第7話
「あれ、グレン。珍しく直帰すんのか?」
「やっと自転車が修理から帰ってきたから早めに塾行って自習でもしてようかなと思って」
「まじめなこった。俺も早く帰ってゲームの続きでもするかな」
そんな他愛のない会話をして教室を後にした。
塾に行くのはあの夏休み最後の日以来だ。
俺の通っている塾は、歩いて一時間くらいかかる距離にある。そのため同じ塾に通ってる奴はだいたい親に送ってもらっているのだが、うちの親はそんなことなどしてくれず、いつも自転車で通っていた。
あの日は自転車が修理に出ていたため、歩いて行ったが毎回往復二時間かけてなど行きたくなかったので、最近は休んでいた。昨日、自転車が修理から帰ってきたので、今日からまた再開だ。
久々に行った塾だが、特に特筆するようなことはなく、十九時過ぎには塾を出て帰路についた。
見上げるとあの日と同じように月が顔を出していた。違うのは、まんまるではなくかけているところだろうか。
なんとなく自転車に乗っているのがもったいなく感じて、途中から自転車を引いて帰ることにした。
自転車を漕いで火照った体にあの日に比べて涼しくなった風が心地いい。天気は悪くないが、さすがに星が見えるほど暗くはない。そんな空の下、街灯の並んだ道をダラダラと歩いて帰る。
塾からの帰り道は大通りじゃなく寂れた住宅街なので、歩いている人は少ない。おかげでからからと自転車のタイヤが回る音だけがむなしく響いている。
少しだけあの日と同じように柊と出会うことを期待してしまうが、さすがにそんなことは期待するだけ無駄だろう。
「————紅君」
くぐもった声が人のいない住宅街に響いた。
少しだけ期待を込めて振り返ると、立っていたのは柊ではなかった。
そこにいたのは鬼。正確には鬼の仮面をつけた背の高い細身の人物だった。
住宅街にはほかに人影はなく、この鬼が俺を呼んだことは疑いようがなかった。
「こんにちは。紅蓮君。————私は君を迎えに来ました」
くぐもった加工したような声で鬼はそう告げた。
何を言っているか理解はできなかったが、やはりこいつの狙いは俺のようだった。
冷静に、できるだけ冷静に。こういう時冷静さを失う方が危ないと聞いたことがあった。ゆっくりと自転車を反転させ、危なくなったらいつでもぶつけて逃げられるように準備だけしておく。
「……俺に何の用だ」
ハンドルを握る手が汗で湿る。
「今言ったじゃないですか。あなたを迎えに来たって。私は、あなたの力が欲しいんです」
「……力?何のことだ?」
「————炎。出せますよね」
仮面の奥で鬼は笑った。表情は見えなくても、声の弾みでそれくらいはわかる。その不気味さに手だけじゃなく、背中も汗が濡らしていく。
こいつは俺が指先から炎を出せることを知っている。だけど、それで俺が狙われるなんて妙な話だ。俺が出せるのはせいぜいライターの代わりになるくらいの炎だ。そんな力が何になるっていうんだ。
「これのことか?こんなしょうもない力が欲しいのか。変わってるな、あんた」
左手をハンドルから離して指先から炎を出す。それを見て、鬼はまた笑ったように感じた。
「その力です。————私と同じ、『異能の力』。さあ、あなたもこれを飲んでその力の神髄を手にするのです」
鬼は懐から透明なケースを取り出した。その中にはタブレット状の錠剤が大量に入っているようだった。それを見た瞬間、本能がヤバいと危険信号を発した。
構えていた自転車を思いきり鬼の方へ転がして、ぶつかったのも確認せずに反転、全速力でその場から逃げた。
「はあ、はあ、はあはあ」
勢いのままに走り続け、体力が尽きる寸前で近くの路地裏に逃げ込んだ。
あの鬼がどこまで追ってきているかわからないが、名前がばれている以上、変に動かず体力が回復してから交番やなんかの信用の出来る大人がいるところへ移動しよう。最悪、人のいるところならコンビニでもいい。あれだけ目立つ格好で人の多いところまでは追ってはこないはずだ。
「————ひどいじゃないか。そんなに逃げられたら」
「うわあああ」
鬼は気配もなく、俺のいた路地裏に現れた。
驚きのあまり、隠れていた場所から飛び出し、道路の方へと転がり出た。
「あまり手荒な真似はしたくなかったんだが、しかたがない」
鬼が路地裏から姿を現すと同時に、周囲を白い煙が漂い始めた。明らかに異様な雰囲気だ。夏の夜に比べて涼しくなったとはいえ、気温は二十度以上は確実にあるはずだ。……なのに、自然と体が震えてくるほど寒い。恐怖ではなく、周囲に漂う冷気が俺を震わせている。
この場を離れないとまずい。体力は回復していないが、まだダッシュできるだけの余力は残っている。手遅れになる前に逃げないと。
足に力を入れた瞬間、違和感に気付いた。————足の感覚がない。
はっとなり自分の足を確認すると、両足ががっちりと凍り付いていた。無理やり動かそうと力を入れてもピクリとも動かず、走ることどころか立ち上がることすらままならない。
なんで、という思考の前に、この鬼の正体に思い当たった。こいつは————
「氷結鬼」
二学期の最初に田中(仮)と話をしていたあの氷結鬼に間違いないだろう。
完全に他人事だと思っていたがまさか次の犠牲者が俺になるなんて。こんなことなら塾なんて行くんじゃなかった。それ以上に————告白しておけばよかったな。
「さあ、口を開くんだ。君が本物なら、これで覚醒できるはずだ」
ゆっくりと動けない俺のところに氷結鬼がやってくる。手にはあのヤバそうなタブレットが握られている。このままアレを飲ませる気だろう。効力もわからないものを飲まされるのは嫌だが、気が付いた時には手も凍らされていたので、抵抗のしようもない。
鬼の手が伸びてくる。絶体絶命どころかもうほぼ死んでいる。————そんな刹那
「————やっと見つけた」
どこからか聞こえた声とともに、俺と鬼の間に一瞬で氷の壁が出来上がった。
「またお前か!邪魔するな!」
先ほどまで冷静な口調だった鬼が感情を荒げている。同じ氷でも、この氷の壁は俺を守ってくれたみたいに見えた。
「グレン君、早く逃げなさい」
聞き覚えのある声が聞こえた。
いつのまにか両手足を凍らせていた氷は解けて消えていた。氷結鬼についても俺の方には目もくれず、声の主との戦闘に入ったみたいだった。
状況はまだ飲み込み切れていないが、言われた通りにしよう。あの声の主がいうなら無条件で信用ができる。
お礼くらい言いたかったがそれでまた氷結鬼がこちらに意識を向けたら迷惑が掛かってしまう。
(よくわかんないけどありがとう、柊)
心の中で感謝の言葉を口にして、全速力でその場から逃走した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます