第7話 逡巡と立ち位置

■ハルディラント・メイ・アトフラスト・エス・イスキュリア(19)


 寝台の上に上半身を起こしたまま、ハルディラントは長いこと動けなかった。


 「前世」の夢を見たあとはいつもこうだった。現実感が、「こちら」が現実だという実感が戻ってくるまで時間がかかる。深呼吸し、両手を握りしめる。


「……きっついなぁ……」


 声に出して呻く。

 死ぬ間際の時期を夢に見たのは久しぶりだった。起きている間に記憶が蘇ることのほうが多いが、その場合、直視したくないと思えば意識を逸らすことができる。だが夢に見てしまうと、目覚めるまでずっと、ハロルドの人生と向き合わなければならない。


 おとなしく死んでてくれよ、と思う。お前の人生は終わったんだよハロルド。今のこれはおれの人生だ。しゃしゃり出てくるな。


 寝汗がひどい。暖炉の火ももう熾になっているのだろう、室内は寒かった。すぐに寝直す気にはならなかったが、身体が冷えてくるのに耐えられなくなって、ハルディラントは寝台から滑り降りた。掛布を取って肩から羽織り、天蓋の薄布をくぐる。


 居館の中はひっそりと静まり返っている。まだ深夜だろうか。それでも室内がうっすらと明るいのは、鎧戸の隙間から光が差し込んで、床に縞模様を描いているからだった。窓に歩み寄ってそっと押し開く。満月を少し過ぎた月が、水平線から昇ったばかりだった。居館は丘の上にあり、遮るものもなくまっすぐに光が差していた。


 深夜の黒い海面が、月明かりで輝いている。

 ハロルドがあれだけ見たがっていた海。

 違う。ハロルドは海なんてどうでもよかった。見るならシイヅカと一緒に見たかったのだし、シイヅカと一緒にいたかっただけだった。


 掛布を身体に巻きつけたまま、窓の縁に腰かける。


 今、無性にシイレインに会いたくてたまらなかった。あの温かい手が恋しかった。部屋を抜け出して、彼の部屋の扉を叩いたらどうなるだろう。きっと困惑しながらも優しく招き入れてくれるだろう。――そこまで具体的に考えて、ハルディラントは首を振る。片膝を抱え、顔を埋める。


 シイレインに前世の記憶はない。現世の、十八年――もうまもなく十九年の人生の結果として、自分の傍にいたい、触れたい、と求めてくれている。それはとても嬉しいし、自分もシイレインのことは好きだし、応えたいと思う。


 でも。

 自分のこの感情は、どこまで自分のものなのだろう。


 ハロルドはシイヅカが好きだった。二人同時に疫病に感染する事態を避けるため、死ぬ何十日か前から別行動を取っていたが、ハロルドはそれをずっと後悔していた。会いたくて恋しくてそれでも二度と会えないまま絶望して死んでいった。

 シイレインの前世はシイヅカだ。本人の記憶があろうとなかろうと、魂が同一だと、ハロルドの記憶を通してそう感じている。そしてハロルドがシイヅカを恋い焦がれる想いを、自分は物心がついたころからずっと浴び続けてきた。


 今現在のシイレインに会いたいこの欲求だって、直前に見ていた夢に確実に影響を受けている。

 自分だけの感情は、どこにある? シイレインのことをどう思っている?

 いまさらどこまでが自分の感情、ここからはハロルドの感情、だなんて切り分けられるものではないことは分かっている。

 でも、ここを曖昧にしたまま、シイレインの想いに応えてしまうのは、ひどく不誠実なのでは、と思ってしまうのだ。



■シイレイン・トラン(18)


 明けて次の日は、午後にハルディラントと共に国王と懇談する以外、予定は入っていなかった。襲撃以降あまり眠れていなかったシイレインも、警備の依頼をして気が抜けたせいか、若干寝過ごしての目覚めだった。城詰めの騎士として大部屋に大勢で起居していたオーダリアのころとは異なり、イスキュリア国王の居館の客室はあまりに静かで快適で、今後また大部屋での生活に戻れるだろうか、と少し不安になった。


 陽が昇ってしばらく経ち、居館の使用人たちは忙しく立ち働いている時間だった。内部の構造を知っておきたいところだったが、勝手にうろついても失礼だし邪魔になるだろうか、と思い、シイレインは外へ出る。軽く周囲を見回して、敷地内の配置を確認する。昨日馬を預けた厩舎の向こうに、馬場や教練場があった気がする。そちらへ足を向ける。

 道の脇に寝そべってこちらを見ている黒犬を、なにとはなしに眺める。オーダリア王の居館もそうだったが、人が大勢で住んでいるせいか動物も多い。館の内外に犬や猫がこうして何匹もうろついているし、山羊や鶏の声も敷地のどこかから聞こえてくる。わずか十日ほどだが旅のあとだと、安全な場所なのだな、と実感する。


 あれからハルディラントと二人きりでは話していない。晩餐で顔を合わせたが、国王家族と同席であったため、あたりさわりのない話しかできなかった。

 他人のいる前では、普段どおり振る舞えるだろう。だが二人のときは自信がなかった。

 少し頭を冷やしたほうがいいかもしれない。


 厩舎の脇の道を進む。馬場の様子を確認して、可能であるようなら馬を外へ出してやりたい。馬の嘶きと人の声が聞こえてくる。

 木立が開け、広々とした場所に出る。右手に教練場、左へさらに進むと馬場が広がっていた。馬を駆る姿が何騎か見えるが、問題は、部外者の自分がその中に入っていっていいものかどうか、だった。ここの城詰めの騎士たちは今後同僚になる可能性が高いが、そうなる前にあまり悪い印象を持たれたくはない。


「シイレイン卿」


 名を呼ばれたのは教練場のほうからだった。振り返ると、低い柵の向こうでエイナンが片手を上げていた。おはようございます、と応じてそちらへ歩み寄る。


「暇そうだな」


 そう言われてシイレインは苦笑する。実際、午餐まで特別にやることはない。


「昨日言われた警備の件だがな」


「……はい」


 厩舎で相談した、警備の依頼のことだろう。エイナンは柵に腰かけるようにもたれ、声を低くする。一応、周りに聞かれないよう気を遣ってくれたようだった。


「警備担当に話してみた。そうしたら、既にその話は聞いている、と」


「聞いている?」


「我々が殿下と共にイスクに着く前に、早馬で連絡が来たそうだ。おそらくあの文官が報告したんだろう。陛下も把握しておられるそうだ。しばらく警備を強化するようご下命があったそうだが、ハルディラント殿下にはお疲れのところに緊張を強いないようお伝えしていない、ということだった」


「……なるほど。承知しました。骨を折っていただき感謝します」


 シイレインは小さく息をつく。ついてきただけのよそ者が心配せずとも、あのコーデルという文官がきちんと仕事をしてくれたようだった。


「殿下が心配か?」


 軽い口調で問われ、少し引っかかりを覚えたものの、はい、と素直に答える。


「殿下をお護りするために参りましたので」


 ふむ、とエイナンは応じ、顎に手をやり思案する様子を見せた。


「……シイレイン卿、暇なら一度手合わせ願おうか」


 そう言ってエイナンは顎で教練場の中へ入るよう促した。

 一瞬絶句したのち、シイレインは、承知しました、と応じる。頼み事を聞いてもらった以上、拒否はできない。エイナンの視線に値踏みするような圧はあるものの、悪意は感じなかった。よそからやってきた異分子が、自分の国の王子を「護る」と言っているのだ、腕試しの一つもしたくなるだろう。


 柵で囲われた教練場の空間には、二十人ほどの先客がいた。自分より年若い、従騎士、あるいは見習いのような子供の姿も見られる。一礼してエイナンのあとについていく。好奇の視線を感じる。


「得物は? 木剣ですか?」


「いや、愛剣をお持ちだろう」


 腰に佩いた剣を示される。平服のまま、真剣でやれ、ということか。まさか命までは取られないだろうが、流血の覚悟は必要そうだった。


 中央で立ち止まる。相対する。

 年齢からして、おそらく十五年近く経験差のある熟練者。


「三本でいいか。ああ、盾をお持ちでないな、急な話だったからな。――おい、貸してくれ」


 エイナンは手近な人物に声をかけ、円盾を借り受けてシイレインへよこした。ありがとうございます、と受け取って左手に構えてみる、違和感はない。エイナンも自分の物らしき盾を手に取った。

 一度深呼吸をする。剣を抜き、顔の前に立てて礼をする。お互いが突き出した剣先が触れ合う瞬間が、開始の合図だった。


 即座に打ち合いになる。金属音と火花、数合のうちにシイレインは力の違いを悟る。一撃一撃が重い、膂力が違うのだろう。背は自分のほうが高く、その分腕の長さもあるはず、少し距離を取った方がいい、そうは思うのだが。


「……くっ……!」


 思わず喉から声が漏れる。受けるのに手一杯で、自分の調子を取り戻せない。盾で受け押し返す、その隙に背後に飛び退って距離を、と思ったがすぐに間合いを詰められる。結局防戦一方になる。

 焦りで大振りになるのが自分で分かる。

 斬り下げてくる剣を横に打ち払う、腕を引き戻すのに一瞬遅れる、その隙を逃さずエイナンは顔に向けて突きを繰り出してくる。頭を振ってぎりぎりでかわす。


 切っ先が左頬と耳をかすめ、焼けるような痛みが走る。


 集中が途切れた。

 下から斬り上げてきた攻撃を受けそこね、剣が弾かれる。手から離れた剣は旋回音と共に宙を舞う。それが地面に落ちる前に、エイナンの剣の切っ先が喉に突きつけられ、そこで止まった。


 剣が音を立てて落ちる。

 ほとんどなにもできないままの一戦目だった。


「ああ、すまんな、当てるつもりはなかった。加減を間違えた」


 傷のことを言っているのだろう。エイナンは弾き飛ばしたシイレインの剣を拾い、差し出してきた。息を整えながら、頷いて受け取る。礼を言う余裕はなかった。手の甲で汗を拭い、頬と耳から滴る血も拭う。


 エイナンはシイレインの手応えのなさを疑問に思ったのか、怪訝そうな表情をしてみせた。


「シイレイン卿、魔法の心得は?」


「……多少は」


「だろうと思った。こう言ってはなんだが盾の扱いが下手だ。普段使っていないのだろう」


「……はい」


 言われた通り、防御には魔法の〈防盾〉を使っている。普通の盾を扱う訓練をしたことがないわけではなかったが、実戦を意識した戦いかたをするとき、盾は邪魔になるので持たない。


「遠慮して言い出せなかったか。次は自分のやり方で戦ってくれ。魔法も使ってくれてかまわんし申告もいらん。そら、その盾は必要ないなら返そう」


 そう言って出された手に、借りていた盾を返す。持ち主の手へ戻る際、ありがとうございました、と礼を言う。それで気づいたが、教練場にいる人々はみな訓練の手を止め、自分たちを遠巻きに囲っていた。完全に見世物になっている。


 二本目は一矢くらいは報いたいところだった。魔法を使っていいのなら、多少はましな展開に持っていけるだろう。空いた左手を振り、首を回して緊張を解く。その場で数度軽く跳ぶ。大きく息をつく。

 顔の前に剣を立て礼をしながら、魔法の構成を数種類、脳裡に構築する。

 次はいける。いつもどおり動ける。


 剣先同士が触れる、その瞬間〈加速〉を発動、打ち合う前に半歩下がって機をずらす。すぐさまこちらから斬りつける。盾で防がれ押し返される。押し負ける前に再度〈加速〉、飛び退って体勢を整える。周囲の見物人がざわめくのが耳に入る。


 シイレインは戦闘中に魔法の詠唱をほとんど行わない。脳内で構築し、即座に発動できる、単純で魔力消費の少ないものを細かく使う流儀だった。傍からは、突然動きが変わったようにしか見えないだろう。


 〈跳躍〉、前方に跳んで勢いをつける。斬りつける、打ち合いになる、腕の長さを生かして上段から大きく打ち下ろす。エイナンの表情が険しくなるのが分かった。間合いを詰められ鋭い突きが来る。〈防盾〉、切っ先が当たる箇所にだけ小さく展開し、弾かれて止まったところを剣で打ち払う。派手な金属音が響く。また飛び退って距離を取る。


 顎から滴ったのが、汗か血か分からない。かまわず袖口で拭う。

 剣先の向こうのエイナンを見据える。相手もまた、汗を拭い息を整えている。こちらを睨みつける。本気になったのが分かる。


 〈跳躍〉で間合いを詰め、下段から斬り上げる、打ち払われる、〈加速〉ですぐさま斬り返す、また打ち合いになる。盾で押されそうになり、横にかわして勢いを逃がす。

 相変わらず力は向こうのほうが強い。打ち合っていても体力を消耗するばかりだろう。


 〈加重〉〈加速〉、斬りつける剣に実際以上の重みを乗せる、その上で速さも加算、エイナンの防御に圧をかける。その上で。


 〈伝令〉。空いている左手で一度指を鳴らす。鳴らない。鳴ったはずの音は、エイナンの耳許で響く。動揺するのを見逃さず〈跳躍〉、そして〈加重〉〈加速〉重ねがけで突きを繰り出す。エイナンは一瞬反応が遅れる。盾で防がれる、だが勢いは削がれず、エイナンは体勢を崩して右腕を下に地面へ倒れ込む。


 剣の切っ先を喉へ突きつける。

 二本目は、獲った。


 見物人からどよめきと快哉、拍手が湧いた。息を整えながら一旦納剣する。倒れたエイナンに手を差し伸べ、立ち上がるのを手助けする。エイナンも納剣すると、困惑とも呆れともつかない微妙な顔をして首を振った。


「……なんだその戦いかたは。魔法なのか?」


「はい。詠唱は省略していますが、今回は魔法を使いました」


「〈防盾〉以外全く分からなかったな。魔法といえば、火球を飛ばしたり、剣に力を付与したりするもんだと思っていたが」


「そういう戦いかたもできますが、私の流儀ではありません」


 生意気を言う、と小さい声でつぶやいてエイナンは苦笑する。そして降参でもするかのように両手を上げた。


「三本のつもりだったが終わりにしよう。一勝一敗同士で痛み分けだ。付き合っていただいて感謝する」


 手を差し出され、握り返す。

 こちらこそ、とシイレインは応じる。実際、こちらにも利点はある。こうして見世物になったことで、「隣国から来たよく分からないよそ者」のままでいるより、イスキュリアの騎士となる日に受け入れてもらいやすくなっただろう。

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