の被害者である森川景子の婚約者の姪でございます」

 日名子の言葉に、しかし達美はどこか警戒心を崩さない表情のままだった。だが、日名子はそのまま言葉を続ける。

「今回の事件で叔父様はすっかりふさぎ込んでしまっていて、一刻も早く事件の真相を知りたいと思っておられるのです。そこで、少しでも事件の真相に近づきたいと、私がこうして叔父様の代わりにこうして事件についての情報を集めているのでございます。失礼でございますが、あなた様方のお名前は?」

「あ、あぁ。都丸達美。ここの部長だ」

「高松頼江、です」

 二人はすっかり日名子のペースに乗せられて、自分の名前を名乗っていた。

「そんなわけでございますので、どんな情報でも構わないのです。少しだけでも、話してもらえないでしょうか?」

「……頼江ちゃん、どうする? 私は今回の件にあまり関係していないから、判断できないが」

 頼江は少し迷ったようだったが、やがて小さくため息をついた。

「とにかく入ってもらいましょう。出入口に立ってもらったままだと変な目で見られると思いますし」

「……それも、そうだな」

 かくして、日名子は部室に入る事ができた。お茶がもう一杯入れられ、日名子の前に出される。

「さて、正直どうしたものかな。実のところ、さっきの説明では、私には君が本当の事を言っているようには思えないんだ。さっきの言い分をそのまま信じられるほど、私は君の事を知っているわけでもない。そもそも、いくらなんでも被害者の婚約者の親族が事件を調べるというのは無理があると思うが、その辺り、どうなんだろう」

「……何と言われようが、先程の話が真実でございます。あなた様の考えは充分に理解できますが、できれば納得して頂きたいのでございますが」

 達美と日名子、二人の視線が一瞬交錯する。張り詰めた空気が二人の間に漂い、隣に座っていた頼江が息を飲む。その空気に耐えられなくなったのか、頼江がおずおずと言葉を挟んだ。

「あの、部長、私は別にいいです。正直、一度誰かに話を聞いてもらいたい気持ちでいっぱいでしたから」

 そう言われては、達美としても何か言える立場ではない。

「……頼江ちゃんがそう言うなら、私は何も言えない。ただ、私たちの知っている事なんて、大したものじゃない。それだけは断っておく」

「それで結構でございます。では、早速でございますがいくつか質問をさせて頂きます」

 それを合図に、日名子は頼江に対して質問を始めた。

「まずは、浦井祥子様が下見に出発する前日、つまり生きている姿を最後に目撃された五月二十九日の様子についてお聞かせ願いたいと思います。浦井様はこの部室に顔を出されていたと聞いていますが、その点はいかがでございましょうか?」

「その通りだと思う。午後四時半くらいに最後の講義が終わった後、私と二人でこの部室にやって来たから。それで、しばらくはここで下見の打ち合わせをしていたの。私は三十分くらいして帰っちゃったけど……」

「どういう事でしょうか?」

「実はこの時から少し体調が悪くて、一足先に帰らせてもらったの。結局風邪だったわけだけど」

 そして、それが翌日の下見欠席につながっていくという事になるのだろう。

「その時部室にいたのは誰でございましょう?」

「私たちの他に、都丸先輩やあと何人かいたと思う。聞いてもらえればわかるわ」

 その言葉に、達美も頷く。

「あぁ。それは間違いない」

「では、浦井様がこの部屋を出たのはいつでございましょうか?」

 この問いには達美が答えた。

「午後六時ぐらいだったと思う。頼江ちゃんはすでに一足先に帰っていたが、明日の下見の準備があるからと祥子ちゃんも私たちよりも先に帰った。要するにそれが、私たちが祥子ちゃんを最後に見た瞬間という事になる。ちなみに、私が最後にこの部屋の鍵を閉めたのは午後七時頃だった」

「なるほど。では、次の日、すなわち下見出発の日に関してはいかがでございましょうか?」

 再び頼江が質問に答える。

「言ったように、その日私は風邪をこじらせて寝込んでしまって、朝の集合時間前に携帯で祥子ちゃんに下見に行けない旨を伝えたの。延期してはどうかとも言ったんだけど、祥子ちゃんはこの際一人でも行くって言って。結局、一人でそのまま行ったみたい」

「その下見でございますが、浦井様の自家用車で行くはずだったのでございますか?」

 頼江は頷いた。

「こういう時よく利用していたの。本来の集合場所も祥子ちゃんのアパートだったし」

「それで、高松様はその日一日、家で寝ていたという事でよろしいでしょうか?」

「うん。達美先輩にも連絡を入れて、病院に行った以外はずっと家で寝ていた。昼過ぎに達美先輩がお見舞いに来てくれた以外は一人だったはず」

「そうなのですか?」

 その問いに達美は頷いた。

「その日は講義が昼で終わったから、一時過ぎに頼江ちゃんのお見舞いに行ったんだ。一時間ほどでお邪魔したけどね。その後は大学の部室に戻って午後七時頃まで書類整理をしていたよ。夏の合宿絡みの書類がたまっていたからな」

「そして翌日の六月一日、浦井様の遺体が発見された」

 二人は重苦しい表情で頷いた。

「私たちはニュースでそれを知った。警察が部室にやって来たのはさらにその翌日の事だった。私たちに話せるのは、この程度だ」

「……なるほど。理解しました」

 日名子は小さく頷いた。

「では、もう一つ。亡くなった浦井様に関してでございますが、彼女の人間関係に関してお教えいただけませんか? 具体的には、誰かに恨まれるような事がなかったとか」

 その言葉に、二人の顔に再度警戒心が宿った。

「どうしてそんな事を? あれは無差別殺人じゃないのか?」

「念のためでございます。どうでございましょうか?」

「……私はわからない。頼江ちゃん、どうだろう?」

 頼江は少し考え込んでいたが、やがてためらいがちにこう告げた。

「山岳部や経済学部の人間関係では特に何もなかったと思う。ただ、最近になって誰かと付き合っているみたいで、そっちの方がどうなっているのかは私にもわからない」

「恋人がいた、という事でございますか?」

「多分、だけど。普段の会話からそんな気がしたの。どこの誰なのかはわからないけど……」

「学内の人間でございましょうか?」

「それだったら私にも予想がつくと思う。だから多分外部の人。話を聞いていた限り、バイト先で出会ったみたい」

「浦井様のアルバイトというのは?」

「渋谷駅の近くにある居酒屋。もっともやっていたのは去年の二ヶ月間くらいだけで、最近は大学近くの古書店で働いていたみたいだけど」

「……そうでございますか」

 そう言って頷くと、日名子は来た時と同じく唐突に立ち上がった。

「突然の訪問に貴重なお時間を頂きありがとうございました。私から聞きたい事は以上でございます」

「もういいのか?」

「充分でございます。それでは、失礼させて頂きます」

 そう言うと、日名子は傍らのキャリーバッグを手に取り、それを引いて入口のドアに手をかけた。

「ちょっと待て」

 と、そこに達美が声をかけた。日名子は背中を向けたまま動きを止める。

「私からも最後にもう一度だけ同じ質問をする。君は一体何者だ?」

「……何度でも同じように答えます。私は、森川景子の婚約者の姪でございます」

 ただし、と日名子は最後にこう言い添えた。

「私の事に関して、これ以上深入りしない事をお勧めいたします。長生きしたければ、でございますが」

「それは脅迫か?」

「いいえ。むしろ、質問に答えていただいたお礼でございます」

「……そうだな。そうするよ。私は今日、誰にも会わなかったし何も聞かなかった。そういう事にしておこうか」

 達美の言葉に、日名子は無言で頭を下げると、そのまま部屋を出て行った。カラカラとキャリーバッグのキャスター音が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、達美は冷や汗が自分の頬を伝っている事に初めて気が付いたのだった。

「先輩……」

「聞いた通りだ。あの日名子とかいう子の事にはこれ以上かかわらない方がいいみたいだ」

 達美は椅子の背もたれに体を預けながら言った。

「どうやら、祥子ちゃんはとんでもない事に巻き込まれたらしい。多分、これは私たちがかかわっていい世界じゃない。世の中には、知らない方が幸せな事があるのかもしれないな」

 そう言う達美に対し、頼江はどこか不安そうな表情を浮かべていたのだった。


 どんよりとした曇り空の下、明正大学のキャンパス内を、キャリーバッグを引いたセーラー服の少女が歩いている。日名子……否、黒井出雲は、キャンパス中央にある広場に足を踏み入れていた。ちょうど講義の時間帯であるためか元々人通りが少なく、なおかつ何人かいる学生たちも、このあまりに場違いなセーラー服の少女の姿になぜか気が付いていない様子である。

 そんな中、出雲はそのまま堂々と広場を横切ると、平場の隅にあるベンチの方角へ向かった。そこには眼鏡をかけた文学少女といった風の学生らしき女性が座っていて、何やら難しい法律系統の専門書を読んでいた。出雲は黙ってベンチに近づくと、その横に腰かける。そのまましばらく時が過ぎる。

「……そろそろよろしいでしょうか?」

 と、唐突に出雲は隣の文学少女に声をかけた。その女性はピクリと肩を震わせ、目を白黒させながら出雲の方を見やる。

「な、何なんですか、あなたは。いつからそこに……。というか、人違いじゃないんですか?」

「いいえ、間違いなくあなたでございます」

「そんな事を言われても……私にはあなたが誰だか……」

「……猿芝居はそこまでに致しましょう。私も時間がございませんので」

 その言葉に、突然文学少女の雰囲気が変わった。今までのオドオドした様子から、急にきりっとした真剣な表情になる。

「よくわかりましたね」

「裏には裏の臭いというものがございます。いずれにせよ、私は偽りの姿で取引をしたくはございません。その『変装』、解いて頂けませんか?」

 その言葉に、女性はその姿に似つかわしくない肩をすくめる仕草をした。と、その瞬間、突然軽い風が吹いた。次の瞬間、今までその文学少女風の女性が立っていた場所には、全く別の女性が立っていた。

 年齢は二十歳前後だろうか。スカートタイプのリクルートスーツに細いフレームの眼鏡。どこかインテリめいた雰囲気を漂わせているが、その身のこなしにはどこか裏の社会特有のものがあるのを出雲は感じ取っていた。

「お久しぶりでございますね。『輪廻』さん」

「二年ぶりね。正直、こんな形でまた会うとは思っていなかった。これが仕事でなかったら、あなたに拳銃を突きつけるくらいの事はしたかもしれない」

 女性……潜入屋『輪廻』は、そう言って出雲を睨みつけた。優れた変装術で標的の周辺の人物になり替わり、標的の情報を収集するという新手の情報屋。それがこの輪廻という女性であった。

 実は二年前、彼女を裏社会に引き入れたのが出雲であるのだが、その際に深い因縁が二人の間にできていたため本質的にはこの二人はあまり仲が良くない。むしろ輪廻は出雲の事を殺したいと思っていても不思議ではないくらいである。

 だが、そこはさすがに若いとはいえ裏社会のプロであって、個人的感情と仕事はきっちり区別している。今も輪廻は心のうちを押し殺し、プロとして出雲に相対していた。

「まぁいいわ。今日は仕事としてここに呼ばれた以上、誰であろうと話は聞くし依頼も受ける。それに、この仕事を紹介してくれた檸檬さんの顔に泥も塗りたくないしね」

 『檸檬』と言うのは新宿でバーを開いている『梶井檸檬』という女性であるが、彼女には裏社会の仲介屋としての側面もあり、出雲もよく利用していた。二年前、出雲は輪廻をこの檸檬に預けており、それゆえに輪廻と檸檬には師弟関係のようなものが成立している。輪廻が言っているのはその事だった。

「檸檬さんに仲介してもらってよかったと考えるべきでございましょうか」

「余計な事は結構。時間がないと言ったのはあなたなんだから、仕事の話をしてほしいわね」

「そうでございますね。本題に入りましょうか」

 出雲はそう言うと、輪廻に目をやった。

「実は現在、私は二つの依頼を同時並行に進めている状態でございます。一つは東京、一つは山梨で、現時点では山梨の案件に力を入れているのでございますが、そのため東京の案件の調査に多少なりとも支障が出ているのでございます。そこで東京の案件に関して情報収集を輪廻さんにお願いしたいのでございます」

「つまり、尻拭いをやれと?」

「いえ、実は東京の案件はある程度真相ははっきりしているのでございます。ですが、最後に犯人にとどめを刺す証拠が足りない。それを探していただきたいのでございます」

「……具体的にその案件について話して。でないと話が進まないわ」

 輪廻の言葉に、出雲は小さく頷くと現在受けている「もう一つの案件」について話し始めた。

「輪廻さんは、先月新宿の『大畑コンツェルン』という会社で起こった殺人事件についてご存じでございましょうか?」

「もちろん。これでも情報屋の端くれだしね。確か経理部の社員が殺されて、犯人とされた監査役の男が自殺したという事件だったかしら」

「殺された経理部の社員の名前は本岡信弘。犯人とされ自殺した監査役の名前は有馬尊氏。しかし、有馬尊氏の妻・有馬響子様はこの結末に納得しておらず、夫は犯人の汚名を着せられて自殺に見せかけて殺されたと考えていました。そして、その真犯人への復讐を私に依頼したのでございます。これが先週、六月六日の事でございます」

 出雲は口調を変える事なく淡々と話を続けた。

「結論から言えば、私の調査の結果、この響子様の推測は正しいと判断しました。犯人もすでに私の中では推察できています」

「誰なの?」

「大畑勝郎。名前からわかるように、大畑コンツェルンの社長でございます。私の調べでは大畑は粉飾決算を行っており、本岡はその協力者でございました。しかし監査役の有馬が粉飾決算を疑い始め、本岡が怖気づいて真相をばらしそうになったことから大畑は本岡を殺害。さらにその罪を有馬に着せて自殺に見せかけて殺害したとみられます」

「最低の男だけど……何が足りないの?」

「大畑を追い詰めるには、彼が粉飾決算をしていたという証拠が必要でございます。しかし、現状ではそこまで手が付けられておりません」

「つまり、今回の依頼は大畑コンツェルンに潜入して、その粉飾決算とやらの証拠を見つけて来い、という事?」

「その通りでございます。もちろん、報酬はお支払いいたします」

 輪廻は少し黙って何事か考えている様子だった。

「……あなたは自分の仕事に規則を定めているんだったわよね」

「その通りでございますが」

「私もよ。ただし、私のルールは至極シンプル。依頼するにあたってそれを聞いてもらう。その上でなお依頼をするかどうか決めてほしいわ」

「そのルールというのは?」

「私、輪廻が行うのは『潜入』『情報収集』『工作』のみ。標的そのものに対する『殺害』や『傷害』といった行為は依頼の対象外。自分の身に危機が訪れない限りはこちらから何か仕掛ける事はない」

「あくまで『潜入』を重視する、という事でございますか?」

「それと正体がばれた時点で依頼は終了。もっとも、そんな事は絶対にあり得ないけど。この条件で構わないかしら」

「……結構でございます。私も情報収集以上の何かを求めるつもりはございません」

「交渉成立ね。いいわ、その依頼、受けましょう」

 輪廻は出雲を睨みながらはっきりそう宣告した。

「ありがとうございます。ところで、これは独り言でございますが、大畑には個人秘書がいるそうでございます。名前は朝平伊佐美。秘書としても有能ではありますが事実上大畑の愛人で、粉飾決算の事も知っている可能性が高いかと。ぜひとも参考にしてください」

「……いけ好かないわね。でもまぁ、この際無駄な仕事が省けたと思うべきなのかしらね」

 輪廻はそのままベンチを立ち上がった。

「明日からでも依頼を開始するわ。その朝平とかいう秘書は、明日から会社の機密に興味を持つようになるでしょうね。調査期間の希望は?」

「できるだけ早いうちに。最長でも一週間以内には」

「了解したわ。それじゃあ、何かわかったらそっちに連絡すればいいのね」

「番号を後でお教えします」

「わかったわ。じゃあ、これで」

 そのまま輪廻は去っていった。それを見ながら、出雲は薄く微笑んでいた。

「さて、お手並み拝見でございますね。その間に、私もこちらの一件を片付けてしまいましょうか」

 そう言うと、出雲も立ち上がり、そのままどこかへと歩き去っていったのだった。

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