第6話 薄氷とひとつまみの海

■シイレイン・トラン(18)


 冷えてきたわね、というエレーナの言葉で、庭での集まりは散会となった。

 客室へ戻ろうとすると、ハルディラントがついてきた。今度はどなたの挨拶に同行すればいいんですか、と苦笑交じりに問えば、首を振った。


「もうないよ。シイとちょっと話しておきたくて」


 そう言いながら戸口に立つ。先ほどルイルーディアに指摘されていた言葉遣いの件だろうか。今回は勝手に開けないのか、と少し可笑しく思いつつ、どうぞ、と扉を開いて室内へ招き入れる。


 風は冷たくなってきたが、晩餐にはまだ間がある、そんな時間だった。暖炉の熾火を起こして薪を足し、蝋燭に火を灯す。居館の使用人に言えばやってくれるし、そうするべきなのだろうが、わざわざ呼ぶのも逆に手間だった。ハルディラントと手分けして何本かの蝋燭を点けて回り、不便でない程度の明るさにする。


 一通り終えるとハルディラントは長椅子に座り、あーあ、と大きく伸びをした。その隣にシイレインも腰を下ろす。


「疲れましたか」


「まあね。お前も疲れただろ」


 オーダリアの都アドリーツァから十日、ようやく着いて慣れぬ場所で慣れぬ人たちと挨拶をして、確かに少し疲れは覚えていたが。

 シイレインは首を振る。


「無事到着できた安堵に比べれば、どうということはないです。あなたの帰国の手助けができてよかった」


「……送って終わりみたいな言い方するなよ。いてくれるんだろ、この先も」


「あなたの傍が私のいる場所です。前にも言ったでしょう」


 ハルディラントはしばらくシイレインの顔を見つめていたが、ふっと表情を緩めるように笑うと、ありがとう、と呟くように言った。


「実際、助かる。これからやんなきゃいけない色々なこと考えたら、独りで乗り切れる自信ないから。お前もこっち来て大変だと思うけど、おれがなんとかするから」


 そしてなにかを思い出したように、あー、と小声で呻いた。迷うような様子で顔をしかめ、前髪をかきあげる。


「……おれのこの言葉遣いだけどさ」


 やはりその件だったか、とシイレインは思う。


「気がついてるだろうけど、例の、……『前世』に引っ張られちゃってて。でもこんなのいまさら意味ないし、オーダリアでならともかく、こっちじゃまずい気がするんだよな。特別扱いというか、実際お前はおれにとっては特別なんだけど、周りにそういう風に見られるのは多分、お前にとっていいことじゃないから。人前では、他の人相手と同じようにしたほうがいいかも、と思って」


「私に対する気遣いは無用です。あなたがそれが必要だと思うならそうすればいい。……でも、わがままを言うなら、二人でいるときは今まで通りがいいです。あなたのその私的な言葉遣いが私だけに向けられるなら、嬉しい」


 ハルディラントは驚いた様子で目を見開いた。


「……お前、そういうこと言うんだ」


「不快でしたら謝ります。……でも、自分の気持ちは伝えるようにしようと思ったんです。あなたの言うように、オーダリアにいたころとは環境が変わりますから」


 将来王となるであろうハルディラントの「特別」になりたがる人は、これから無数に現れる。政略結婚であるにせよ、今後妃を娶ることにもなるのだろう。シイレイン自身はどんな状況であろうとハルディラントを護り支える決心でいるが、それとは別に、幼少時から心を通わせていた、特別な存在のままでありたい、という欲求、独占欲は、確かにある。


 強い感情を向けられることが苦手なハルディラントにはそうと悟られないよう、この先ずっと圧し殺して過ごすべきかとも思ったけれど。

 多分いずれ後悔する、そんな気がしたから。


 ハルディラントは目を伏せ、困ったようにかすかに笑うとしばらく黙った。どう返事をするか吟味しているように感じられた。

 蝋燭の光に睫毛の長い影が揺れる。


「……別に嫌じゃない。心配しないでいいよ。今後おれの周りがどうなろうと、おれとシイとの関係はなにも変わらない。おれも、二人きりのときは今まで通りしゃべりたい」


 今度はシイレインのほうが反応に迷う。なにも変わらない、今まで通り、考えて選んでくれた返事がそれなら、そのまま受け止めるべきなのだろうけれど。

 口にされた言葉より、表情の柔らかさに、嫌じゃない、と言ってくれた穏やかな声音に、それ以上の意味を読み取ってしまう。自分の願望が判断をおかしくさせているだけかもしれない、と躊躇はするけれど。それ以上に、お互いの身分や立場を考えたら、自分から行動を起こすべきではない、と理性が警鐘を鳴らしているけれど。


「……変えたらだめですか」


 結局、意を決して一歩踏み出す。

 手を伸ばし、ためらいながらもハルディラントの頬にそっと触れる。ずっと外にいたせいか、柔らかい肌はほんの少し冷たい。


 ハルディラントの眸が揺れ、次いでまっすぐこちらに向けられた。淡い緑の瞳がシイレインの真意を問うように見つめ、そして、一つ瞬きをした。


 そっか、とかろうじて聞こえるほどの小さな声でハルディラントは言う。やっぱりそうか。


 頬に触れている手のその甲が、ハルディラントのてのひらに包まれる。そのまま口許に運ばれる。視線を絡めたまま、ハルディラントはシイレインのてのひらに口づけをした。

 そして再び頬に戻され、目を閉じると自ら愛おしむように擦り寄せた。


 シイレインはされるまま息を呑む。


「ハル……」


 その呼びかけに、ハルディラントは薄目を開け、なぜか少し悲しげな表情を見せた。


「だめだ」


 拒絶の返事だった。けれど手は頬に押し当てられたままで、仕草と言葉の差異にシイレインは混乱する。


「多分、おれも同じ気持ちなんだ。だから嬉しい。でも今はだめだ、待ってほしい。……それまでは、今まで通りでいてほしい。頼む」


「……理由を訊いてもいいですか」


 自分から手を取ってくれたのに、今も離さずにいてくれるのに、なぜ。


「気持ちの整理ができていない。お前のせいじゃない、おれ自身の問題なんだ。……ごめん」


「謝らないでください。……待ちますから」


 踏み越えたのは自分のほうだ。

 変わらない、と言っているのに変えようとして負担をかけてしまっている。


「私の方こそ、すみません……」


「ほんとだよ、もう」


 シイレインのほうからも謝れば、ハルディラントは急に声色を変えて、わざとらしくぼやいてみせた。頬に当てていたシイレインの手を自分の目許に運び、表情を隠すように押し当てた。


「薄氷を踏むような真似しないでくれよ。明日からどうするんだよ、これ。ものすごく気まずいんだけど。頼むから変に意識して挙動不審になったりしないでくれよ」


「はい」


 そう言いながらもハルディラントは手を離さない。長い間同じ姿勢を強いられて、シイレインは少しつらくなってきた。


「言っておくけど、振ったわけじゃないから」


「……はい」


 拒絶の言葉には少なからず衝撃を受けたが、その前後の裏腹な行動を見れば、確かにそれは伝わった。

 自分が思っていたよりもずっと、恋愛感情に近い好意を持ってくれているのは分かった。今はそれで十分だった。あとはいくらでも待てる。


 ハルディラントは動かない。目許に押し当てられた自分の手で顔もよく見えない。なにかを考え込んでいて、その間シイレインの手を離したくない、そんな様子に感じられた。

 黙って耐えていると、ようやくハルディラントは自分の目許からシイレインの手を外した。


「……自分の部屋戻る」


 うつむいたまま、つぶやくように言った。ハルディラントはシイレインの手を離し、立ち上がる。こちらを見ようとはしない。眸が潤んでいるようにも見えたが、蝋燭の光の加減かもしれない。まっすぐ戸口へ向かい、扉を開いて出ていくまで、結局一度も振り返らなかった。


 独り取り残され、シイレインはうなだれて肺を空にするようなため息をつく。

 口づけされた手を握りしめる。顔が熱い。



■ハロルド・ブルーフィールド(22)


 大学、居心地よかったな。ハロルドは人気のない長い廊下を見やる。


 在籍していたころは清潔な状態を保たれていたが、現在は部屋の中から引きずり出された椅子や棚、よく分からない雑貨や大量の書類などが散らばって、まともに歩ける状態ではなかった。人気のない、というのも間違いかもしれない。物陰に遺体の一つや二つ転がっていても、これでは分からない。ひっそりと静まり返っていて、生きている誰かは見つけられそうになかったが。


 分子生物学の研究室のドアは閉ざされていた。開くには静脈認証の必要があるが、ドア脇のリーダは通電しておらず、試しに右手のてのひらを当ててもなにも起こらなかった。

 もっとも機能していたとしても、おそらく自分が触れた瞬間に壊れていただろう。自分の中に巣食っているナノマシンは、周囲の珪素分子を食い荒らすように取り込む。つまりはシリコンウエハの使われている半導体の類は真っ先に駄目になる。


 どうしようか、ドア壊すしかないかな、と少し考え、その必要はない、と思い直す。

 ここが閉まっているということは、自分たちが退去して以降、誰も入っていない、ということだ。ならば今更開ける必要はない。


「……今更、だよな」


 声に出して呟く。


 退去の際に大事な物の大半は持ち出していたが、調査に有用な物がまだ残っているかもしれない。だが、それを見つけても今更仕方がない。

 自分独りで、この身体で、なにができるというのか。


 ハロルドは首を振る。違う、独りではない。

 シイヅカがいる。


 シイヅカと共に在籍していたこの大学は、重度汚染地域に指定されて退去せざるを得なかった。健康な者は入ってこない。逆を言えば、今、来る者がいるとしたら感染者だけだ。もしシイヅカが感染していたら、自分との連絡手段を失い、調査の手段も限られている現在、一度は必ず訪れようとするだろう。そして、研究室へ来るだろう。

 ここにシイヅカが来た痕跡がない、ということは、まだ感染していない、ということだ。


 この世界のどこかで、シイヅカは未だ感染を免れて生きている。


 その事実だけで、じわりと胸が暖かくなる。右手を心臓の上に当て、ハロルドは祈る。

 どうか生き延びてくれ。一分一秒でも長く。このグレイ・グーを止める方法なんて、もうどうでもいいから、シイヅカ、お前だけが無事であってくれればそれでいい。


 雑然とした廊下を、ほんのわずか風が抜ける。どこかの窓ガラスが破損しているのだろう。かすかな潮の香り。地上からは見える距離ではなかったが、少し行けば海に行き当たる立地のはずだった。


「……見たいな、海」


 日本の海を見たい、砂浜を歩きたい、とシイヅカに言えば、どこの国でも一緒だろう、と呆れられた。それでもねだったら、海水浴の季節が終わって空いたら行こう、と約束してくれた。

 それきり、機会は来なかった。


 大学の敷地から出て海辺まで歩いていくのはさすがに無理だろうか。この身体では。

 自分の姿を見下ろす。スウェットに隠れて見えないが、右脚の膝から下、そして左腕の肩まで、珪化が進行している。右手はなぜか、かつて画面越しにシイヅカに見せた甲の一か所しか顕れていない。

 これはこのままでいてほしいな、とハロルドは思う。

 顔の判別がつかないくらい珪化しても、シイヅカがこれを憶えていてくれれば自分だと分かるだろう。


 ああそうか。


 自分の思考に得心が行く。

 おれはもう死ぬ気でいる。死んだあとのことを考えている。


 ハロルドは歩き出す。右脚を引きずりながら。

 先ほど地上から登ってきた階段へ戻る。方角もあいまいなまま海を目指して外を歩くのは大変そうだが、屋上へ上がれば見えるかもしれない。

 まともに使える右腕で手摺にしがみつきながら、一段一段、時間をかけて登っていく。

 分子生物学の研究室は三階だった。そこから屋上、と考えて少し気が遠くなる。この棟は何階建てだったか。十一階とか十二階とか、そのくらいだった気がする。

 右足を着く時に響く、ごつりという音が耳障りだった。もう靴も履けなくなって剥き出しのままだ。人の足音じゃない。そうか、もうおれは人じゃなくなりつつあるのか。


 ごつり。ごつり。


 顎から汗が滴って足許の段に落ちる。

 目に見えて変質している部分以外はほぼまともに機能してるんだよな、おれの身体、と汗を拭いながら思う。以前より息が上がりやすい気もするが、肺が侵食されたせいなのか、こんな環境でまともに体調管理できていないせいなのかは分からない。

 右脚の、珪化した部分とまだ侵食されていない生身の部分の境目が、一歩踏み出すたびに痛む。

 さっさと心臓が侵食されて、ころっと逝けちゃえば楽なのにな。


 無心で登り続け、何時間か、何十分なのか、もう時間経過も分からなくなって、ようやく屋上へのドアへ辿り着く。これで開かなかったら絶望するよな、と独りひっそり皮肉気味に笑ってみたが、ノブに手をかけるとあっさりと回った。押せばなんの障害もなく外側へと開いた。


 風が吹き込む。夏の終わりの、ほんのわずか涼しさを感じる風。


 敷居をまたぎ、外へと踏み出す。広々と何もない空間が開けるかと思いきや、少し先にフェンスが張られていて、歩き回れる範囲は限られていた。それでも、頭上には青空が広がり、どこか遠くで鳴いている蝉の声と、さきほどよりよりはっきりと感じる潮の香りが伝わってきた。


 風上の方へ歩く。痛む右脚を引きずり、屋根の縁のフェンスへと辿り着く。動かせる右手を網目にかける。

 隙間から目を凝らせば、ビルとビルの間にほんの少しだけ、海が見えた。親指と人差指でつまむような動作をする。三センチほどか。


「……たしかにこれっぽっちじゃ、どこの国でも変わんないね」


 何ヶ月も前に聞いたシイヅカの言葉に、独り返事をする。

 応えはない。

 ハロルドはフェンスに額を押し当てる。声に出さず、ひっそりと泣く。

 これっぽっちでもお前と一緒に見たかったな。別に海なんてどうでもよかった。お前と一緒にいられればそれでいいんだ。


「……独りは嫌だよ、シイヅカ……」


 ハロルドは崩れ落ちる。慟哭する。

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