第8話 傷のあと

■ハルディラント・メイ・アトフラスト・エス・イスキュリア(19)


 午餐の席で正面に座ったシイレインの姿に、ハルディラントは目をみはる。

 頬に一筋傷が走っている。血は出ていないが、ついさきほど負ったばかりの怪我のようだった。なにそれお前どうしたの、といつもの調子で問おうとして、周囲に家族がいることを思い出し、一旦飲み込む。家族の前なら砕けた口調のままでもいいような気もするけれど。


「シイレイン卿、お顔のお怪我はどうなさったの?」


 シイレインの隣に座るルイルーディアが先に訊いた。シイレインは微笑むと、お見苦しいものをお見せして申し訳ありません、と謝罪した。


「午前中、エイナン卿に手合わせをしていただいたら、この有様です。未熟を痛感いたします」


 エイナン卿って誰だっけ、とハルディラントは眉を寄せる。そういえば、今回の旅で国境まで迎えに来てくれた騎士のうちの一人がそんな名前だったか。

 なにそれ、と思う。旅の最中、シイレインと騎士たちの間に特に交流があったようには見えなかったが、手合わせなんてやったのか。


「エイナン卿は後進の指導に熱心な御仁だからな。新しくお若い方が来られて、腕を試してみたくて仕方がなかったのだろう」


 父王が納得したように頷く。父が騎士一人ひとりを把握しているのは分かる。自分の配下だ。それでも、自分だけその人物を知らない疎外感のようなものを、ハルディラントはわずかに感じた。


「合格点をいただけましたかどうか」


 そう言ってシイレインは首を振る。なんだよそれ、とハルディラントはまた思う。顔に傷なんてつけられて、なんで受け入れているのか。なんでシイのほうが相手の評価を気にしている?


「昨日到着したばかりだというのに、騎士の方々は活動的ね」


 エレーナが少し呆れたような口調で言う。シイレインは控えめに微笑んだ。


「我々はいかなるときでも、すぐに動けるようにしておかないとなりませんから」


 我々。シイレインの言うのはエレーナの「騎士の方々」という言葉に反応してのことだろう。特別な紐帯を指しているわけではない。別に文脈でそれは分かる。分かるけれど。


「痛そう……」


 ルイルーディアが小声で呟くように言う。


「ご心配ありがとうございます。大丈夫ですよ」


 シイレインのほうが幼い妹をなだめるように返事をする。そこはルイルーディアに同意だった。痛そうに見える。それなのにシイレインの所作はいたって普通で、おそらく皆の前では取り繕って我慢しているのだろう。


 なにも言わないハルディラントが気になったのか、シイレインが視線を向けてくる。そしてほんのわずか、困ったような表情を見せた。それを見て、自分がひどい顔をしているのをハルディラントは自覚する。


 供された鶏の煮込みも鱈の揚げ焼きも、今日はなぜか味がしなかった。


 午餐が終わり、では二人はあとで私の執務室においで、と父王が言い残して広間から退出する。午後は父とシイレインとで今後のことについて話す予定だった。他に用事はないので、すぐに行ってもいいのだが。

 やはり退出しようとするシイレインの腕を掴む。ちょっと来て、と引いて歩き出せば、シイレインはなにも訊かずについてきた。

 どうするか、自分の部屋でもシイレインの客室でもいいが、広間からは距離がある。廊下を少し歩くと、扉を開け放したままの、納戸のような小部屋があった。樽がいくつか並び、豆の詰まった麻袋や吊るされた大蒜が目に入る。食材を一時保管する部屋だろうか。それなら晩餐の支度が始まるまで人は来ないだろう。シイレインの腕を引き、室内へ踏み入れる。中は天窓が一つだけで薄暗かったが、ちょうど光の差す位置に木箱がある、その上に座らせる。


 見下ろせば、シイレインは困った表情のまま、見上げてくる。ハルディラントの言葉を待っているようだった。


「痛いんだろ、それ。お前ずっと取り繕ってたけど、笑うのも飯食うのも痛いよな」


「すぐに治ります」


「いいからちょっと見せて」


 触れないようにして傷を確認する。耳も切れてる、と気がついて言えば、はい、と返ってくる。二か所か。


「他に怪我はない?」


「ありません。あの、本当に大丈夫ですから……」


「じっとしてて」


 シイレインの両肩に手を置いて、有無を言わさず黙らせると、魔法の詠唱を始める。シイレインが怪訝な顔をする。怪我を治癒するような魔法はない。それは僧の領分であるし、ハルディラントが僧に学んだことはない。それでもシイレインは言われるまま静かに座っている。気のすむようにさせよう、と思ったのかもしれない。

 詠唱を続ける。本来なら綴字や陣を用意したほうがいい、複雑な魔法だった。だが時間をかければ詠唱だけでできないことはない。両手の下でシイレインが身じろぎをする。なんの魔法だか推測できず、落ち着かないのだろう。

 最後の一節を唱え終え、シイレインの肩から手を離す。


「いくよ。多分ちょっと痛い。我慢して」


 そう宣告すると、ハルディラントはシイレインの怪我の傍で指を鳴らす。


「……っ」


 やはり痛かったのだろう、シイレインが喉の奥で声を漏らし、顔をしかめる。だが痛みもすぐ治まったはずだった。頬と耳の傷はきれいに消えていた。

 シイレインが自分の頬をさすり、耳に触れた。そして驚くというより、不審そうな顔をしてみせた。


「なにやったんですか、あなた」


「〈時間退行〉」


「……は? あんな複雑な魔法、詠唱だけで……?」


「別に半日程度戻しただけだし」


「それにしたって……。それにこんな程度の怪我で気軽に使う魔法じゃないでしょう。魔力消費だって大きいでしょうし」


「お前の怪我を治すことより優先しなきゃいけないことなんてない」


 そう言い切れば、シイレインはまだ納得いかない様子だったが、小さく息をつき、ありがとうございます、と礼を言った。こんなことで言い合いをするつもりはない、という意思表示だろう。シイレインが怪我をするのはこれが初めてではないし、放っておけばいずれ治る傷に、ハルディラントがここまでむきになることが理解できないようだった。


 不意に泣きたくなるような疲労感を覚える。独りで空回りして動揺している。分かっている、昨夜あんな夢を見て寝不足で、心が弱っている自覚はあって、そこでシイレインに当たってはいけないのは分かっているけれど。

 その場にしゃがみ込んで膝に顔を埋める。ハル? とシイレインの戸惑った声が聞こえる。


「……嫌なんだよ。おれの知らないところで、お前が顔に傷なんてつけられてるの。そのうち治るかもしれないけど、痕が残るかもしれないだろ。そんなの絶対嫌だ」


 よく知らない人に怪我させられて、シイレインはそれを受け入れていて、あまつさえ痕がずっと残るなんて。考えるだけで苦しくなる。

 騎士が負傷するたびに動揺していては身が持たない、とは思ったけれど、これはそういうのじゃない。

 嫉妬と独占欲だ。

 シイレインに他人の手垢がつくのが嫌なだけだ。


 シイレインが木箱から立ち上がり、しゃがんでいるハルディラントの腕に手を添えた。木箱に並んで座るよう促される。


「治してくれてありがとうございます、ハル」


 そっと背中をさすってくれる。そして、そのまま横から抱きしめられる。


「聞いてください」


 耳許で優しい声で、シイレインは語り始めた。


「エイナン卿には話の流れで、殿下をお護りするために来た、と言いました。そうしたら手合わせを要請されました。私にあなたを護る資格があるかどうか値踏みされたんです。断れませんでした。……あなたが治してくれましたが、あの傷は、あなたを護る資格を得るためにつけた傷です。私がつけたんです」


 抱きしめられる腕の力が強くなる。


「今後、私が怪我を負う機会は何度もあると思います。それは全て、あなたを護るために負う怪我です。私はそれを誇りに思います。……だから、あなたにも誇りに思ってほしい」


 ハルディラントは言葉で応える代わりに、身じろぎをした。強く抱きしめられている腕の下から自分の腕を伸ばして、シイレインを抱きしめ返した。

 温かさに自分の中の嫉妬心が氷解していくのが分かる。こんなにも、自分のことを大切だと、言葉と全身で伝えてくれている。シイレインが好きだ、前世の二人なんて知ったことじゃない、自分が、おれが、シイレインを好きだ。


「……シイ」


 呼びかけて腕の力を抜くと、シイレインもやはり腕をほどいてハルディラントの顔を見つめてくる。昨日もこんな風に見つめ合った。きれいな紫の瞳は、昨日は少し不安と遠慮の色を帯びていたけれど、今日はただ、自分の返事を待つだけの切なげな表情をしていた。


「お前が怪我したら、おれが治してやる。おれのために怪我をしたのなら、おれが責任持って全部治してやる。……でも、できたら顔はやめてくれよ。心臓に悪いし」


 さきほどまで傷のあったシイレインの頬に指で触れ、そして、唇で触れる。


「好きだよ、シイ」


 頬の傍でささやくように告げ、顔を傾けて、唇を重ねた。

 触れただけですぐに離れようとすると、シイレインから追いかけるように再度重ねてくる。舌を絡める、口づけが深まる。気持ちいい。多幸感で胸がいっぱいになり、ハルディラントは両腕をシイレインの首に絡めた。シイレインはまた腰に腕を回して抱きしめてくる。息継ぎの合間に、私も好きです、と律儀に返してくる。うん、知ってる。


 背中をなでるシイレインの手が心地いい。ずっとこうしていたいけれど、こっそり入り込んだ今のこの部屋が気になって、だんだん我に返ってくる。人が来たらどうしよう。

 口づけを終わりにしようとすると、シイレインが、もっと、と甘えるような声を出した。ハルディラントはぞくりと興奮する。ずるいだろ。


「人が来るから……」


 そう言えば、ようやくシイレインは諦めたようだった。名残惜しそうに強く抱きしめられる。


「……今夜、部屋に伺ってもいいですか」


 耳許でささやかれる。

 昨夜、自分からシイレインの部屋へ行こうとしていたことを思い出す。二人で夜を過ごせたら、きっと幸せだろうとは思うのだけれど。


「やめとこう」


 断れば、シイレインの肩がびくりと震えた。


「だって、今その約束してさ、……お前このあと父上の顔まともに見られる? 部屋に行って話す約束してるんだよ、お前忘れてるかもしれないけど。正直おれは無理だけど」


 少しの間のあと、シイレインはうなだれるようにハルディラントの肩に顔を埋めた。


「……そうでした……」



■シイレイン・トラン(18)


 今の段階で既に、国王の顔をまともに見られる気がしなかった。

 昨日の今日で応えてもらえるとは思っていなかった。待つ覚悟はできていたのに。

 頭を冷やす時間がほしかったが、勝手に入り込んだこの部屋に長居しているわけにもいかない。扉の外を確認する。廊下には見える範囲で誰もいない。ハルディラントを手招きして、そっと部屋から出る。入ったとき扉は開いたままだったから、やはり開けておいたほうがいいのだろう。


「一旦部屋へ戻りますか?」


 ハルディラントに訊くと、少し考えた様子を見せたあと、首を振った。


「戻って時間経ったら、ますます気持ち的に行きづらくなりそうだし。もうこのまま父上の部屋に行こう」


 今いるのは二階、国王の執務室は最上階の六階にある。離れているとはいえ、同じ建物の中であるし、向かえばいくらもせずに着く。それまでに気持ちを切り替えねば。


「……もう落ち着いているんですか、あなた」


 いたって普通の様子で先を歩き始めたハルディラントに、つい問いかけてしまう。


「……そんなわけないだろ」


 振り返らないまま、ハルディラントはそう返事をする。よく見れば耳や首筋が赤い。

 つられて自分も頬が紅潮するのが分かる。これでは余計に意識してしまう。


「父上の部屋では、多分おれ、お前のこと見ないから。意識しちゃって見られないから。悪く思わないでほしい」


「それは……、はい」


 昨日、意識して挙動不審になったりするな、と言っていたのは誰だったのか。

 ハルディラントがここまで動揺していると、逆に自分のほうが冷静に振る舞えるかもしれない。


「行こう、早く済ませよう」


 はい、と返事して、やはり振り返らないまま先を行くハルディラントについていく。


 長い廊下を歩く。端まで見通すように視線をやり、シイレインはふと違和感を覚える。

 違和感、というより既視感だった。長いまっすぐな廊下。こうしてハルディラントの後ろを歩いていく。オーダリア王の居館でこんなことがあっただろうか、と思ったが、あちらはここのような長い廊下はなかった。

 長い廊下。白く、明るく、天井が高く、先を歩くハルディラントは見たことのない妙な形の服を着ている。


――あんまり早く行っても、また雑用押しつけられるだけだろ。カフェテリアで時間つぶしてから行こうよ。


 情景とともに声が思い出される。なんの話だろう。第一王子のハルディラントに雑用を押しつけるような人間はいない。


「シイ?」


 現実のハルディラントの声に我に返る。足を止めてしまっていたようだった。ハルディラントが振り返って怪訝そうな顔をしていた。


「……すみません、なんでもありません」


 不意に湧いたよく分からない記憶は、現実の光景にかき消されて形を成さなくなっていった。

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