第2話・動く想い

「……そろそろ、行こうかしら」

 パタンと開いていた本を閉じ、リュノルは立ち上がった。

「行ってまいります、司祭長様」

「おお。頼んだぞ、リュノル」

 司祭長に挨拶してからリュノルは外に出ると、図書館の方へと歩き出した。

 ここしばらく、リュノルは「世話」という名目で旅人クラーレの様子を見ていたが、その役目は至って、楽なものだった。

 クラーレの行動はほぼ、一定だったのである。

 本を図書館で読んでいるか、さもなければ宿にいるか。

 探し回る必要もなければ、特に変なこともしないので、報告するようなことも何も起こらない。

 散歩をする時間が出来たくらいに、リュノルは感じていたのだった。

「おや、リュノルちゃん。今日もご苦労様。あの兄さんなら、今日はもう出て行ったよ」

 図書館に入ると、入り口付近に座っていた館長が気さくに話しかけてきて教えてくれた。

「そうですか、ありがとうございます。貴方に神様のお恵みがありますように」

(今日は、宿なのね)

 リュノルは手を合わせ、頭を下げてから宿のある方へと歩き出した。

 この大陸、南西大陸キネシスは『乾いた大地』の他に『宗教大陸』の異名も持つ。

 宗教が深く浸透している大陸だったのだ。

 そのため、この大陸ではどこの街でも、一般の街にあるような酒場や宿というものは、街の一画に追いやられ、そこだけ違う雰囲気を漂わせていた。

 ここ『蒼の街』エレミアも例外ではない。

 さらさらと流れる川の水音を聞きながら歩くリュノルの顔は、どことなく心細そうであった。そういう場所が、得手ではなかったのだ。

(ふう、着いた……)

『蒼の楽土亭』の看板のある建物へとリュノルは入って行き、目的の場所を目指す。

 ここの一室に、クラーレは滞在していた。

「失礼します、リュノルです」

「ああ、入って」

 扉をノックし、返事を待ってからリュノルは室内へ入る。

 そこには備え付けられたテーブルに向かって、一心不乱に書き物をするクラーレの姿があった。

「今日も、書き物ですか?」

「まあ、そうだね。調べて分かったことはすぐ書きとめておかないと。忘れたら大変だからね」

 そう口にしてからまた、クラーレは手を動かし何事か書きつけた。

「何かお調べ、なんですよね」

 決して近付きすぎるな。必要以上に話すな。そうシスター・マリーに厳しく言われてはいたが、これくらいなら聞いてもいいだろう。

 クラーレは手を止めるとリュノルを見て、明るく答える。

「うん。色々と、ね。ボクは調べることが大好きなんだ」

「そうなのですか?」

「そう。調べたいなって思ったら気が済むまで調べるんだよ。この街って、とても興味深いじゃない。乾いた大陸の、乾かぬ街。それでね」

 言ってクラーレは笑った。悪戯っ子を彷彿とさせる、けれどそれとはまた違う類の、好奇心たっぷりの笑顔で。

 その顔にリュノルは一瞬、我知らず見とれてしまった。

 楽しそうに輝く琥珀の瞳が、とても綺麗。そう思った自分に、少し驚いた。

「あ……あの。何か足りないものはありませんか、クラーレさん」

 そんな自分にうろたえながら、リュノルはいつもお決まりになった言葉をかける。

「別にないよ、シスター・リュノル」

 クラーレから返ってきたのも、これまた、いつも通りの返事だった。

「そうですか。何かあったら、お気軽に申し付けて下さいね。……それでは、今日はこれで失礼します」

「いつもありがと、シスター・リュノル。気をつけてね」

 またテーブルに向かって、書き物を始めたクラーレに一礼してから、リュノルは宿を後にした。

 少し歩いてから、自分の頬が少し熱くなっているのに、リュノルは気づいた。

(……私、どうしちゃったのかしら)

 軽く、頬をたたく。やはり、熱い。もしかしたら、紅潮しているのかも知れない。

(……そうだ。早く、帰らないと。お夕飯の支度を、手伝わないと)

 太陽の位置もかなり低くなってきている。ふるふると首を振って歩き出そうとした、そのときだった。

「待ちなよ、お譲ちゃん。一人なんだろ?」

 見知らぬ男が、リュノルの前に立ったのは。



「あの……何でしょうか」

 リュノルは恐る恐る、目の前の男を見た。大きな男。乱暴そうな顔だ。かすかに酒の臭いもする。

「お嬢ちゃん、カワイイなぁ。一晩俺に付き合ってくれよ。いい思いさせてやるぜ」

「困ります。これからお夕飯の支度も、夜の勤めもありますので」

「良いだろ、一日くらい。な、俺に付き合いなよ」

 男がリュノルの顔を覗き込んできた。酒臭い息がもろにかかり、気持ち悪い。

 嫌。逃げないと。

 思うのだが、恐怖に足がすくんで動けなかった。

 男の手がリュノルに伸びてくる。ごつごつした、汚れた手。

 嫌悪と恐怖で、リュノルは思わず目を閉じた。

 ……が、その手がリュノルに触れることはなかった。

「キミ、嫌がる子に、何を無理強いしようとしてるの? 晩酌なら、一人で勝手にすれば?」

「な、何だお前ぇ?」

 男の驚いたような声と……自分の確かに知っている、声。

 まさか。いやでも、その人がここにいるはずは……。

 恐る恐るリュノルが目を開けてみると、男の手が何者かにつかまれていた。

 大きな手。指にかすかにインクの跡がある。――クラーレだった。

(クラーレさん……どうして、ここに?)

 男の手を振り払うと、クラーレはすっとリュノルの前に立った。

 自然、リュノルは庇われる形になる。クラーレの背に庇われて、安堵する自分にリュノルは気付いた。

「お前ぇ、痛い目見たいのか? 見たくなきゃそこをどくんだな」

「痛い目? ……見るとしたらキミの方じゃないの?」

 横も、縦も、自身より大きい相手を前にしていても、クラーレは一歩も退く様子を見せない。

 声色も普段通り。脅えの色は、全く無い。

「何調子のいいこと言ってんだ。正義漢ぶってかっこつけた気か? 余程ひでぇ目にあいたいみてぇだな」

「ここで暴れる気? キミ、場所をわきまえたらどうかな?」

「うるせぇ! これでも喰らえ!」

「下がって、シスター・リュノル」

 クラーレが軽くリュノルの身体を押しやる。

 震える身体を叱咤しつつ、何とかリュノルがその場を離れたところに、男の拳が飛んできた。

 その拳をクラーレは難なくかわす。軽いフットワークで右に、左に。

(……クラーレさん……私のために……)

「リュノルちゃん、災難だったねぇ。何でもないかい」

 リュノルの横に女が立って、いたわるように肩を抱いた。それは神殿の近くに住む女だった。

「あ、ネリアさん。……ええ、私は大丈夫です。でも……」

「あのお兄さんかい? 大丈夫だろ。どっちが悪いかは誰が見ても明らか、神様がお守りくださるさ」

 ネリアはリュノルの肩を軽く叩いて、落ち着かせてくれた。

「しっかし、ああいう旅人はいつ見ても不快だねぇ」

「全くじゃ。早々に出て行ってもらいたいものじゃ」

「よく出て行けたな、あの兄ちゃん。大した度胸だ」

「兄さん、そこだ、行けー!」

「ケンカはここか? やっちまえー!」

 いつの間にか大勢集まってきた野次馬からは、勝手な野次も飛び交う。

「ほら、リュノルちゃん。そんなに心配なら祈ってあげな。あのお兄さんの勝ちを」

「ええ……そうします」

(神様。どうかクラーレさんをお守り下さい。私をかばって下さったんです)

 リュノルは胸の前で手を組むと、祈りを捧げた。そうしていないと、どんどん不安になってくるから。

 ――一方、戦っている二人だが。

「ちょこまか動きやがって! 喰らって倒れやがれ!」

「普通動くと思うけど? 誰でも痛いの嫌だし。あ、もしかして、キミの集中力が足りないから当たらないんじゃない?」

 挑発じみたその言葉に、男の動きが止まった。拳が震えている。怒りが頂点に達したようだ。

「ええい、手加減はやめだ! これでも喰らいやがれ!」

 言うなり男は腰に携えていた曲刀を抜くと、クラーレに襲いかかった!

 刃を見てもクラーレは恐れひとつ見せない。

「武器を出してくれたか。その方が、こっちもやりやすいよ」

 不敵な笑みを口元に浮かべると、クラーレは取り出した短刀を抜き、男の懐に潜り込んだ。

 刹那、武器と武器がぶつかりあう。

 次の瞬間、曲刀がくるくると弧を描いて、落ちた。……そして

「――さあ、これで終わりにしようか」

「い、いつの間に……」

 クラーレが男の喉に短刀を突きつけていた。終わりにしないと、どうなるか分かるだろうね、というように。軽い口調とは裏腹に、その瞳は冴え冴えと冷たく輝いていた。

「……わ、わかった! やめてやるよ、やめりゃいいんだろ!」

 男は叫ぶと、落ちた曲刀を拾い上げ、一目散に走り去っていった

 それを見て、クラーレも短刀をしまう。と、辺りに大歓声が巻き起こった。

「やるな兄ちゃん、すかっとしたぜ!」

「全く、よくやってくれたよ!」」

 巡礼以外の旅人が苦手な傾向のある街の人々が、皆笑顔で大喜びだ。

「あの、クラーレさん。……助けていただいて、ありがとうございます」

 人ごみを縫って行って、リュノルはクラーレに心からお礼を述べた。

「いや良いんだよ、シスター・リュノル。ここにボクが滞在していたから、こんなことが起こったわけだし」

 気にするな、というような表情。その表情に何故かリュノルは泣きたくなった。

 騒ぎが収まったのを受けて、三々五々、人々が引き上げていく。

「リュノルちゃん、途中まで一緒に行こうかね」

 ネリアがそう言ってくれたので、リュノルはその言葉に甘えることにした。あんなことがあった後で、一人で歩くのは嫌だと思っていたところだったから。

「それではクラーレさん、失礼します。……本当に、ありがとうございました」

 クラーレに一礼してから、リュノルはネリアと共に神殿の方へと歩き出した。

「ほんと嫌な奴だったねぇ、リュノルちゃん。ま、いつもここからの帰りはボディガードがちゃんとついてたから、あまり心配はしてなかったんだけどね」

「え? ボディガード?」

 自分にそんなものがついていたとは、初耳だった。驚いているリュノルを更に仰天させるようなことを、続けてネリアは言う。

「あのお兄さんのことよ、リュノルちゃんを助けに出てきたさ。……どうしたんだい、リュノルちゃん。まさか、知らなかったのかい?」

 知らなかった。と言うよりも、そのようなことを思いもしなかった。まさかそんなことを、クラーレがしてくれていたとは。

 驚きのあまり声も出ないリュノルに、ネリアは教えてくれた。

 リュノルが宿のある一画から帰るときは、いつも一定の距離をとりながら、リュノルの後をクラーレが、見守るように歩いていたということを。

 だからすぐに、助けに入ってくれたのか。聞いて納得すると同時に、心の中は嬉しさで一杯になった。

「最初あんたの後を歩いてるのを見たときは、善からぬことを考えてるのかと思ったんだけど、どうも違うみたいだって話になってね。あたしの仲間うちではボディガードってのが一番適当かって結論になったんだよ。今日のではっきりしたよ。結構腕もたつみたいじゃない。良かったねぇ、リュノルちゃん。あんたが見張る相手がそういう人でさ」

「はい……」

 リュノルは何度かそっと後を振り返った。一度だけ、クラーレの薄汚れた緑のマントが見えて、それが何とも言えない気持ちでリュノルを一杯にした。

 ネリアと別れ、全ての仕事を終え、自室にさがってからも、リュノルの心はその気持ちで一杯だった。

 心に灯がともったような、くすぐったいような、それでいてとても、熱い感情。

 クラーレのことを思い出すたび、そんな気持ちがリュノルの中に湧き起こってくるのだった。



 それからというもの。

 リュノルは、クラーレに会いに行くのが、前よりずっとずっと楽しみになった。

「リュノル。貴女、あの旅人に近付きすぎてはいませんか?」

 マリーに何度もそう注意されたが、クラーレに会いたい、彼のことを知りたいと思う気持ちはどうしても、抑えられなかった。

「姉ちゃん。もしかして、兄ちゃんのこと、好きなの?」

 エルロイにこう言われたが、何ともリュノルは答えられなかった。

 自分の気持ちがどういうものなのか、分からなかったから。

 クラーレに色々、彼自身の話を聞いた。今まで旅した先の話や、旅先でやってきたことの話を。色々聞いて初めて、クラーレがリュノルより三歳年上だということも知った。

 彼自身の話を聞き、知るのがただ楽しみで。

 それが全てだったから、何とも言えなかったのだ。ただこれだけははっきりと分かっていた。そんな風に思ったのは、初めてだったということだけは。

「さあ、早く水を汲みに行かないと」

 リュノルは壷を持つと神殿を出た。

 ごぼごぼと音を立てて流れる川沿いを歩いていると、エルロイがやって来た。

「姉ちゃん。ついて行っていい?」

「ええ、エルロイ」

「姉ちゃん。何かさ、川の水の量、多いような気がしない?」

「そうね。……そうかも、知れないわね」

 そんな会話をしながら泉につくと、石板の前に先客があった。

 クラーレだった。石板を時折見ながら、手に持つ紙に何やら書きつけている。

「こんにちは、クラーレさん」

「あ、こんにちは、シスター・リュノル。あと、エルロイ君」

 リュノルが声をかけるとクラーレは顔を上げ、リュノルとエルロイに会釈した。

 ぱっとリュノルの顔が喜びに輝くのを横目に見たエルロイは、やっぱり姉ちゃんは兄ちゃんが気になってるんじゃないのかなあと、声に出さずに思う。

「クラーレさん、今日は石板をお調べなのですか?」

 泉の水を汲みながら、リュノルは尋ねる。

「うん、そうだよ。この街の歴史は大体昨日調べ終わったから、今日からは石板を調べようとね」

「石板……もしかして、読めるんですか?」

「うん。このくらいなら、読めそうだね」

 リュノルがまた壷の重みによろめいているのを見て、初めて会った日のように手を貸しながらクラーレは答えた。

「すごい、兄ちゃん! ねぇ、何て書いてあるの?」

「内容かい? 今ざっと見たところでは……この街がこの街になり、この街であれる所以、ってところかな、エルロイ君」

「ゆえん? ……なんかむずかしいな」

「そうだ、シスター・リュノル。キミに聞きたいことがあったんだ」

「私に、ですか? 何でしょうか?」

「別にエルロイ君に聞いても良いんだけどね。この街には昔、生贄の風習があったらしいじゃない。その風習は今から約百年前、当時の司祭長、ヨハン・ディウスの提言で無くなったと本には書かれていたけど、どうしてその風習が無くなったのか、細かいところを知らない?」

「えーっと……姉ちゃん、何でか知ってる?」

「私が神殿で教えられた話では、人が死ぬという残酷な風習をなくすためだ、とのことでした」

「そう。そんなものなのか。……ねえ、この石板の内容というものは、皆知ってるものなの?」

「多分、今街に知ってる人はいないと思います、クラーレさん。その石板に書かれていることが読める人は、今街に誰一人いないんです。石板の内容も伝わってはいませんし。私もだから、知りません」

「だから読めるってすごいんだよ、兄ちゃん!」

「そうかな、エルロイ君。さあ、そろそろ神殿に戻るんでしょ? ボクも途中まで一緒に行くよ」

 紙をしまいこんだクラーレは、今日はもう宿に引き上げるようだ。

 三人で連れ立って川沿いを歩いた。川べりには白い花がいくつも咲いていた。花は川の強い流れに、時折ゆらゆらと揺れている。

「……花だね。水が無いと咲けない花だ」

 クラーレがぽつりと呟いた。

「そうなのですか? 私、この花が大好きなんです」

「姉ちゃんはずっと前からこの花が好きなんだよ、兄ちゃん」

「へえ、そうなんだ」

 他愛のない会話。のどかな楽しいひととき。

 エルロイは気付かなかったが、リュノルは気付いた。

 このとき花を、川を、クラーレが厳しい目つきで見ていたことに。

「……どうかしたんですか、クラーレさん。何か、気がかりなことでも?」

「別に。何でもないよ、シスター・リュノル。ただ、珍しいんだよ、ボクは」

 クラーレはそう言ったが、琥珀の瞳はどことなく沈鬱な様子であった。

 それがリュノルの心にしこりを残した。

 クラーレのそんな顔を見るのは、初めてだったから。



 川はごぼごぼと、そして次第にどうどうと流れるようになった。

 明らかに、おかしかった。今までなかったことだった。

 愛する街の変化をリュノルは司祭長に何度か訴えてみたが、何でもないだろうと返された。

 そんなものかと自分を納得させようとする度、川を見ていたクラーレの眼差しが思い出された。

そんな風に、街の人々のほとんどがその変化について何も思わずただ過ごしていた、ある日。

――悲劇は、起こった。

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