第29話 絶冬華の声

 自律的に動く。

 丈晴の意志がなくとも、体は人間として正常に動作する。


 丈晴はそれを、側で見ていた。お風呂に浸かっているように温かく、ぜんぜん動きたいと思えない。自分の体は、自分の意思とは関係なく歩くし、関係ないことをしゃべる。


 ただし、そこに介入しようとは思えない。


『フラスコの解浸変』の『浸』により、丈晴の全身に彩が蔓延している。それは逃れ得ようがなく、一度こうなってしまえばどうすることもできないと知る。ほとんど彩が何をやっているかもわからず、ただただ海に浮かぶように漂っていた。

 それは心地よいことだった。


 ――助けて、丈晴くん


 何か聞こえている気もするし、それもよくわからない。


 ――助けて、助けて丈晴くん


 声の記憶をたどりたくとも、そこは別の何かが使用中で、丈晴はそこにたどり着けもしない。

 たどり着けないから、いいや。

 心地よさは、丈晴の大部分を覆い尽くしているのだから、それに溺れていたって、悪くないだろう。

 

 丈晴は、丈晴自身の制御を明け渡すことが快感なのだと初めて知り、自分自身というのが曖昧になっていた。その一部の自分は、まるで逆流するように彩の中に流れ込み、少しずつその形をはっきりさせていく。


 ――起きてよ、丈晴くん!


 そのとき、初めて丈晴はその声に聞き覚えがあることに思い至る。

 どうして思い出せたのだろう。

 自分の体は誰かが使っていて、順番待ちのはずなのに。


 いや、違う。

 この体は今使われていない。これは、彩だ。

 少しずつ逆流した彩の体の中で、ついに丈晴の思念が一塊となり、そして自律し始めた。『フラスコ』たる丈晴の思念は彩を読み解き、そして記憶への接触を可能としたのだ。


 ――私を普通の少女にして、幸せにしてよ!


 そうだ。

 これは。

 絶冬華の声だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る