第三章 六月十一日 邂逅

 同日夕刻、秋口勝則プロデューサー率いる日本中央テレビの報道クルーは河口湖畔をバンで移動していた。アナウンサーの佐田豊音を殺害された日本中央テレビは彼女の敵を討たんばかりにこの事件の報道に力を入れており、警察の取材と並行して独自に犯人像を追いかけていた。殺害された佐田の代わりに新しいアナウンサーを現地入りさせ、こうして連日連夜事件現場周辺を取材し続けているのである。

「どうよ、千佳ちゃん。そろそろ現場には慣れたか?」

「は、はい! 大丈夫です!」

 助手席に座る秋口から声をかけられたのは、佐田豊音に代わって現地入りしていた日本中央テレビの矢頼千佳アナウンサーである。佐田豊音の後輩で今年度入社したばかりの新人であり、その初々しさからすでに一部の間で人気が出ている人材である。今回、今まで旅番組のリポーターにいた彼女を、上層部の判断で急遽こちらへ引っ張ってきた形だ。もちろん殺人事件の取材など初めてなので本人も緊張しているが、そこは新人とはいえプロ根性があるのか現地入りしてすぐに自分のペースをつかみつつある。

「頼むぞ。うちの人気アナを殺した殺人鬼野郎をこの手で暴く事ができりゃ、豊音ちゃんにとってもこれ以上の供養はない。それに今回の取材如何では、千佳ちゃんの今後にもかかわって来る。気合入れていくぞ」

「もちろんです」

 そんな千佳の隣で色々と準備をしているのが、ADの麦原律だった。元々は豊音のアシスタントもしていたのだが、今回はそのまま千佳のアシスタントも引き継いでいる。必要最低限の事しか喋らないおとなしい人物ではあったが、仕事はしっかりやるタイプである。

 一方、バンを運転しているのはカメラマンの井ノ坂竜三だった。本来こういう運転はAD辺りがやるものなのだが、このバンに関しては井ノ坂が長年運転してきた事もあるのか毎回彼が運転している。佐田豊音とはよくコンビを組んでいたらしく、今回の取材で一番張り切っているのはこの男だったりした。

 一応他にも取材陣はいるが、今回の取材で中核を担っているのはこの四人だった。目標は佐田豊音を殺害した人物を警察よりも早く特定する事。彼らからしてみれば三件もの犯行を許した警察はもはや当てにできない存在であり、自分たちで犯人を見つけるという気持ちが先走っている部分もあった。

「ったくよう! 事件の取材は二ヶ月ぶりで、豊音ちゃんも張り切っていた矢先にこんな事になるなんて……許さねぇ!」

 カメラマンの井ノ坂が運転しながら怒り心頭と言わんばかりの声で言う。今回このチームに初めて参入した千佳が恐る恐る聞く。

「あの、二ヶ月前の取材ってどんな事件だったんですか?」

「どんなって、ほら四月に豊島区の保険会社で強盗殺人事件があったろう。あれの取材だよ。警察署から連行される犯人の素顔を激写したの、うちだけだったんだぜ。覚えてないか?」

「すみません、私、その頃まだ入社したばかりで研修中でしたから」

 千佳が恐縮気味に言う。

「あぁ、そっか。いや、謝る必要はないよ。とにかく、豊音ちゃんはこういう事件報道の取材じゃ必ず呼ばれる口だったんだ。それがここ二ヶ月は他の取材ばかりに飛ばされててな。知ってるか、この事件が起こるまで、豊音ちゃんを含めた俺たち四人は大阪の方で連続振込み詐欺の取材をしていたんだぜ。それが最初の事件が起きて、急にこっちの取材をするように言われてさ。それがまさか、彼女の最後の取材になるなんてよぉ」

「そうだったんですか……」

 千佳としてはそうコメントするしかなかった。

「あの、今日はどこへ行くんですか?」

 と、今まで黙っていた律がそんな問いを発した。スケジュールの管理も彼女の仕事である。これには秋口が答える。

「これは本社の取材チームがつかんだ独自の情報源なんだがな。一年位前に豊音ちゃんをストーカーしていたやつがこの河口湖の辺りに住んでいるらしい。怪しさ満点だろう。警察もこの話は掴んでいるらしいが、俺らが先にこいつから話を聞いてやろうと思ってな」

「そんな事があったんですか」

 千佳が目を丸くして聞く。

「当時入社していなかった千佳ちゃんは当然初耳だな。蛭田って野郎でな、当時は局でもちょっとした騒ぎになったんだが、結局警察に忠告されてそのまま実家に引っ込みやがった。けど、まさかこんなところにいるとはなぁ」

「秋口さんは、その蛭田って人が怪しいと思っているんですか?」

 千佳が聞くと、秋口はせせら笑った。

「そりゃ話を聞いてみないとわからないだろうが、俺は怪しいと思ってるね。ストーカーをやるようなやつは、いずれこういう犯罪を起こすような人間ばかりなんだよ。そういうやつらがいるって事を世間に知らせるのも、報道の役目だと思うがね」

 それは偏見じゃないのか、と千佳は少し思ったりしたが、だからと言ってストーカーを擁護する気にもなれず、その場は曖昧に笑っただけだった。

「じゃあ、今はその蛭田という人の家に?」

「あぁ。やっこさん、自動車修理工場で働いているらしいからな。他社にすっぱ抜かれる前に突撃だ」

「アポイントは?」

「そんな事をしたら逃げられるかもしれないだろ」

 秋口は気楽そうに言う。

 そんな事を話しているうちに、バンは湖の近くにある古びた自動車修理工場に到着した。見た感じ個人経営の小さな工場で、車庫の中で何人かが作業しているのが見える。

「蛭田はいるか?」

「ええっと……あぁ、あそこにいますね」

 井ノ坂が工場の隅の方を指さす。が、そこで井ノ坂は首を傾げた。

「どうした?」

「あいつ、誰かと話していますよ」

 見てみると、確かに工場の隅の方に、作業着を着た若い男……蛭田磯夫がいるのだが、その前で誰かが話をしているのだ。それだけなら客かとも思えるのだが、その格好があまりにも工場に不釣合いだった。

 それはセーラー服を着た少女だった。平日にそんな人間が自動車修理工場に来ている事自体不自然だが、何よりもほとんど真っ黒に近いセーラー服に腰下まで届こうかという長髪、それに手に引かれている黒のキャリーバッグがあまりにインパクトがあった。そんな少女が、何の目的で蛭田に接触しているのか、テレビクルーたちはわけがわからず一瞬呆然とするしかなかった。

 と、その時、不意に少女がこちらを振り返った。それを見た瞬間、少なくとも千佳は何か背筋が寒くなるものをその少女に感じ取っていた。なぜかはわからない。ただ、この少女にはかかわらない方がいい。無意識のうちにそう感じていたのである。だが、幸か不幸か他の三人はそこまで感じていないようだった。

「何だ、あの子は?」

「蛭田の親戚か何かですかね?」

 秋口と井ノ坂は首を捻る。律は自分の意見を言う必要はないと考えているのか、黙ったままだ。いずれにせよ、このまま少女が蛭田の元を去るのを待つつもりらしく、井ノ坂はバンを工場の近くの路上に一時停車させた。

 だが、少女は何を思ったのかにっこり微笑むと、そのままバンの方へ近づいていく。そして、あろう事かその後ろから当の蛭田までついてくるではないか。これには全員が呆気にとられた。そうこうしているうちに、少女はバンの横に近づき、運転席の窓をノックした。やむなく井ノ坂が窓を開ける。

「こんにちは。日本中央テレビの方々でございますか?」

 可憐な声で年に似合わぬ馬鹿丁寧な敬語で話され、クルーたちは気後れしてしまう。かろうじて秋口が代表してその挨拶に答えた。

「あ、あぁ。そうだが、君は?」

「これは失礼いたしました。私、最初の被害者・森川景子の婚約者である斧木陽太の姪で、京都の西城高校に通っています大和日名子と申します。以後、お見知りおきを」

「親戚?」

 秋口と井ノ坂は思わず顔を見合わせた。そんな話、今まで取材してきて一度も出てきた事はなかった。

「いや、俺たちこの事件を最初から調べているけど、斧木さんにそんな親戚がいたなんて話は初耳だぞ」

「遠い親戚でございますのでそれも仕方がないでしょう。それに、いくらテレビ局でも容疑の低い婚約者の親戚の名前まで把握されているとは思えないのですが」

「それは、まぁ、そうだが……」

「お疑いなら斧木叔父様に聞いて頂いても結構でございます。電話をおかけしましょうか?」

「い、いや、結構だ」

 実際に携帯電話を出されて、井ノ坂は慌てて首を振る。ちなみに、その携帯電話もなぜか真っ黒だった。

「それで、そのえーっと……」

「大和日名子でございます」

「そう、その大和さんがどうしてここに? しかも蛭田……さんと話をしているなんて」

 思わず呼び捨てにしそうになるのを我慢しながら秋口が聞く。

「実は、今回の事件で斧木叔父様がすっかり気落ちされてしまわれまして、親戚一同心配しているのでございます。とはいえ、警察はあてになりません。このままでは叔父様の生活にも差し支えが出てしまいます。そこで、叔父様の代わりに事件がどうなっているのかを調べるために、こうして私がやってきた次第でございます。今は叔父様に代わって事件を独自に調べているところでございます」

「やって来たって、学校は?」

「休んでおります。私にとってはこちらの方が大切でございますので」

 日名子は悪びれる様子もなくいう。

「で、何で蛭田さんと?」

「これはおかしなことを言われますね。あなた方も蛭田様に取材をするためにこうしてここにいらしたのでございましょう。私が来てはいけないなどという事はないはずでございますが」

「いや、しかし……」

「蛭田様は一年前に第三の被害者である佐田豊音様をストーカーし、こうして実家のある山梨県に戻ってきておられます。そんな人間がいる以上、話を聞きたいと思うのも当然でございましょう」

 はっきり言われて、背後にいる蛭田がばつの悪そうな顔をする。その言葉に千佳は初めて蛭田をはっきりと見たが、少なくともその目には狂気めいたものはない。どこにでもいる普通の男性だった。

「それに、この事実を知るあなた方日本中央テレビであるなら、必ず蛭田様の元を訪れになられるはず。私もあなた方と一度話をしたいと思っていましたので、こうしてお待ちしていた次第でございます」

「何とまぁ。俺らを待ち伏せしてたってか? 待ち伏せした事はあってもされた事は初めてだな」

 井ノ坂が呆れたように言う。

「ともかく場所を変えましょう。ここでは蛭田様が非常に気まずいはずでございます。まさか、あなた方もまだ容疑者になってさえいない人間の生活を壊す事はなされないと考えますが」

「それは、まぁ……」

 実際は職場に突撃しようとしていたのだが、そう言われては提案に乗らざるを得ない。秋口も蛭田と同じようなばつの悪そうな表情で頷くしかなかった。

「では、近くの湖岸に参りましょう。蛭田様もそれでよろしゅうございますね?」

「好きにしてくれ」

 蛭田は不承不承と言った感じでそう言うと、そのまま日名子の後に続いた。それを見てテレビクルーたちも慌てて車から降りると、そのまま後に続いたのだった。


「俺は知らねえぞ」

 湖畔の砂浜。そこに転がっている流木に腰を下ろすと、開口一番蛭田はそう言った。

「確かに俺は一年前に佐田豊音さんをストーカーした。それは今さら否定するつもりもない。けどなぁ、もうあれから一年経つんだ。正直、今は気持ちが冷めている。何であの時あんなに熱中したのか、自分でもわけがわからないくらいだ。俺の中ではあの事は吹っ切ったつもりなんだ」

 そう言う蛭田の声は落ち着いていて、実際にストーカーの一件にかかわっていた秋口や井ノ坂の目からしても一年前とは大違いだった。大体、一年前には彼は豊音の事を「さーたん」だのなんだの呼んでいたはずで、明らかに様子が違う。

「じゃあ、今は……」

「佐田さんがここに来ている事も知らなかった。殺されたってニュースを聞いて初めて知ったくらいだ。一応言っておくが、俺の家にはテレビなんて高級なものはねぇからな。まぁ、だからこそこうして吹っ切る事ができたんだと思うけど」

 苦笑気味に言われて、秋口たちは顔を見合わせるしかなかった。彼らも多くの人間を見てきている口だが、蛭田の言葉に嘘があるとも思えなかった。

 だが、秋口は食い下がる。

「しかし、口では何とも……」

「俺、来月に結婚するんだよ」

 唐突に言われて今度こそ秋口は絶句する。

「相手はあの自動車工場の娘さんだ。もちろん、去年の事件の事は全部話した。その上でプロポーズを受け入れてくれた。そんな俺が、何で今さら佐田さんを殺すんだ?」

「……六月七日の夜から八日の昼までのアリバイは?」

 その言葉に蛭田は今度こそ本当に苦笑した。

「それ、刑事さんたちも聞いたよ。その日はちょうど旧友連中と結婚祝いのお祝いパーティーをしていてさ。甲府市内のカラオケボックスで、徹夜でカラオケをしていたんだ。嘘だと思うなら一緒に歌っていた連中に聞いてくれてもいいぜ。もっとも、最初と二件目の事件のアリバイはないけど……それこそ何で俺が聞いた事もない人間を殺さないといけないんだ?」

 ある意味完璧なアリバイだった。

「もういいか? 俺はもう一年前の一件で懲りたんだ。しっかり反省もしてるし、今は真面目に働いている。俺がやった事が許されるとは思わないけど……少なくとも今回の件はそれとは何の関係もない。頼むから、何の関係もない事で俺の生活を壊さないでくれ」

 そう言われてしまっては、秋口たちも何も言う事は出来なかった。重苦しい沈黙がその場を支配する。

「あの……お話はこれでよろしいでしょうか? それでは、今度は私からあなた方にお尋ねしたい事があるのでございますが」

 と、ここで後ろに控えていた日名子がクルーに声をかけた。クルーたちが一斉に日名子の方を振り返る。

「何だ?」

「私も叔父様のために独自に事件を調べている人間でございます。そこで、佐田豊音様の事件当日までの動きをクルーのあなた方にお聞きしたいのでございます」

「……まぁ、いいけどよ。その代り、あんたも何か情報を話してくれよ」

 井ノ坂がそんな注文を付けた。それに対して日名子は微笑む。

「生憎、私もこちらに来たばかりでそこまで詳しい事を知っているわけではございません。しかし、あなた方の取材の参考になるお話をする事は出来るかもしれません」

「ほう、面白いな」

「そのために、あなた方のお話が必要なのでございます。この条件でいかがでございましょうか」

「……いいだろう。試してみよう」

 秋口の言葉に、日名子は一礼した。

「交渉成立でございますね。では早速でございますが、あなた方がここにやって来たのはいつでございましょうか?」

「最初の犯行が起こった直後だから、翌日の五月二十六日かな。それまでは大阪で別の取材をしていて、上からの命令で飛んできたんだ」

「それからはずっと同じ宿にご宿泊で?」

「そうだな。そうしているうちに二件目の事件が起きて、俺らはこの事件にかかりきりになった」

「失礼でございますが、その間あなた方はどのような取材を?」

 そう聞かれて、秋口は眉をひそめる。

「どういう意味だ?」

「いえ、殺人鬼がマスコミ関係者を狙うというのは私から見れば異常な話でございます。だとすれば、そこに理由があったのではないかと。具体的には、例えばあなた方の取材内容に犯人につながる何かがあって、それを放送なりで知った犯人が恐れた故に犯行を行った、とか」

 思わぬ推理に、誰もが唖然とした表情を浮かべる。

「それは……考えた事もなかったな」

「うーん、そうだな……。でも、俺らはどちらかと言えば取材的には他社から遅れていた口だったはずだ。こう言っちゃなんだけど……」

 井ノ坂がため息をつきながら言う。

「取材内容も他社と似たり寄ったりだったし、他社と違う内容の報道なんてなかったと思うけど……」

「それに、だとしてもすでに放送されてしまっている以上、俺らの口をふさいだところで意味がないと思うが」

 秋口は冷静に反論した。

「……では、こう考えてはいかがございましょうか。取材の過程で、佐田豊音様が何か犯人につながる手掛かりに気付いた。しかし、彼女はそれをどんな理由か皆に告げず、直接犯人と交渉しようとした。しかし、犯人の方が上手で殺害されてしまった。いかがでございましょう?」

 またしても意表をつく話に、今度は全員の顔に緊張が走った。今度は説得力のある説だった。

「それは……ないとも言えない。豊音ちゃん、結構独断専行するところがあったから」

 井ノ坂はそう言って日名子の説を認めた。

「けど、豊音ちゃんは俺らと一緒に取材していたんだぜ。与えられている情報は一緒だったはず。何で豊音ちゃんだけわかったんだろう?」

「さぁ、それは私にはわかりかねます。いかがでございましょう、闇雲に取材をするより、まずはそれを調べてみては」

「……考えておこう」

 秋口は真剣な表情でそう言った。

「さて、佐田豊音様が殺された事件当夜の事でございます。ニュースで見た限りでございますと、被害者の佐田様は午後十時頃には自室に引っ込んだという事でございますね」

「あぁ、気分が悪いって言って先に引っ込んだ。珍しい事もあるものだとその時は思っていたが」

「あ、俺も」

 秋口の言葉に井ノ坂が頷く。

「その後は?」

「俺らは十一時頃まで宿屋のロビーで打ち合わせをしていた。そろそろ第三の犯行が起きそうな時期だったからな。その後はみんなそれぞれの部屋に戻って……後は知らないな」

「全員が個室だったのでございますか?」

「長丁場になりそうだったから、なるべく部屋を取ったんだ。色々と機材や持ち物がある俺、井ノ坂、豊音ちゃんが個室で、残りのスタッフが大部屋。ただ、女性スタッフは律ちゃん一人だけだったから、彼女は別に個室を一つとったけど」

 秋口のその言葉に、律は無表情に頷く。

「そして翌日、佐田豊音様がいない事に気付いた」

「起床が午前六時。だが、彼女だけ朝食の時間になっても出て来なかった。体調が悪いとか言っていたから心配になって、午前七時頃に旅館の人に部屋の鍵を開けてもらったんだが……」

「そこには誰もいなかった、と」

「すぐに探したが見つからなかった。まさかあんなところで遺体になっているとは思わなかった。昼頃に警察から連絡が入って、そのまま遺体の確認に向かったんだ」

 秋口は苦々しい口調でそう言う。

「まぁ、そんな感じだ」

「そうでございますか……。貴重なお話、ありがとうございます」

 日名子はそう言って深々と頭を下げた。

「こんな感じでいいのか?」

「参考になりました。私はこれで充分でございます」

「そうか……まぁ、俺らも収穫はあった。秋口さん、早速今までの取材内容を調べ直してみましょうよ」

「そうだな……まずはそれをしてみるのが先決だな。いずれにせよ、今日も遅い。いったん宿に戻ろう」

 すでに河口湖には夕焼けが迫ろうとしていた。クルーたちは日名子と蛭田に一礼すると、そのままバンへと戻っていった。

「しかし、あの子、どういう環境で育ったんですかね。何というか、ちょっと得体の知れないというか……」

 運転席に座りながら、井ノ坂は秋口にそんな言葉を漏らした。

「何でもいい。とにかくネタにはなった。……そう言えば、千佳ちゃん妙に静かだったな」

「え、あ、すみません。……何となく、あの子が苦手で」

「駄目だぞ。アナウンサーがそんな調子じゃ」

「はぁ」

 千佳はそう言いながら、発車するバンの後方を見やった。湖畔からじっとこちらを見つめている日名子という少女を見ながら、千佳は自分が感じ取っていたあの寒気の正体に何となく心当たりがあるように思っていた。そして、それは千佳にとってはあまり気持ちのいいものではなかった。

 殺気。少なくとも千佳にはそう思えてならなかった。


 日が沈む河口湖の湖畔で、相変わらず蛭田磯夫は流木に腰かけて夕焼けが反射する湖面を見つめていた。その後ろに、日名子……否、『復讐代行人』黒井出雲が影のように寄り添っている。

「……さて、蛭田様。少々中断してしまいましたが、先程の話の続きをいたしましょう」

 出雲の淡々とした物言いに対し、蛭田は吐き捨てるように言った。

「随分だな。よくもあんな嘘をいけしゃあしゃあと言えるもんだ」

「それが私の仕事でございます。それに、あなたにはちゃんと正体を名乗ったはずでございますが」

「……『復讐代行人』黒井出雲、だったか」

 蛭田の言葉に、出雲は小さく頷いた。

「初めての体験だよ。まさか殺し屋に話を聞かれるなんてな。てっきり、最初は俺の事を殺しに来たのかと思った」

「その割には落ち着いていらっしゃるようございますが」

「気持ちが追い付いていないんだ。俺はそういう事にはかかわりたくねぇ。さっきも言ったように、俺は平凡な暮らしをしたいんだ」

「私が求める情報をお話し頂ければ、これ以上あなたに干渉する事はございません。加えて、あなたにはそれなりの報酬と、万が一依頼する際の連絡方法をお教えいたします。これは破格の条件でございます」

「俺は殺し屋の世話になる予定はねぇよ。で、あんたの要求は?」

「あなたが一年前のストーカー時代に集めた佐田豊音、またはその関係者に関する情報。そのすべてでございます」

「……あまり思い出したくないな。俺はもう、あの過去の事は捨てたつもりだ」

「先程も申し上げましたように、あなたに正体を明かしたのはそれなりにこちらの誠意のつもりでございます。普通に頼んでも一年前の記録を封印しているあなたは絶対に話してくれないでしょう。だからこそ、私は正体を明かしました。もちろん、あなたが気に入らない、絶対に一年前の一件を思い出したくないというのなら協力を断られても結構でございます。それで何か報復をするという事はございません」

「もし、あんたの事を警察にリークしたら?」

 その言葉に、出雲はゾッとするような笑みで答えた。

「それを言う必要はございますか?」

「……わかってる、言うつもりはねぇ。死にたくねぇし、俺にも守るべきものができちまったからな」

 蛭田はそう言うと、婚約者の写真を取り出してじっと見つめた。

「言っておくが、思い出すのはこれが最初で最後だ。二度と話すつもりはねぇ。俺にとってあの記憶は悪夢以外の何者でもないからな。それと……金は要らねぇ。あんたが殺し屋である以上、俺の情報で人が死ぬかもしれない。人殺しに協力してもらった金を使いたくねぇからな」

「それで結構でございます」

「……少し、長くなるぞ」

 日が暮れそうになっている河口湖をバックに、蛭田はポツポツと語り始めたのだった。

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