買い物

「姉さん、ちょっといい?」


 恵美の部屋の前で、グレイシーは軽くドアをノックした。数秒の沈黙の後、扉がそっと開く。


「……なによ、気持ち悪いわね。アンタが姉さんなんて言ったの何年ぶりよ」

「え、あ……そ、そうだったかな」


 中学に上がった頃から、純は姉のことを「恵美」と呼び捨てにしていた。その他「お前」「おい」など、まともに呼んだことがない。もっとも、恵美も「デブ」とか「豚」とか好き勝手呼んでいたのだから、お互い様といえる。

 思春期にありがちな兄弟に対する態度とも言えたが、純が引きこもりになった頃から、それまで仲が良かった二人の関係がこじれたことも原因の一つだった。


「……で、なによ?」

「あ、うん。ちょっと出かけたいんだけど、なんかズボンがこんなのしかなくて……」


 恵美が視線を下に落とすと、ジャージの膝を無理矢理切り取ったようなハーフパンツ姿だった。先日は学校の制服姿だったので、普通に校則どおりのズボンをはいていたが、それは普段着ではない。そして、制服以外は、すべてこんな感じのヨレヨレパンツしかなかった。


「そうね、でも、アンタいつもそれで出かけてたじゃない? コンビニかその辺に行くんでしょ?」

「ええっ、こんな格好で!? あっ、いや、その……服、そう、服とか買いに行きたくて。他にも用事もあって、ちょっと街中に行くから、ちょっと」

「ふうん、どんな心境の変化かしら……ん? そういえば、ズボンならアンタ持ってたわよ、たしか一昨年のキャンプの時に着てたなんかこう作業着みたいな、あの時も相当太ってたし、あれ着れるんじゃないの?」

「作業着? ちょっと、なによ、持ってるって……え? 知らない? なんで……」


 姉の指摘に、グレイシーはとっさに後ろを向いてぼそぼそと独り言を始めた。恵美が怪訝そうな顔で覗き込んできたので、中腰になっていた姿勢をシャキッと正して笑ってごまかした。


「……季節違いや、普段着ない服は母さんが衣装箱にしまってるはずよ」


 ため息をついて、恵美が「しょうがないわね」と、向かいにある純の部屋に遠慮なく入っていった。


「あら? なんだか片付いているわね。この間まで足の踏み場もなかったのに」


 グレイシーは心の中で叫んだ。


 ――それは、恐ろしい物をうっかり踏みそうになったからですわ! 他にも、とんでもないものがいくつも! 言葉に表せないような、青だか黒とかに変色したパンとか……。


 そうして恵美の言う通り、クローゼットの上にしまってあった衣装箱には特大サイズのカーゴパンツが入っていた。ジーンズのような生地なのに、薄くて伸縮性があり、履きやすく動きやすそうなものだった。ここ数日の節制した生活で少し体重を落とした純だったが、それでもこれを着用した二年前より太っていたのか、少しきついと感じた。

 伸びる生地じゃなかったら危ないところだった。なんとかズボンのホックを止めたグレイシーは一息ついた。


「買い物行くって?」


 衣装箱を棚に戻しつつ、恵美がそう聞いた。


 実はあの日に着ていた制服には、擦り切れや、破れたか所があり、一着、新調するようにと母親からお金をもらっていたのだ。他にも服が欲しかったら買ってもいいと少し余分に貰ったので、今回の買い物イベントとなったわけだ。


「じゃあ、私もついて行ってあげるわ」


 あまりにも自然の流れだったので、普通に頷きそうになって「えっ?!」と思わず聞き返してしまった。ちなみに、純本人も盛大に「は!?」と叫んでいた。

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