第二事件 六月一日 浦井祥子殺害事件

 事件から一週間後の六月一日金曜日。すでに日付が六月になっていたこの日、梅雨入りを迎えた富士山周辺は集中豪雨に見舞われていた。梅雨前線に刺激されて発生したこの豪雨はすでに西日本一帯に多大な影響を与えており、その雨が東に移動してきて、この日は山梨県一帯に大雨洪水警報が発令されていた。

 そんな中、青木ヶ原樹海の一角にあるキャンプ場で大規模な土砂崩れが発生したという通報が入った。幸い警報発令によりキャンプ場は全面封鎖されていてキャンプ客はいなかったが、その後処理をしていたキャンプ場職員と県職員の合計七名がキャンプ場内の事務所として使われていたロッジに取り残された。キャンプ場には更なる土砂崩れの危険があったため、すぐさまレスキュー隊の出動が決定。二次災害を警戒しながら、該当地区への救助に向かっていた。

 ところがその救助作業中に、そのレスキュー隊から県警本部に緊急通報が入ったのである。

『至急、至急! 救助作業中のキャンプ場近くの山林にて心臓をくりぬかれた女性と思しき遺体を発見! 現場は土砂崩れの危険性が高く、この状況での現場保存は困難! 遺体及び遺留品の回収を検討しているが、許可を願いたい!』

 この知らせに、河口署の捜査本部に緊張が走った。通り魔による女性の連続猟奇殺人事件……恐れていた事が現実に起こってしまったのである。

「畜生! 野郎、やりやがった!」

 刑事部長がそう叫びながら拳を机に叩きつける。他の刑事たちは無言でそれぞれに怒りをあらわにしていた。

「部長、どうしますか? レスキューの要請を許可しますか?」

「警察も入っていない状況で遺体と遺留品を搬出するなど……」

「しかし、万が一土砂崩れが起こったら遺体も遺留品も泥の底です。それよりは……」

「わかっている! 他に手段がない事も、な」

 そう言うと、刑事部長はレスキューの責任者に直接連絡を取った。

「状況は把握した。遺体及び遺留品の搬出を許可する。ただし、こちらから派遣する警察官の立ち合いを条件にしたい」

『無茶を言わないでください! 現場はすでに土砂崩れで何人もが閉じ込められていて、我々もここまで来るのにかなりの困難を伴いました。新たに人がやって来られるような状況ではありません! 二次災害の危険性もあります』

 レスキュー隊側はそう言って刑事部長の要求を拒絶した。刑事部長としてもそう言われてしまってはどうする事も出来ない。

「それでは、現場の写真だけでも撮影できないか?」

『待ってください……要救助者のキャンプ場職員がデジカメを所持していました。それでよろしければ』

「構わん。こちらから指示を出すので、その通りに写真を撮影してくれ。それと、今後の捜査の事を考えて現場に何か目印を。それができ次第、遺体及び遺留品の搬出を許可する。遺体及び遺留品は河口署へ輸送する事」

『わかりました! それで結構です』

 と、刑事部長は藤に受話器を差し出した。

「写真撮影の指示を出してやれ」

「了解」

 藤は受話器を受け取ると、電話越しにレスキュー隊へ写真撮影を指示していく。その後、その場にある遺留品の詳細を聞いていく。藤はそれをリストアップしながら緊張した様子で遺留品に関しても指示を出す。

「収集の際は手袋等を着用して指紋を絶対につけないように。後ほど参考のためにあなた方の指紋も採取します。それと、ビニール袋等あればそれに入れてください」

『了解』

「他に遺留品は?」

『目に見える限りはありません』

「結構です。それでは搬出を開始して構いません」

『了解。おい、急げ! ここも危ないぞ!』

 電話口の向こうで緊迫した声が響く。どうやら想像以上に危険が迫っているようだ。受話器を握る藤の手にも汗がにじむ。

『遺体及び遺留品の回収完了!』

『要救助者の収容も完了!』

『よーし! 撤収だ! 全員、ここから離れろ!』

 そんな声が受話器越しに聞こえてくる。それからしばらくして、今度は電話の向こうから地面が鳴り響くような大きな音がこだました。

「大丈夫ですか!」

『……こちらは大丈夫です。要救助者及び遺体と遺留品の搬出も完了。ただ、現場周辺は完全に土砂で埋め尽くされました』

 捜査本部全体にホッとした空気が漂う。間一髪だったが、どうにか最低限のものは持ち出せたようだ。だが、これで現場での捜査はほぼ絶望的になった。

「何にしても、後は遺体と遺留品がここに来るのを待つだけです」

「第二の殺人か……」

 刑事たちの顔には、別の意味での緊張感がにじみ始めていた。


「第二の被害者は浦井祥子。年齢は二十歳。回収された学生証から判明しています。東京の明正大学経済学部二年生で山岳部に所属。同じ山岳部の学友の話では、山岳部では七月の富士山山開きと同時に山梨方面吉田口からの富士山登山を計画していて、そのイベントの下見のために二日前の五月三十日に一人で出かけたきり戻っていなかったという事です。死亡推定時刻は遺体が雨に濡れていたため判別が困難であるものの、死後一日から二日が経過と判断。現地到着直後に殺害されたとみるのが妥当でしょう」

 遺体発見翌日の六月二日土曜日、まだ雨が降りしきる中、河口署の捜査本部は多数の刑事たちで埋め尽くされていた。あの後、到着した遺体の解剖や遺留品の検査が行われ、今日になっていよいよ本格的にこの『心臓強盗連続殺人事件』に対する捜査が始まろうとしていたのである。連続殺人という事で捜査員は増員され、外に張り付いているマスコミ関係者の数も多くなっている。

 そんな中、藤は淡々と昨日の遺体に関しての報告を続けていた。

「死因は判然としていませんが、遺体に心臓摘出以外の損傷がない点、それでいて心臓の摘出は死後であると考えられる点から、前回同様の死因が推察されています。また、遺体が動かされていたという点も前回同様です」

「連続殺人、と見てもいいんだな?」

 刑事部長が念を押す。

「犯行の手口から見るに、その可能性がかなり高いです。なお、今回の被害者と第一の被害者である森川景子とのつながりは今のところ確認できず、本格的に通り魔殺人の疑いが濃厚になりつつあります」

「狙いは若い女性、それも富士山周辺を訪れている人間か」

「今回の被害者ははっきり山梨方面に向かっている事から、犯行現場も山梨方面と確定していいでしょう」

「それはつまり……山梨県下にこのいかれた殺人鬼がいやがるって事だ」

 その事実に、部屋の中を重苦しい空気がつつむ。

「手掛かりはないのか?」

「何しろ現場が土砂崩れで壊滅していますから。二件目に関しての証拠はレスキュー隊の回収した物品程度しかありません。回収物のリストは手元の資料に記載してありますのでご参照ください」

 その言葉に刑事たちは手元の資料をめくった。

「登山の下見にしては登山用具がやや多いが、これは?」

「彼女はバードウォッチングの趣味も持っていて、下見ついでに樹海周辺をハイキングするつもりだったのではないかと同級生たちは証言しています。事件の事は知っていたようですが、本人はあまり気にしていない様子だったと」

「なるほど。それにこいつは……小ぶりの登山用リュックサックか」

「財布などもリュックの中にありました。学生証もその中に。現金は三万円入っていて、手つかずの様子です。今回も動機は現金目的ではありませんね。それに、暴行の形跡もありません。心臓だけが持ち去られています」

「何でだ……こういう女性が狙われる犯罪の場合、大抵の動機は暴行目的だろう。にもかかわらずそれがないとはどういう意味だ? 吸血鬼じゃあるまいし、若い女性の心臓を集めているだけだっていうのか?」

 全く読めない犯人像に、誰もが難しい表情をしている。

「最大の懸念は、犯人がこの後も同じような犯行を繰り返す危険性です」

 藤の言葉に、刑事部長の表情も険しくなった。

「起こると思うか?」

「可能性は非常に高いです」

「山梨県側だけでも、富士山周辺全体を警戒するのは無理がある。かといって、女性観光客への警戒を喚起したところで、その数をゼロにする事はできん」

「定期的なパトロールの実施、樹海周辺の警備の強化、それに一刻も早い犯人の確保。それしかありません」

 藤も悔しそうな表情でそう言うのが精一杯だった。

「だが、証拠が少なすぎる。これで事件の早期解決が可能か?」

「……それを正直に言ってもいいのですか?」

 藤の言葉がすべてを表していた。刑事部長が悲壮な表情で唇を噛みしめる。

「具体的に聞くが、次の犯行までのタイムリミットはどれくらいだ?」

「第一の事件から第二の事件まで約一週間前後。ですが死亡推定時刻がはっきりしないのでその辺も曖昧です。それに、そんなものは犯人の都合でいくらでも変えられます」

「いずれにせよ、とりあえず一週間前後とみていいんだな」

「断言はできませんが」

 藤の言葉に、刑事部長は決然とした表情で言った。

「必要な事があったら何でも言え。県警としてできる限り支援はする。とにかく、この怪物だけは、我々に威信にかけて絶対に捕まえるぞ。いいな!」

「はっ!」

 捜査本部の全員が緊張した表情で答えた。だが、藤だけはそんな中で難しい表情を浮かべていたのだった。


 藤の予想通り、捜査は難航した。第一の事件、第二の事件ともに証拠が非常に少なく、第二の事件に至っては遺体発見現場が地面の底に埋もれてしまっている。同時に、被害者の足取りに関しても単独行動がたたってほとんど解明できず、正直どこからどう手をつければいいのかわからないという状態だった。

 そんな事をしている間にも時間だけが刻々と経過していく。日付が変わるたびに、捜査員たちの間に焦りの色が浮かびつつあった。次の犯行までそう時間がないのは誰の目にも明らかなのに、それを防ぐ手立てがないのである。すでに日本中のマスコミの目が、この富士の樹海へと向けられつつあった。

 そして、第二の事件発覚からちょうど一週間後の六月八日金曜日、事件はついに捜査本部が恐れていた事態へと発展した。

 厳戒態勢下の富士樹海で、第三の事件が発生したのである。

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