第5話 同じ

 彩はひどく惨めな気持ちだった。


 丈晴は、あまりクラスメイトとは交流しないが、女子からクールで格好いいなんて言われることがある。学力も上位で、帰宅部ではあるが体育でも目立つ存在であるらしい。


 彩から見て、絶冬華と丈晴は似合ってしまう。だからこそ、彼ら二人が手を繋いでいた写真はクラスみんなにとって信憑性があるものだったのだろう。


 丈晴が喫茶店にくるといって、彩は嬉しかったのだ。理由がどうであれ。

 話があると言われて、少し期待していた自分がいたことも否定しない。


 そして。

 最終的に聞いた彼の言葉はといえば、それはひどく彩を侮辱しているように感じた。


 だってそうだ。

 付き合っていることにする。


 それは、丈晴は心のどこかで彩に恋人はできない、と思っていたってことじゃないか。自分と恋人のふりができるのは名誉なことだ、と言わんばかりじゃないか。

 それは、見下してるってことじゃないか。


 そして。

 なんで悲しいかといえば。

 それが正しいと、彩自身が感じるから。

 

 彩は自分の足に力を込める。

 腰から先の感覚は段階的に空気と溶け込み、特に膝から先はピクリとも動かない。


 歩けなくても、車椅子があれば移動はできる。

 歩けなくても、たくさん考えたり話したりすることはできる。


 それは別に、いっさい慰めにならない。

 健やかなクラスメイトが体育で元気に走り回る姿を見て、彩は誰にも自分は追いつけないのだといつも視線を逸らすのだ。


 だから、勝手に怒って勝手に帰ることこそ傲慢。

 そんな自分の態度こそ自惚れ。

 

 自然と強まっていた雨に、自分がびしょびしょになっていたことに気がつき惨めさが増す。

 謝りたいが、恥ずかしすぎてあわせる顔はない。


 どうしよう。


 嫌だな。


 こんな自分は大嫌いだ。



 公園を過ぎたあたりで、彩は妙な感覚に陥った。

 寝て起きたような感覚。

 公園は過ぎていたはずなのに、どういうわけか公園にいて、車椅子のタイヤが泥を噛んでいる。

 ふとスマホを見ると、時間はそれほど経った様子はない。


 何だろう。

 わからないけど、帰らなきゃ。


 改めて公園から出ようとしたら、再び彼女の意識は飛んで、気がつくと彼女は公園に戻っていた。


 何?

 どういうこと?


 混乱する彩の頭には、残像のように小さな声がこびりついていた。


 ーー気持ちを伝えなきゃ


 気持ち。

 私の気持ち。


 悔しかったこと。丈晴にしてほしいこと。伝えたいことはたくさんある気がした。それを伝えるために自分は公園にいるのだろうか。

 

 ーー気持ちを伝えなきゃ


 だから、そんな言葉が頭に響くんだ。


 ◆


 丈晴は二人分の食事代を払って、丈晴は喫茶店を後にした。

 鉛色の空からはぽつぽつと雨が降り始め、面倒になる前に早く帰ろうと足をはやめる。


 と、彼を止める鈴のような声があった。


「世の中を思い通りにする丈晴くんのことだから、これは予定通りだったんだろうね」


 振り返るとそこにいるのは絶冬華。

 少しずつ強まる雨にも負けず、彼女は微笑みを湛えている。


「おやおや月魄さん。どうしたのかなこんなところで。まさか僕のストーカーでも?」

「私もカッサータが食べたかっただけ」


「僕と一緒にいるのはやめたほうがいいんじゃない? 妙な噂が広まってて、面倒だろ?」

「あら、私は構わないけど」


 挑発的な絶冬華の視線に、丈晴は腹が立った。彼女のせいで、今日一日面倒ごとが続いている気がする。


 言葉を失う丈晴に、絶冬華は言った。


「もっとも、噂になるのが迷惑な気持ちも理解できる。だって丈晴くんは近藤さんに告白したばかりなんだもの。私と噂が立つのは迷惑だわ。でもあれ? でもおかしいわね。丈晴くんは世の中を思い通りにできる人だから、あえて距離を置いたってことなのかしら」


 白々しく顎に指を当て虚空を見つめる絶冬華は、その所作さえ作りものじみており丈晴は気に食わない。というよりも、わざわざ立ち止まってしまったがよく知りもしない隣のクラスの誰かと会話する無駄をする必要さえそもそもなかったことを思い出す。


「用は無いみたいだね」

「いいえ。朝のお礼が言いたかったの。助けてくれて、ありがとう」


 言葉の真意が見えず、再び丈晴は当惑した。


「お気になさらず」


 雨が強くなってきた。その雨音に負けないはっきりとした声で、絶冬華は言った。


「あと、ひとつ忠告が」

「……信頼できない相手からの忠告はどう扱うべきだろう」


「人の気持ちを裏切ったら、刺されることを覚悟しなきゃいけない」

「彩が僕を刺すとでも? 冗談」


「さぁ」


 もやもやがより深まった。

 丈晴は絶冬華に背を向け、離れた。傘はない。コンビニで傘でも買おうか。


 バチバチと、雨脚はどんどん強くなっていった。

 彩は、この雨を避けられただろうか。



 コンビニで買った傘を差し、駅に向かって歩く途中の公園に、先ほど別れたばかりの少女を見つけた。


 彩だ。

 どうしてそこに?


 丈晴が視線を向けると、彼女の視線も返ってきた。

 滑り台しか遊具のない、小さな公園。

 そこに、びしょ濡れになった車椅子の少女。


 少し近づいて、声をかけた。


「彩……?」

「丈晴……もうすれ違っちゃったかもしれないと思ったの」


 彩は車椅子を操作して、丈晴の近くまできた。

 別れた時とは打って変わって元気な笑顔だ。


 しかし傘は持っていなかったようで、びしょびしょだ。だから、それは涙じゃない。なのに、どうして泣き顔に見えるのだろう。


 丈晴は、彼女を知りたい欲求に駆られた。

 他人を思いのままに扱うことができる。

 気持ちを読み取ることもできれば、意識を乗っ取り体を思い通りに扱うことも。

 

 しかし、それをやられたら、どうだろう?


 殴れば、殴られた相手は痛いだろう。

 刺されれば、刺された相手は痛いだろう。


 もし自分が。

 もし自分が、気持ちを読み取られれば。

 もし自分が、意識を乗っ取られれば。

 ひどく気持ち悪い思いを抱くのは分かっている。


 だから、能力は簡単に使うつもりはない。


「さっきは急に出てっちゃってごめんね」


 彼女はスマホを取り出して、電子マネーアプリの画面を差し出す。


「お金、払わなきゃと」

「いいよ別に。おごるさ」


「いえいえ、気がすまないので」

「本当にいいから」


「じゃあさ、こうしよう。今度どこかにいったら、あたしのおごりね!」

「……ああ、そうしよう」


 彩の眦から、涙が流れた気がした。でもそれは、きっと気のせいだ。頬を伝っているのは雨で、彼女に泣く理由なんか無い。


 彩は、丈晴に目を合わせずに何か言おうとしては口をつぐむ。

 何を言おうとしているのだろう。


 ――人の気持ちを裏切ったら、刺されることを覚悟しなきゃいけない


 丈晴は、彩の気持ちを裏切りたくはない。

 能力を使いたいという欲望に駆られる。別に、悪さをしたいわけじゃない。

 ただ、その意味を知りたいだけ。


 もし傷ついているとするなら、塞いであげたいだけだ。


 黒く濁るその綿菓子。

 それに、少しくらい触れてみたって、別に悪いことはないだろう。

 そう思った。


 瞬間だった。


 どこからともなく、ナイフが公園に投げ込まれた。それは放物線を描いて彩に届かんとしていた。


 丈晴は何もしていない。ふっと、彼女の綿菓子が揺れた。丈晴は何もしていない。

 彩は手を伸ばし、空中のナイフをパシリと掴んだ。

 

 丈晴は何もしていない。


 彩は掴み取ったナイフをすぐさま丈晴へ向かって突き出した。

 腹部に感じる鋭い痛みに、思考がパニックになりかける。

 混乱と動揺。吹き上がる生への執着。


 彩はしっかりナイフが刺さったのを確認し、少し離れて、いつもの彩とはまったく違う抑揚で言った。


「悪いな、恨みがあるわけじゃないんだが」

 

 丈晴は膝から崩れ、倒れる。


「……え?」


 彩は手に持っていたナイフを覗き込む。そして、今度は丈晴を見下ろした。徐々に呼吸が上がり、彼女自身の呼吸も上がり始めた。


「何これ」


 混乱する二人の元へ、妙に落ち着いた男がやってきた。混乱で固まる彩と、地面で動けなくなる丈晴。

 覗き込む男を睨み返す気力さえ、丈晴には残っていない。


「あっけないもんだな。これが『七瓶』とは笑わせる」


 なんだよ『七瓶』って。しかし、だめだ。丈晴の意識は霞がかり、頭がはっきり回らない。

 なんだよこれ、死ぬのか?


 ――丈晴くんは世の中を思い通りにできる人だから


 死の間際、走馬灯の代わりに意識を塗りつぶす憎たらしい声音。

 瀕死の赤い綿菓子。

 自らを纏う、絶体絶命のオーラ。


 それに触れ、暴く。


 全身に駆け巡る電流は言語へと形を変え、丈晴はこの上ないほど自分自身を理解した。


 丈晴の目の前に浮かぶのは、男の驚愕の顔。真新しいスーツがリクルート学生のような男は、恐怖に震えながら丈晴を見ていた。


「なぜ、平然と立っている?」


 平然?

 なるほどそう見えるのか。


 丈晴は自身の手をグーパーと動かした。


「痛みの神経を切ってみたんだ。あんたを逃してはいけない気がして」


 この男は、丈晴と同じ。

 彩を操って、丈晴を殺そうとした。彩はどうした? この男を、野に放ってはならない。

 そういうことか。

 自分はこの男と同じだけ『天災』なのだ。


 しかし男の動揺ははっきりと見て取れる。息はどんどん上がり、目が血走っていた。男が言った。


「まさか……『変』まで到達していたとは。でも関係ねぇ」


 男の綿菓子も真っ赤に染まっている。

 考えることは同じ。お互いが手を伸ばし、お互いの綿菓子に触れる。大流は一気に混じり合い、ただし丈晴のそれは明らかにより多く吸われた。


 なぜか。

 丈晴は自分を暴いていた。

 その状態は、男からしても暴かれる準備ができていることを意味した。

 自分の脳が、神経が、構造が、どんどん男の方へと流れ込むのが解った。


 意識の中で、男が丈晴に手を伸ばそうとした瞬間、電流のようにすべてが男に伝わった。


 転瞬、解き放たれた。

 綿菓子は一瞬にして分離し、丈晴の焦点が現実に合う。少なくとも男に乗っ取られることは避けられたようだった。

 

 目の前で男は、痺れるように震えていた。


「許容量を超えたみたいだね」


 凛とした声。

 振り返る。

 そこには絶冬華が立っている。


「……何が、起きてる」

「もう喋らなくていい。あなたも、限界でしょ」


 こうなることを、絶冬華は知っていたのか?

 怒りや恐れ、訳のわからない感情に覆われ、そしていい加減自分を暴き続けることも難しくなった。


 でも、まだだ。


 知らなければ。


 おまえは、何を知ってるんだ。


 気力を振り絞り、丈晴は絶冬華に対して手を伸ばした。


 ずっと感じていた違和感。

 まるでその場に浮いたように見える絶冬華。

 光り輝くような絶冬華。

 丈晴はその時に初めて気がついた。


 絶冬華は、いっさい綿菓子を纏っていない。


「大丈夫。近藤さんのことも心配しなくていい」


 一瞬の芯痛と、包まれる快楽。

 丈晴は気を失った。


 ◆


 月魄絶冬華は、平家丈晴が自らを暴き、操った様を見て思った。


 ーー見つけた

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