第2話 勘違い

「ほら、幽霊ゲームが始まるよ」


 それは丈晴が小学校低学年のときに、母親がよく発した言葉だった。

 ゲームと言いつつ、それを言うときの母の顔色は大抵幽霊のように真っ青だった。

 幽霊ゲームのルールは簡単で、始まったら押入れに隠れるというものだ。そして誰もいないかのように息を殺す。


 どんどんどん、とアパートのドアが叩かれる。呼び鈴があるのにどういうわけかそれは使われず、野太い声で「いるんでしょ? 平家さん。出てきて金を返してくださいよ。ご近所さんに迷惑だろーが!」と、近所に迷惑をかけるための声が響くのだった。


「さて勝負どころよ丈晴。うまく幽霊になりきれば、魔族は消えてしまうからね」


 押入れの中で、丈晴の耳元で母親は言った。言葉はコミカルだが、かすれるような、震える声だ。


 父の事業の失敗と蒸発。それにより連日押しかける借金取り。母はそれを恐れているのは明らかで、ただし丈晴の恐怖を少しでも和らげようとそんなことを言うのだった。

 母がそれを恐れているのは明らかーーというのは『丈晴が何となくそう感じた』という意味ではない。


 見えるのだ。


 恐れはまるで、青い綿菓子が漂うように母の周囲に浮かんでいた。青は、恐れの色だと知っていた。丈晴が手をのばすと、その綿菓子はかすかに指先に絡みついた。感情はその人を包み込むオーラと成って、丈晴はそれを見て、触れる事ができた。


 それは丈晴にとって、息をするも同じ。


 当たり前すぎて、今更特に深く考えることもない。ただし、それを喧伝しない程度には丈晴は頭が回った。以前その綿菓子について母に話したとき、怪訝な表情で見られて以来、別に言うほどのものでもないかなと心に仕舞ったのだ。


 後に調べたことにより、自身のこの能力は『共感覚』の一種なのかな、と丈晴は思い至る。共感覚とは、例えば文字に色がついて見えたり、特定の音を聞くと同時に匂いを感じたり、何かを知覚する際に一見関係の無い五感が反応してしまう現象だ。だから自分は、その人物の感情を敏感に察知して、それが色のついた綿菓子に変わり、あまつさえ触らせてしまうのだろうと想像した。


 見えるし、触れることができる。そこまでは一応理由が付けられる。しかし、その『先』に関して言えば、未だに丈晴自身理解できない部分がある。


 丈晴が手を伸ばすと、朗らかな表情をした母の綿菓子が指先に絡みついた。

 それは溶けるように丈晴の指先から浸透し、様々な情報が丈晴の中に染み入った。そう、情報。その綿菓子は丈晴の中に入り込むことでもっと無機質な記号の羅列へと変わる。


 それは、知っている表現で言い換えるならば『言葉』だ。ただし、自分の知らない言葉。英語でも中国語でもなければ象形文字でもない。


 ただし丈晴は生きている中で、その羅列の法則性を導き出し、その頃にはほとんどそれを解釈できるまでになっていた。だからこそ、青い綿菓子は不安だと丈晴は知っているし、その感情の、あるいは脳機能の繊維を介して母の脳の構造さえも理解していた。


 なぜそれに触れただけで、脳の構造さえ理解できるのか。それは映像を見ること、音を聞くこと、匂いを感じることと同様に、説明できないファンタジーだ。


「今日の魔物はしつこそうね」


 知っているよ母さん。

 そうやって僕に笑いかければ笑いかけるほど、本当は不安なんだよね。オキシトシンによる正義感がそうさせるけど、本当は押しつぶされそうなんだよね。僕は知っているよ、そうやって強がれば強がるほど母さんがすり減っていること。


 繊維を通じて、自分の脳から母の脳までのすべてが分かる。だから、繊維を通じて、言語で『影響できるはずだ』。触れることのできる繊維と、通じる導線。影響できる。その感触はあったのだが、試したことがあったわけではない。仮説に過ぎない想像は、道徳的に避けた方がいい気がしたから、今まで実行してはこなかった。


 それでも。


 次の瞬間、丈晴は母の制御を奪った。


「大丈夫だよ。母さん」


 母の口から言われないであろう言葉。口を動かしたのは母であっても、そうさせたのは丈晴だ。


 ――できた。


 齢八歳にして、丈晴は自分の能力その先を知る。


 ついで制御を解くと、母が一瞬ふわりと力が抜けたようによろけた。


「ん、あれ?」


「母さん、いま、なにか感じた?」


「え……、えっと、何かしら……」


 丈晴は胸の高鳴りを感じた。


 ――母を乗っ取ることができた!


「おい、いるんだろ。出てこいや泥棒が」


 ばきり、と鳴ったのは何が壊れたのだろう。


 丈晴は、母の耳元で「言ってくるね」と囁き、母は「……え、どこに?」と首を傾いだ。彼は押し入れから抜け出して、玄関を開けた。


 二人の男がいた。


 ガリとデブ。ガリが「何だ糞ガキ」と威嚇し、後ろではデブが控えていた。


 デブの方が圧倒的に体格がいいが、しかし彼からは青い綿菓子が漂っている。丈晴は、それに触れた。


「おい、親がいるはずだよなぁ。呼んでこい」


 伝わってくるデブの漠然とした不安。少しずつわかる思考回路。その解像度を上げるためには、それをかき回す必要がある。


 丈晴は手前で威嚇するガリを無視して、デブを見据えていった。


「ねぇ、どうしてこんなガリに怯えているの?」


 瞬間、腹部に鈍痛。「ぐぎゃ」と声を上げてしまったあとで、それはガリに蹴られたのだと分かった。そして「丈晴!」と後ろから母の声が聞こえた。


「なんだ、いるじゃねぇか。おいこんなかわいいガキを寄越して、クソ親だなぁ」


「やめて、何でもするから、丈晴には手を出さないで!」


 痛みに悶ながらも、丈晴はデブの思考、脳の構造を理解し始めていた。


「ほら、平家さん。これにサインすりゃすぐ帰るんだから、さっさとサインしてさ」


 それがいわゆる風俗で働いて借金を返す誓約書だと、丈晴は母の綿菓子を介して知っている。母がそれを受け取ろうとするタイミングで、丈晴は更に一言加える。


「えらい人の息子だからってさ、こんなやつに怯える必要ないだろ。ぼこぼこにしちゃえよ」


 大人たちの動きが止まった。


「……おまえ、なんで俺のことを知ってる?」


 ガリが疑問を浮かべた瞬間、デブがガリを引き倒して馬乗りになった。とっさのことに反応できなかったガリは驚いた表情を浮かべてなすすべなくデブに殴られた。


 ガリは口を切って血を吐き、デブに言った。


「おい、何だよ」


 不思議だよなぁ。わかるよ。なんでこんなことが起こったかわからないよな。

 まさかデブの中身が丈晴だなんて、ガリが思い至るはずはない。

 すでにガリの言葉には力がなかった。構わず殴り続けると、いつの間にかガリは目をうつろにして言葉を喋らなくなった。


 ああ、終わった。

 その様子を、恐怖に絶句した母が震えながら見ていた。


 デブはガリを担ぎ上げて走り去った。そして、近くの駅のホームからガリを突き落とした。

 そこで、丈晴はデブから自身の体に意識を戻した。



「丈晴……丈晴!」


 徐々に焦点が合い、涙を流した母の表情がそこに映った。真っ赤に泣きはらし、声をからしている母の姿は弱々しい。どうやら丈晴は母の膝に頭を乗せて寝ていたようだ。体を起こし、少し伸びをし、そして手をグーパーと動かす。


 やった。


 たびたびこの家に訪れる脅威を、丈晴の手で排除したのだ。


「母さん」


 興奮を覚えながらつぶやいた丈晴の両頬を、母は冷たい手で包み込んだ。


 丈晴が何をしたかは、母は知らないはずだ。デブとガリが家から出たあと何をしたかは丈晴のみが知っていて、その間丈晴自身の体はこの家で人形のように力を失っていた……と思う。そんな丈晴の体を母は心配していたに違いない。


 それでも、丈晴は思っていた。


 ひょっとしたら、褒められるんじゃないか。この家の危機を救った自分はヒーローなんじゃないか。まだ一桁の年齢の幼い彼は、知らず知らずのうちに湛えた自信を胸に母を見つめた。


 そんな丈晴に、母は言った。


「酷いことをしちゃ駄目」


 丈晴は、固まった。母はより一層の青黒い綿菓子を漂わせて、丈晴を憐憫の目で見ていた。その青黒い綿菓子に手を伸ばせばそれなりのことは理解できたに違いない。でも、どういうわけかそれをする気が起きなかった。それをしたら、自分の核がボロボロと崩れ落ちそうな気がした。


 丈晴の温かい頬から彼女の手に徐々に熱が伝わる。そして、今度は丈晴を強く抱きしめ、そして彼女は言ったのだ。


「丈晴は優しい子なんだから、悪いことをしては駄目」


 悪いこと?


 何が?


 日々やってくる悪人に対処することが、どうして悪いことなのか。なんで僕が責められなきゃいけないの? 母さんは被害者なの? そもそもその原因は、あなたたちにあるのに。抱きつきながら、おいおいと泣く母に対して、小さな丈晴は白け、そしてかけるべき言葉を失った。自分と母の間に、埋められない距離を感じた。


 その日以降、男たちがどうなったかや、家の借金がどうなったかなどはわからない。それでも、今までよりもずっと平和な毎日になったのは確かだ。


 ただし、丈晴はまるで自分が別の生き物になったような感覚に陥り。

 その孤独は。

 徐々に全能感へと変わっていくのであった。

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