第3話・蒼に捧ぐ
かん高い悲鳴が聞こえたような気がして、リュノルは目を覚ました。
外はまだ暗い。どうやら夜半過ぎのようだ。
まだ、朝の勤めまでは時間がありそうだ。再びまどろもうとしたその時、また悲鳴が聞こえた。
気のせいじゃない。
慌てて見繕いをして、リュノルは神殿の外に飛び出した。
そこには、世にも恐ろしい光景が広がっていた。
暗い街中に水が、あふれていたのだ。
「皆様、早く、起きてください! 街が大変なんです!」
街の異変を見て青くなったリュノルは、急いで神殿の人々を起こしに走った。
起きてきた司祭らも、シスターたちも、状況を知ると皆一様に真っ青になった。
「この丘は少し高いから、街より少しは安全だろう。皆、街の人たちを神殿に誘導するのです」
一番最初に落ち着きを取り戻した司祭長の命で、リュノルたちは街の人々の誘導に当たった。
「皆さん落ち着いて!」
「神殿に向かって下さい、とにかく、神殿に!」
最初は足首くらいの水かさだったのが、少しずつ、確実に深くなってくる。
水に足をとられながらも走り回ったおかげもあり、街に居た人は全て、神殿の建つ丘へと避難することが出来た。
神殿で育てられている子どもたちも、騒ぎで起き出してきた。
「姉ちゃん……街、どうなっちゃうの?」
「分からないわ、エルロイ……」
エルロイが不安そうに、リュノルの手を握ってくる。リュノルもその手を、力を込めて握り返した。
神殿の中はどこもかしこも混乱のるつぼだ。
街の異変の原因を、その解決法を探そうと司祭らが神殿を駆け回っている。
「一体、何故こんなことに?」
「街の者の話では、川の水が急激にあふれ出してきたとのことです」
「どうも水は泉の方へと流れているようです」
「解決法は? 神殿の書物に何かこのような事態の対処法は残されてないのか?」
「それが……あの青い石板に何かあるようなのですが、それ以上のことは……。あれは古の言葉、読めるものはおらず、また内容を知るものもおりません!」
「神殿内の文献ですが、どうやら石板がらみのことは最高機密だったようで、その箇所だけ全て、古の言葉で書かれており読めません! 故に言い伝え程度のことしか分かりません。司祭長。口伝で何か伝えられていないのですか?」
「何も、伝えられてはいない。……どうしたものか。このままでは、街が……」
(司祭長様にも、手に負えないなんて……)
このまま、愛する街はどうなってしまうのだろう。そして、自分達は。街が沈んだりしたとしたら、誰も生きてはいられないだろう。自分も、司祭たちも、街の人も、エルロイも、そして、クラーレも。
(解決策が残されているのは、石板だけ……石板だけ?)
リュノルは思った。それなら、分かるじゃないかと。自分は石板の字を読んだ人を、知っているではないかと。
(クラーレさん……あの人に聞けば、分かる)
行かなきゃ。
リュノルはエルロイの手を離すと、かがんでエルロイと目線を合わせた。
「エルロイ。私、行かないと。ここで、じっとしていられるわね?」
「うん……姉ちゃん、どこ行くの?」
「クラーレさんのところ。石板にこの事態の解決法が書いてあるらしいの。だから、石板の言葉を聞きに行くのよ。待っててくれるわね?」
「……うん」
エルロイが頷いたのを見て、リュノルは走り出す。
「リュノル、どこへ行くのです。お待ちなさい!」
マリーの声がリュノルを引き止めようとする。
(ごめんなさい、シスター・マリー。待っていられないんです。私のしようとしていることを、シスターや司祭様が嫌がることは、わかっていますから)
余所者嫌いは、聖職者ほど強いのを肌で感じていたから。監視をつけないと安心できないくらい、嫌っていることを。
リュノルは走った。ただ一人。
石板の言葉を知る、恐らくたった一人の男の姿を、求めて。
求めた姿は、旅人たちの集団から一人離れて立っていた。
こんなときでも荷物をしっかり持ち出しているあたりに、旅人らしさを感じて自然と笑みがこぼれた。
そして、街が大変なときなのに、クラーレの無事な姿を見て嬉しくなる自分に、リュノルは気付いた。――どうして、この人のことはこんなに気になるのだろうか。
「クラーレさん」
「どうしたの、シスター・リュノル」
あまり平時と変わらない様子で、クラーレはリュノルを見た。
頭ひとつ高いところにあるクラーレの顔をまっすぐ見ると、リュノルは口を開いた。
「教えてください、クラーレさん。私に、あの泉のところにある、青い石板の言葉を。クラーレさんが読んで、知った、その言葉を。あの石板に唯一、この事態の解決法が書かれているんです」
言い終わると、リュノルは頭を下げた。
顔を上げるとクラーレが、じっとリュノルを見つめていた。今まで見たことないような、真剣さを帯びた、静かな表情で。そして、ゆっくりと口を開く。
「……キミはこの街を、心から愛している?」
唐突な問いだったが、リュノルは迷わず答えた。
「はい、とても。私は愛する街に、神に、お仕えすることを喜びに思っています。……街を、人々を救えるなら、何でも出来ると思います」
このリュノルの返答を聞いて、クラーレは一瞬の逡巡を見せたが
「……どんな内容でも驚かないね。それなら、教えても構わない」
「――ありがとうございます!」
リュノルの頼みを聞き届けてくれた。そのことに感謝して、リュノルはクラーレにもう一度、頭を下げた。
「さて、行こうか、シスター・リュノル」
「え、どこへ? ここでは言えないような言葉なのですか?」
「それもある。でも、見たいものもあるんだ。……内容は石板のところで、ちゃんと教えるから」
クラーレがリュノルに手を差し出す。
リュノルはその手を取ると、水渦巻く街へと、進み出た。
街中には、街の人を誘導したときよりも、もっと多量の水が溢れていた。
溢れた水は、流れを作っていた。泉の方へと。
深さはリュノルの膝上に既に達している。長い裾が水をどんどん吸い、徐々に歩きづらくなってくる。
濡れたスカートに足をとられて、転びそうになったリュノルを、クラーレの手がしっかりと支えた。
「ありがとうございます、クラーレさん」
「気にすることはないよ。でも、これでは時間がかかるか。手遅れにはまだなっていないと思うけど、なるべく先は急ぐべきだね。……失礼するよ、シスター・リュノル。ちょっとボクの荷物を持っててね」
クラーレはリュノルに自らの荷を持たせると、有無を言わせずリュノルの身体を抱き上げた。
「悪いけど、こうさせてもらうよ。川沿いじゃなくて、泉につながる道だけ教えてくれない? 今、川の近くは街中より危ないし」
「あ……それなら、こちらの道を行ってください。まだ、ましだと思います……」
「了解。じゃ、しばらく我慢してね」
クラーレはリュノルを抱きかかえたまま、早足で歩き出した。
すぐ近くに、クラーレの顔が見える。前方を強く、琥珀の瞳が見すえている。
(……エルロイの言ってたこと……正しいのかも……)
こんな非常事態なのに、触れられて、抱き上げられて素直に嬉しい自分に、リュノルは気付いた。
得体の知れない、身体の奥底から湧き上がってくるような、歓喜。
(……そうだったんだ……)
多分、初めて出会ったその日から。――魅せられていたのだろう、この人に。
リュノルは手に持つクラーレの荷物を、しっかりと抱きかかえた。
決して、落とすようなことなど無いように。
泉のある方をそっとうかがうと、蒼い光が溢れていた。
泉に近付くにつれ、その光はだんだん眩くなってくる。
「……何の光なのでしょう……」
「多分、石板だよ。行ってみれば分かる」
リュノルの呟きは小さかったのに、ちゃんとクラーレは答えてくれた。
果たしてクラーレの言うとおり。
泉に着いたリュノルらが見たのは、闇の中、蒼く、炯々と輝く石板と、泉に流れ込む大量の水であった。
月の光の下、普段の石板と同じものかと思うほど、石板は蒼く、蒼く輝いていた。
心なしか、石板そのものも普段より蒼く見える。
クラーレは石板に身体をもたせかけると、そっとリュノルの身体を地に下ろした。
リュノルから荷物を受け取ると、空いた手でリュノルを支えながら身体を反転させ、石板の方を見る。
「……本当に知りたいんだね、シスター・リュノル」
石板を見上げたまま、クラーレは問う。
「はい、クラーレさん。知れば街を、救えるのなら。私でも出来るのなら、街を救いたいんです」
蒼く輝く石板を見上げて、リュノルは答えた。
「……分かった。キミがそこまで望むなら、ボクは教える。でも、教える前に一つだけ聞いて欲しいことがあるんだ」
「はい……何ですか、クラーレさん」
「シスター・リュノル……今だけ、リュノルと呼ばせてね。リュノル、キミはシスターだ。ヴェールを留める金の飾りで、初対面のとき一目で分かった。そして、この大陸の神殿の戒律というのは、他大陸と比べて特に、厳しいことも承知している。でも……これ位なら、これ位ならすることは、許される……よね」
言うなりクラーレはリュノルを抱きしめた。強く、強く。
(クラーレさん……)
早鐘を打つように鳴り響くクラーレの鼓動を聞きながら、リュノルは嬉しさに震えて目を閉じた。
「……抱き上げた時点で、戒律には触れていたかも知れないけどね。リュノル、本当は教えたくないんだ。キミはとても街を愛している。だからキミはボクが教えれば、その通り実行するだろうし、また、キミなら実行可能なんだ。キミが実行すれば、街は元通りになる」
「……本当、に?」
「本当に、だよ。間違いないと思う。そして、それを実行したらボクはキミにもう会えない。少なくとも、今のキミとは会えなくなる。……ボクはそれが、本当は嫌なんだ。……キミの笑顔をずっと見ていたい、出来ることならボクの傍にずっといて欲しいって……思ってしまったから」
(……!)
これ以上に無いほど嬉しい言葉だった。そんな言葉をクラーレから聞けるとは、思っていなかった。
今の言葉の意味がわからないはずがない。嬉しくて、ひとりでに涙がこぼれた。
「さあ、リュノル。今から言うのが石板の言葉だよ。一回しか言わないからね」
クラーレは腕の力を緩めると、リュノルの顔を上に向かせた。
そして、一呼吸置いて、リュノルに伝えた。――己が知った、石板の言葉を。
「――これが、石板の言葉だよ。どうすれば良いのか、わかったでしょ?」
「はい。……ありがとうございます、クラーレさん。あなたのおかげで、私は街を救えます」
「止める気は、無いんだね。もっとも、その方がキミらしいか」
「私……らしい?」
「うん。自分がやろうと決めたことは、キミは必ず実行するでしょ? ずっと見ていてそう思ったんだ。明らかにキミの行動は、ボクの見張りという感じではなかったからね」
『見張り』という言葉がクラーレの口から出た。では、リュノルが神殿のよこした監視の役を担っていたことを、見抜いていたのだろう。それでも、リュノル自身のことを見てくれ、傍にいて欲しいとまで、言ってくれた。――それがこの上なく、嬉しかった。
「クラーレさん。本当に、ありがとうございました。私から最後にいくつか、お願いがあるのですが……聞いてくれますか?」
「キミの願いなら出来る限り。何?」
「エルロイに、ごめんなさいって伝えてください。きっとあの子、私を待ってると思うから。あと、これをエルロイと……あなたに」
リュノルは身につけたロザリオを外し、腕につけていた青い石のついた腕輪も外した。
「二つとも、私がシスターになったときに頂いたものです。二人で一つずつ分けて欲しいんです」
「分かった。約束するよ」
クラーレはリュノルからロザリオと腕輪を受け取ると、荷物の中にしまい込んだ。
「で、他に願いは?」
「……今すぐ、安全なところまで逃げてください、クラーレさん。私は街を救いたいですが……あなたが助からないことは、絶対に嫌なんです。街と同じくらい、私はあなたに無事であってほしいんです」
「……分かった。それがキミの、願いなら」
クラーレは頷くと――リュノルに笑ってみせた。
これから何が起こるか分かっているからか――泣き笑いのような、笑顔であった。
「クラーレさん。あなたに、幸せがたくさんありますように」
「ありがとう。……じゃあリュノル、ボクは行くよ」
クラーレは元来た道を歩き出した。
そして走りだそうとする前に、リュノルの方を見て、口を開いた。
「 」
その声は、水音に消されたが。
何を言ったのか。それはリュノルの心に、しっかり届いた。
(ありがとう、クラーレさん……)
リュノルはクラーレの姿が見えなくなるまで、その姿を見送った。
そして見えなくなると、石板の方を向いて、膝をつく。
膝をつくと身体の大部分が水に浸かったが、そのまま瞳を閉じて、最後になるであろう祈りを、天に捧げた。
(……神様。ありがとうございました。私は、リュノルはとても幸せです。与えてくださった全てのことに、心から、感謝します)
愛した街の人々は優しかった。エルロイは弟のように可愛かった。
そして――想いを寄せた人は、自分を愛していてくれた。
(全て満たされて、私はとても幸せです。でも神様。あと一つだけ、お願いがあるのです。……この街を、お救い下さい。『蒼』を取らないで下さい。もう、遅いのでしょうか。私では不足でしょうか? どうか、どうか……この街を……)
リュノルは立ち上がった。立ち上がると一歩、足を泉の方へと進めた。
かすかに身体が震える。今から自分のしようとしていることに、恐怖してか。
リュノルの脳裏を、様々な思い出が駆け巡った。
街で育った日々。シスターになった日のこと。エルロイとの思い出。そして、クラーレとの思い出……。幸せに包まれてきた日々の、数々の思い出。
この街から『蒼』がなくなれば、それらは全て失われてしまう。それだけは絶対に、嫌だ。
リュノルは祈るように手を組みあわせると――身を、捧げた。
泉の、底に。……最も清き、蒼に。
エルロイは走っていた。
街から急に水がひきはじめて、夜が明けると川は元通り、さらさらと流れていたが――リュノルが、いなくなった。
水に呑まれたのだろう。どこかへ走っていったから。
司祭らの中ではそういうことになったようだが、それだけではエルロイは納得できなかった。
リュノルは、クラーレに会いに行くと言って、自分を置いていった。
クラーレに会えば、リュノルのことが何か、分かるかもしれない。もしかしたら、一緒にいるかも知れない。
そう思い、エルロイは走っていた。まだ乾きやらぬ道を。
やっと泉のところで、石板の前にたたずむクラーレを見つけた。
リュノルは、いない。
「……エルロイ君。キミにシスター・リュノルから伝言だよ」
エルロイの気配に気付いてか、クラーレが振り返った。手には荷物と、他にも何かを持っている。
「姉ちゃんから伝言?」
「そう、伝言。『ごめんなさい』ってね。あと預かったものがあるよ。ボクと分けてくれってさ。ボクはどっちでも良いから、先にキミが好きなほうを選んでくれないかい?」
そう言いながらクラーレが荷物から取り出したものは、リュノルのものと分かるロザリオと、腕輪。
「これ……どっちも姉ちゃんの大事なものじゃないか! 姉ちゃんは、どこへ行ったんだよ?」
「さあ、選んで、エルロイ君」
「選ぶけどさ、教えてよ兄ちゃん。兄ちゃんは、姉ちゃんがどこに行ったか、知ってるんだろ?」
迷った末に、ロザリオを取りながらエルロイはクラーレに突っかかった。
クラーレは真っ直ぐに、石板のレリーフを指差した。そして淡々と続ける。
「エルロイ君。キミにも石板の内容を教えてあげるよ。それでシスター・リュノルがどこへ行ったか分かると思うから。『天より蒼を授けよう。絶えなき蒼を。蒼を絶えさせたくなくば、清き乙女を、最も清き蒼に捧げよ。さすれば蒼は、絶えることが無いだろう。完全に街が蒼くなる日。石板が蒼く輝く日。その日こそが、蒼を失う日。蒼い街の最期と心得よ』……これが石板の文の全て。そして、シスター・リュノルがいたから、この街は蒼を失っていない。分かった?」
それだけ言うとクラーレは泉に背を向けた。そして真っ直ぐ歩き出す。
「兄ちゃん、どこ行くんだよ。あと、おれにはよく意味が分からないんだけど」
クラーレは足を止めると、エルロイの方を見ないで口を開いた。
「どこへって? ボクはまた旅に出るだけだよ。言葉の意味は、まぁ考えてみて。そのうちきっと意味が分かるよ。ただ、あまりボクの話を神殿の人にはしない方がいいと思うよ。ここでは余所者の話は歓迎されてないからね」
言い終えるとクラーレは、おもむろに手に持っていたものを、後方に放った。
そして放ったものがどうなったかも見ずに、歩き去った。
ひらひらと宙を舞い、泉に落ちたものをエルロイが見ると、それは一輪の白い花――リュノルの好きな、白い花だった。
エルロイは、しばらく一人立ち尽くしていた。
近くを流れる川は、さらさらと、さらさらと変わらず流れているのであった……。
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