復讐代行人 心臓強盗事件

奥田光治

プロローグ

第一事件 五月二十五日 森川景子殺害事件

※注意

 本作はあくまで謎解きを主軸とするエンターテイメントとしての小説であり、あくまで「いかにしてエンターテイメントとして面白くできるか」という考えの下で執筆されている。ゆえにそれ以上の意図や主義主張等は存在しない。実在の地名こそ登場するが、作中における事件、団体、組織等は現実のものとは一切関係がなく、全てにおいてフィクションである事はこの場で名言をしておく。今回は内容が内容だけに、公表においてあらかじめその旨は宣告させて頂く。それを踏まえた上でこの小説を楽しんで頂きたいと願うものである。                奥田光治




 その事件が始まったのは、二〇〇七年の五月下旬頃……正確な日付を言えば五月二十五日金曜日の事であった。

 富士山の山梨県側、ここに広がる森は青木ヶ原と呼ばれ、またの名を「富士の樹海」という。河口湖から鳴沢村にかけて三十平方キロメートルにわたって広がる原野であり、はるか昔に富士山から流れ出た溶岩の跡の上に存在している。現在は遊歩道やキャンプ場が完備された観光地としての側面も持っている場所だ。

 この日、地元のボランティア団体が、この富士の樹海に足を踏み入れようとしていた。彼らの目的は観光地である樹海のパトロール、及び樹海に足を踏み入れた自殺者の捜索である。

 富士の樹海はかねてより自殺の名所として有名であり、実際にここで自殺をしようとする人間が後を絶たない。そのため、地方自治体や地域のボランティアがこうして常日頃から見回りをする事で自殺の防止活動を行っていた。実際、こうした活動が功を奏してか以前に比べれば樹海の自殺者の数は激減している。が、それでも遊歩道からさほど離れていない場所で自殺者の遺体が見つかる事も多く、そうした遺体を発見する事もボランティアの仕事であった。

 地元ボランティアの一人である石本春雄はこの道十年のベテランである。定年退職後にこのボランティアを始めたのだが、今までにも何人かの自殺体を発見した事があり、そのたびに後味が悪い思いをする。以前に比べて減っているとはいえ、今でも慣れるものではないのは確かだった。

 樹海に入ると、何人かの人間とグループを作って樹海の中を探索する。遊歩道から一歩奥へ入ると、そこは光の届かない薄暗い樹海の中である。とはいえ、この森に入り続けて長い石本にとっては、ある程度までなら自分の位置は把握できる。方位磁石が効かないなどというくだらない噂もあるようだが実際はちゃんと機能する上に、最近はGPSという便利なものもあるので位置を見失うという事はなかった。

「しかし、相変わらずこの森は不気味だねぇ」

 石本と一緒に歩いていた小浦喜助がぼやく。昔から近所に住んでいる顔見知りで、最近では将棋仲間としての付き合いもある。石本にとっても気心の知れた相手だった。

「まだ夏には早いからな。それほど観光客も来ていないからだろう。夏になったらもっとやかましくなる」

「まぁ、人がいない方が不法投棄だの自殺だのはなくていいんだけどなぁ」

 小浦はそう言いながらさらに森の奥へと分け入っていく。

「最近は、不審者の情報も多いらしい。気を付けた方がいい」

「へぇ、何でこんなところに?」

「溶岩石を勝手に持ってく輩が多いそうだ。逮捕者も出たらしい」

「何を好き好んでそんなものを……」

「意外に高く売れるそうだ」

「金のためなら自殺の名所も怖くない、ってか。世も末だねぇ」

 そんな話をしながら森の中を分け入っていた二人だったが、遊歩道から三百メートルほど離れた場所で不意に二人の足が止まった。

「……おい、今何か見えなかったか?」

「そこの茂みの奥か?」

 それだけ言葉を交わすと、二人は互いに頷き合ってその茂みの方へと足を進めた。緑と薄暗さしかないはずの樹海であるはずなのに、一瞬ではあるが何かカラフルな色が見えたのである。あり得ないものがあり得ない場所にある。石本はその嫌な感覚を過去に何度か味わっていた。

 そして、今回もその嫌な予感は的中する。

「……当たりだな」

 うっそうとした茂みの奥に、若い女性と思しき人物が倒れていた。服の間から見える皮膚には血の気がなく、素人目にも生きているとは思えなかった。腐敗が始まっていないところを見ると、まだ死んでそれほどの時間は経っていない様子である。

「こんな若いのに死ぬなんてな……」

 石本は軽く合掌し、小浦に無線連絡を指示して自分は遺体に近づこうとした。

 が、その瞬間、石本の表情が変わった。

「お、おい……」

「ん? どうした?」

 無線連絡を終えた小浦が訝しげに石本を見やる。だが、石本としてはそれどころではなかった。石本は震える手で、その一点を指さした。それにつられてその指先を見た小浦であったが、その小浦の表情も大きく歪んだ。

「な、なんだこりゃ!」

 地面に横たわる遺体……その遺体の心臓部分が大きくくりぬかれ、胸にぽっかりと大きな穴が開いていたのである。


 ……これが後に「心臓強盗殺人事件」と呼ばれる殺人事件の幕が開いた瞬間であった。


 石本たちの連絡で駆け付けた山梨県警も、その明らかに普通ではない現場を見て何か尋常でない事が起こったのを悟った。すぐさま現場は封鎖され、本格的な捜査が始まる中でこれが普通の自殺事件ではない事は明白になりつつあった。

 持っていた運転免許証から被害者の身元はすぐに判明した。名前は森川景子。財布に入っていた名刺によれば東京出身の山岳カメラマンらしいが、それにしてはカメラなどの撮影道具や登山道具などの所持品が周囲に見当たらず、何者かが持ち去ったと考えられた。

 殺人だとすればこれほど残虐な事件は前代未聞である。あまりの事に警察も信じられなかったため、当初は自殺した人間の遺体から何者かが何らかの理由で心臓だけをくりぬいたなどという突飛な可能性も考えられた。だが遺体の解剖の結果、心臓部以外に索状痕など死につながるような損傷がなく、かつ体内からも毒物などが一切検出されなかった事から、死因は心臓に対する直接的な損傷が原因と断定された。こうなってくると自殺とは考えにくい。持ち去られた荷物の件もあって事態は一気に他殺の様相を見せ始めた。

 これを受け、山梨県警はすぐさま現場最寄りの河口警察署に捜査本部を立てる事を決定。状況からみて明らかに他殺であり、しかも若い女性の心臓をくりぬくという前代未聞の猟奇殺人事件である。捜査本部を設置した山梨県警が気合を入れるのも当然であった。

 県警刑事部捜査一課からは、捜査一課係長の藤三太郎警部が捜査本部に派遣され、捜査の指揮を執る事になった。その名前から「富士山刑事」の異名を持っている山梨県警の切れ者である。だが、その藤をもってしても、今回の事件は今まで起こった事件とは明らかに性質が違っていた。それだけに、藤もこの事件が一筋縄ではいかないと覚悟をしての現地入りであった。

 そんな中、事件の翌日、最初の捜査会議が開かれる直前に知らせを聞いた被害者の関係者が遺体の安置されている河口署にその姿を見せたという知らせが入った。藤が署の玄関に行くと、立っていたのは眼鏡をかけた若い男性であった。

「あの、斧木陽太といいます。彼女の婚約者で、数ヶ月後に結婚するはずでした」

 男性は出てきた藤にそう挨拶した。藤も頭を下げる。

「捜査を担当しています藤です。さっそくですが、遺体の確認をお願いできますか?」

「本当に……彼女なんですか?」

 斧木はすがるような声で尋ねた。一方、藤はあえて事務的に言葉をつなぐ。

「遺体と免許証の顔は一致しています。ただ、一応関係者の確認が必要なものでして。とにかく、一度見て頂けますか?」

 藤にそう言われて、斧木は素直に藤の後に続いた。薄暗い署の廊下を歩きながら、藤は斧木に質問をしていく。

「こんな時に失礼ですが、森川さんはどうして富士山に?」

「今度発刊される山岳専門雑誌に載せる写真の撮影に来ていたんです。でも、まさかこんな事になるなんて……」

 斧木は遺体を見る前からすでに茫然自失状態であった。藤はその言葉を聞いて厳しい表情を浮かべる。個展を開こうとしていて、なおかつ今回の訪問がその写真を撮影するためだったとなれば、ますます自殺する理由が被害者にはない事になってくる。自殺の可能性は、この時点で藤の頭から消えていた。

「あの、ご家族の方は?」

「彼女に家族はいません。両親は数年前に交通事故で他界しまして……。今は私と同棲しています」

「失礼ですが、あなたのご職業は?」

「医者です。世田谷で開業しています」

「ほう、若いのにたいしたものですね」

「いえ、私なんかまだまだで……」

 そんな事を話しているうちに、二人は霊安室の前に到着する。そこで会話は途絶えた。

「では、お願いします」

 藤の言葉に、斧木は顔を青ざめさせながら無言で部屋の中に入った。そして、部屋の中に横たわっている遺体の顔に掛けられた布がめくられた瞬間、嗚咽を漏らしてその場に崩れ落ちた。

「け、景子……アアアアァァァァァ!」

 それで、すべては明らかだった。


 斧木が遺体と対面してから数時間後、第一回目の捜査会議が河口署の会議室で開かれた。正面には県警刑事部長や県警捜査一課長の姿もあり、まさに県警の総力を結集した陣営である。そんな中、刑事たちが現在集まった情報を報告し始めた。

「被害者は森川景子。東京都在住で年齢は二十九歳。両親は三年前に事故で他界していて、現在は婚約者と同じマンションに同棲しています。職業は山岳カメラマンで、婚約者の話では遺体発見の三日前……すなわち五月二十二日の火曜日から、近々発刊される雑誌に載せる写真を撮るために富士山付近に出かけていたようです。被害者に関する詳細な調査は、これから本格的に東京に捜査員を派遣して行う事になります」

「鑑識からの報告は?」

 刑事部長の言葉に、鑑識が立ち上がった。

「えー、死亡推定時刻は胃の消化物などから遺体発見前の二十四時間前後と推測されます。詳しい死亡推定時刻に関しては現在詳細な解剖が行われていますが、概ね遺体発見の三十時間~二十時間前程度が相場かと思われます」

「随分死亡推定時刻に幅があるが、これは?」

「遺体には動かした形跡があり、その影響です。死因に関しては不明ですが、心臓以外に損傷がなく毒物の反応もないため、例えば心臓を一突きにされるなどして死亡したと考えていいでしょう。ただし、出血量が少ないので心臓を摘出した行為そのものは、被害者が死亡してからの事だったと考えられます」

「つまり、被害者を殺害した後で心臓を摘出したと?」

「その通りです」

 鑑識はそう言うと軽く頭を下げて席に座り、別の刑事が立ち上がった。

「遺留品に関してですが、婚約者の話によれば被害者は撮影道具や登山道具を入れたリュックサックを所持していたようですが、それが現場からは発見されていません。携帯電話も同様です。状況からみて犯人が持ち去ったかと考えても問題はないでしょう。ただ、財布に関してはズボンのポケットにそのまま残されていて、現金も手が付けられていません」

「物取りの線は低いか……携帯電話の記録はどうなっている?」

「電話会社に問い合わせた結果、通話に関しては滞在一日目、すなわち二十二日の夜に婚約者と通話したのが最後です。メールはその後も何通か着信していますが、すべて写真を出す出版社からの業務連絡ばかりで、事件に直接関係しそうなものは見つかっていません」

「その婚約者が犯人である可能性はないのか?」

 それには藤が答えた。

「婚約者の名前は斧木陽太という東京世田谷区に開業する医師で、死亡推定時刻には急患で複数の人間と医院で治療をしていたと本人は述べています。裏取りはこれからですが、すぐばれる嘘をつくはずもないのでおそらくこれは事実と考えてもいいかと」

「犯人である可能性は低いか。だとするなら、通り魔的な犯行か」

 捜査本部の空気が少し重くなる。通り魔となると被害者の周辺を調べても犯人像が浮かびにくく、捜査が長期化する可能性があるからだ。

 そして、このような猟奇的な犯行を行う通り魔の場合、味をしめた犯人によって同様の事件が連続して発生する危険性が高くなる。警察としては事件の捜査もそうだが、それ以前にそちらの可能性も軽視するわけにはいかなかった。

「被害者には暴行の形跡は一切なく、また現金にも手は付けられていません。ここから通り魔的犯行だったとしても、暴行目的、金銭目的の犯行の線は否定されます。第一、その動機だと心臓を持ち去る理由が説明できません」

「すると何か? 犯人の目的は、純粋に心臓を奪う事だけだと?」

「信じられない話ですが、そうなってしまうのです」

「狂ってやがる」

 刑事部長はそう吐き捨てると、話を続けた。

「遺体が移動されているという事は、犯行現場は別の場所と考えるべきだな」

「その可能性は否定できません。ただし、被害者が富士山周辺の写真を撮っていたのは間違いないので、富士山からそう離れた場所でない事は確実です」

「とはいえ、富士山周辺といっても広いぞ。山梨県側だけでも樹海だの富士五湖だの撮影ポイントはそれこそ山ほどある上に、これが静岡県側まで含まれると我々だけでは対処しきれん」

「闇雲に探すわけにもいかんでしょう。そのためにも、宿の特定は重要です。この点に関して現在調査を進めています」

 もし本当に何の動機もない猟奇趣味の通り魔だった場合、一刻も早く犯行場所を特定しなければ新たな犯行に対して手遅れになりかねない。万が一犯行現場が静岡側だったとするなら、静岡県警に対する警告処置も必要になってくる。

「婚約者は宿泊先を把握していなかったのか?」

「気ままに写真が撮りたいからと言って普段から出発時に宿は決めず、飛び込みでの宿泊が多かったとか。状況によってはテントでキャンプする事もあったようです。連絡そのものは携帯でできるので斧木も気にしていなかったようで」

「その携帯から位置情報は割り出せないのか? 見つかっていないという事は、今も実際の現場周辺に隠されているかもしれないだろう」

「それが、取材中は電源が切られていたらしく、最初の数日に山梨と静岡の県境付近尾をうろついていたのを最後に、それ以降の記録がありません。現在も電源は入っておらず、最悪犯人の手で携帯が破壊されている可能性もあります。こうなると事件当日に被害者がどこにいたのかを携帯から特定するのは不可能です」

「だが、少なくとも県境をうろついていたという事は、宿はその辺にあるんじゃないか?」

「仰る通りです。現在、それを踏まえた上で宿の探索を行っています」

 と、その時捜査本部に刑事が一人飛び込んできた。

「緊急です。被害者の宿泊していた宿が判明しました!」

 捜査本部がざわめく。

「どこだ?」

「『マウント』というペンションです。山中湖と篭坂峠のちょうど中間辺りにある個人経営のペンションで、二十二日に部屋を借りて一泊した後、荷物を置いて帰ってこない事を不審に思ったオーナーが通報してきました」

「初日に部屋を借りたきり帰ってこなかったという事は、ペンションはあくまで拠点に過ぎず、その後はどこかで野宿していた可能性が高いという事か。しかもそのペンションは山中湖と篭坂峠の間……よりにもよってややこしいところに泊まりやがって」

 藤がそう舌打ちをしたのも無理はない。篭坂峠は山梨県と静岡県の県境、ちょうど富士山の東側に位置する峠で、すぐ北側に富士五湖の一つである山中湖がある。つまり山梨県と静岡県、どちらに被害者が出かけたとしても不思議ではない場所なのである。それは刑事部長も同じ気持ちだったようだ。

「宿の部屋に何か残されていないのか?」

「現在、鑑識が向かっています」

「徹底的に調べさせろ! わずかな手がかりでも見逃すな!」

 刑事部長の言葉に、その刑事は小さく頷いて飛び出していく。

「部長、こうなった以上、静岡県警側にも協力要請をした方が……」

「わかっている。この事件、絶対に解決するぞ! いいな!」

「はっ!」

 刑事部長の言葉に、その場の全員が頷き、部屋を飛び出していく。刑事部長は席に腰かけると、深くため息をついた。

「少なくとも、この一件で事が済めばいいんだが……」

 ……だが、そのわずか数日後、この刑事部長のささやかな願いは、最悪な形で裏切られる事となったのだった。

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