第35話 頭の中のホムンクルス
丈晴はおそらくそこに怒りもなければ憎しみもない。
ただ彩と絶冬華が大切で、それは守りたいものだった。
目の前には、何やら奇声を上げて芋虫のように転がる脊谷教授がいる。
脊谷教授は『七瓶』だとして、今殺し合いに巻き込まれているのだとして、困った状況にあるのは間違いないだろう。
何せ、これほど弱いのだから。
丈晴は、丈晴の体で目を覚ました。
綿菓子の混じり合いによってホムンクルスからの情報を得ており、すべて終わったのだと理解した。
ふと、彩の方を見る。車椅子上で、彩は気を失っている。
丈晴はため息をついた。
脊谷教授によって操られた彼女は、今現在も丈晴の敵か味方か判別できない。辺りには男子生徒たちが横たわっており、起きる前にこの場で起きたことの処理をしておかなければならないだろう。
「ちょっと、丈晴くん。私は待っているのだけど」
鈴の鳴るような声の方を見ると、そこには絶冬華がいる。椅子に縛り付けられているのに、妙に偉そうだ。
「『小人の友達』っていう組織は随分頼りないんだね」
「そうだよ。だから、守ってね」
妙に真っ直ぐ言われるものだから、丈晴は動揺してしまう。丈晴は彼女の縄を解こうとするが、まだ自分の体がしっくりきておらず手間取ってしまう。
「早く解いてよ」
「そのつもりなんだけど」
手首の紐が溶けたら、絶冬華は丈晴の手を急に掴んだ。そして丈晴を抱くようにして、そして頬にキスをした。唐突なことに丈晴は反応できず、目をぱちくりさせていると絶冬華は言った。
「私には感情がないの、これは真似事」
「……なんの真似事?」
「恋……かな。もし私が感情を持ったときに、嬉しい思い出になると思って。ヒーローに助けられたんだもの」
そんな言葉が、丈晴には感情がないものとは到底思えず「そ、それよりすることがあるからだろ」と妙にドギマギしてしまった気持ちを誤魔化すように切り替えた。
「とにかくみんなの記憶を、元に戻さないと」
丈晴は再び教室を見渡す。
それぞれ気を失った面々は、自律的に動く脳波によって小さな綿菓子を垂れ流す。その中で、男子の一人を丈晴は暴く。
新しく植え付けられた、脊谷への忠誠。それは丈晴にとってわかりやすいほどに、他の記憶とは別個で整理されていた。後からこの記憶だけ消せば元に戻せるとわかっているような周到さ。丈晴はその記憶を取り除き、絶冬華に言った。
「ひょっとすると、脊谷教授の優しさなのかな」
「何かあったの?」
「……いや、なんでもないよ」
能力の連続使用で、丈晴は汗をビッチリとかいていた。
丈晴は、二人三人と不要な記憶を削除してゆき、全ての男子生徒への処理を終える。
唐突に、頭の中に声が響く。
――平家丈晴は悪魔だ
――平家丈晴は悪魔だ
――平家丈晴は悪魔だ
植え付けられた記憶の逆流は、丈晴の中に新たな人格を作り上げる。それは決して強く主張するわけではないが、少しずつ丈晴を削るようだ。
――悪いことをしては、ダメ
例えばそれは母と混じり合って、そうやってホムンクルスは変質していくのだろう。
彩を目の前にして、彼女を最初になんとかすれば良かったな、と思う。摩耗した丈晴にとって、意識のない彩のかすかな綿菓子を暴くのは重労働だ。
丈晴は乱れた呼吸を整えながら、彼女の綿菓子に手を触れた。
バチバチ、と弾かれるように。
急激で、なおかつはっきりとした輪郭。その波が一瞬にして丈晴の中で出来上がる。
丈晴には何が起こったのかわからない。
それはホムンクルスと結びついて、さながら生物となった。
その生物は巨大に膨れ上がって丈晴を見下ろした。
その生物は極彩色に輝きながら丈晴を威圧した。
――このままだと、頭の中から喰われるよ
丈晴は何が起きているか分からなかった。
意識はあるのに、体のすべてがその生物と結びついて金縛りになったように動かない。
その玉虫色は徐々に白色になって輝度を増しながら蠢く。
――月魄絶冬華は、君が喰われることも狙っているよ
――でも、私がなんとかしてあげる
頭に直接響く言葉。
丈晴はそれに反応したくて、なんとか口を動かそうとした。しかし、相変わらず体は動かず、小刻みな震えばかり感じる。そして、自分の体を「丈晴くん、丈晴くん、どうしたの」と絶冬華が揺すってきたがそれにも反応できない。
おまえは、なんだ?
丈晴は聞きたかったが、それができない。しかし、テレパシーのようにそれは伝わる。
生き物は、答えた。
――私は、君の欲しいものだよ
なんだ、それは。
――近藤彩でも、月魄絶冬華でもない
――少しずつ少しずつ、君は、それをわかっていくよ
そしてそれは形を変えて、少女のような形となった。
水面のような不安定さを残しながら形成されたそれを、丈晴は見たことがあった。
そうか。脊谷が『七瓶』じゃなかったのか。彼も所詮、君に操られた『ジャンク瓶』に過ぎなかったのか。
なぁ、子鞠さん。
ただしそう思ったのも束の間で、その記憶は散りぢりになる。そして、次第に名前の輪郭がぼやけていく。
少女のようなそれは、丈晴に向けて微笑んでいた。
段々とそれが、丈晴の元から離れていく。
そして。
お前は、誰だ?
――またね
蝋燭の火が消えるように、彼女は姿を消した。
丈晴は目を覚ました。信じられないほど息が上がっていた。
すぐ目の前に、月魄絶冬華がいた。
「良かった、丈晴くん……。大丈夫?」
「あ、ああ。なんとか」
絶冬華は安堵の表情を浮かべ、驚くべきことに涙目でさえある。
彼女は一体、どういうつもりなのだろう。
と、丈晴が意識を保てたのはそこまでだ。すでに能力を使いすぎた丈晴に余力はなく、そのまま絶冬華の腕の中に落ちた。
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