第19話 仮説検証の雑談

 その日の午後、移動教室で廊下を歩いているとたまたま教授の脊谷に声をかけられた。


「すみません、荷物を運ぶの手伝ってくれませんか?」


 若い鬼才は、涼しげな笑顔を丈晴に浮かべた。

 いつも傍に控える小柄な小鞠も含めて、本当にメディア映えするのだろう。最近はテレビの出演機会も増えているとのことだった。

 丈晴は頷き、段ボール箱を運ぶのを手伝った。


「授業に使うんですか?」

「ええ。人数分の脳波計を用意したら結構な量になってしまいまして。まとまった人数の高校生が集まる機会ですから、調査するにはちょうどよくて」


 にこりと笑う。

 なるほどわざわざ高校生に授業をするのは、そう言った理由もあるのかと丈晴は納得した。

 脊谷は続けた。


「それぞれの年代において、脳の動きには傾向がありますからね。とても貴重な機会です」


 そういえばと、丈晴は思い出す。


「先生は以前、神様はいるって言ってましたよね。そういうのも、脳波を計るとわかるんですか」


 軽口で聞いたつもりだったが、脊谷は「わかりますよ」と明朗に答えた。


「正確には、心がどこで発生しているのかがわかります。それが、脳の機能によって作られるのか。あるいは、五感か、それに類するセンサーによって外部から受け取ったものによって作られるのかがわかります。卵が先か鶏が先か。もし、ですよ。心が外側の何かによって与えられるものだとすれば、その存在は神様と呼んでいいのかも知れませんね」

「先生は、神様が人の心を捻じ曲げることをできると思いますか?」


 なんとなくの雑談ではあった。

 ただし、丈晴は少し自分の能力を重ねて話してしまった。


「興味深いですね。脳に特定の電気信号を与えることで手を動かすようなことは、すでに簡単にできます。体は機械的なものですから、仕組みがわかれば当然できますね。そして、脳も機械です。だから特定の薬物を与えて感情をコントロールすることができるわけです。わかりますね、平家くん」

「名前を知ってるんですか」


「学園の人の名前は全員覚えていますよ」

「学園の人の!?」


「例えば、あの用務員さんは原さんです」


 記憶力の良さに驚愕する。丈晴は試しに用務員さんに話しかけた。


「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

「え、私ですか? 森ですよ」


 ん?

 丈晴は、脊谷を見た。


「ええと、少し盛りました」


 よくわからない人だ。


「話を戻しますね。例えば薬物でさえ、人の心を捻じ曲げているんです。だとすれば、神様にできないはずがないじゃないですか。結局、何を与えるとどうなるのか、という、入力と出力しかないのです。そうなれば、あとはどれだけ人体の受容体(レセプター)を理解するか、しかない」

「脊谷先生であれば、他人を簡単に作り替えられそうですね」


「人を作り替えることに興味があるんですか」脊谷先生はにっこりと笑った。「ただ、残念ながらそれは無理ですよ。人間は、私には少々複雑すぎますね。小鞠さん、仕事が終わったら飲みに行きませんか?」

「嫌です」


「ほら、身近な人でさえ思い通りにならない。人っていうのは理解しきれないものなのです」

「……なるほど。涼しい顔であっさり拒絶されましたね」


 すべて暴いた、と思ったはずの凪の記憶と現実が違っていたのは、要するに自分が理解しきれなかったからだろうか。人間の記憶というのも複雑なものに違いないから。


 脊谷は続けた。


「つまり私は、小鞠さんを、もう飲みに誘ったら言ってくれる程度に仲良くなったと理解していたわけですが、実際はそうならなかった。私の理解の前提のどこかに間違いがあったか、もしくは理解したと判断した以降に条件の変更があったということです。さて、どちらだったか検証してみましょう。小鞠さん」

「なんでしょう」


「私と知り合ってからどこかの地点で、私が飲みに誘ったら来てくれたタイミングはありますか?」

「ないですし、これからも起こり得ません」


「つまりこの場合は、前提が間違っていたと切り分けられました。それでは、どんな前提のどこが間違っていたのか再度検証していきます。飲みに行きたくない、という言葉の中には、私、つまり脊谷と飲みに行きたくないという意味合いか、もしくは飲みの場自体が嫌いという可能性が考えられます。さて、小鞠さん」

「お食事会は好きです。でも脊谷先生は、小難しい話が長いし偉そうなので、プライベートでお食事を共にしたい対象ではないです」


 我が意を得たり、と脊谷教授は指を鳴らした。


「答えに辿り着きました。小鞠さんは、私を付き合いづらい相手だと認識しているという前提が、私には欠けていたということです。つまり小鞠さんには、これから時間をかけて私が付き合いやすい人間だ、ということをわかってもらう必要がありますね」

「脊谷教授。言っていて悲しくなりませんか」


 冷たくあしらわれる脊谷教授だが、ひょっとするとその関係性が好きそうだ。

 そして今のやりとりに関して言えば、丈晴にとって学びがあった。


「……なるほど、わからなかったら検証すればいいんですね」

「教育者として、何か参考になったのであれば何よりです」


 脊谷は綿菓子がとても小さい。

 感情の起伏の少なさは、物事へのフラットな視点へとつながり、研究者に向いている特性なのだろう。


 検証はいいかも知れない。丈晴は思った。

 丈晴は凪の記憶から、目的の人物へたどり着くことができなかった。だとすればどこかに思い違いがあったのだ。


 前提が間違っていたのか。

 あるいは後から条件が変わったのか。


 手順を思い返す。

 丈晴は凪の記憶を暴いて翌日にはそのアパートへ向かった。アパートがあった場所は古いスナックだった。凪の記憶以降にそうなったとは到底思えない。だから後から条件が変わったパターンではないだろう。


 だとすれば、前提が間違っていたはずだ。

 前提は、なんだろう。


 丈晴の相手を暴く精度が思ったよりも低かった? いや、他人の記憶を改竄できるほどはっきりわかる自分の能力がそうだとは到底思えない。

 凪の記憶が曖昧だった? それにしては町の質感まではっきりしていたし、彼女自身はっきりそうだと認識していたはずだ。


 だとすれば……。

 丈晴は答えに近づいている気がした。答え合わせを絶冬華としなければ。

 そう思った時に、脊谷は言った。


「それにしても、身近な人への勘違いは悲しいですね。小鞠さん、もっと私と仲良くしてください」

「ビジネスライクなので無理です」


 身近な人への勘違い。

 丈晴の心にブレーキがかかる。


 絶冬華。

 彼女は丈晴を助けてくれた。しかし彼女の組織は凪に平然と暴力を振るおうとしていた。

 彼女を完全に信用しきって相談しても、いいのか。

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