転落

 グレイシーは、休憩室まで速足で歩いた。

 

 ――あそこまでアホだとは思いませんでしたわ。とはいえ、陛下の許しもなく婚約破棄など出来ようはずもないのですから、父から正式に申し出てもらいましょう。


「ああ、もう足が痛い! こんなに高いヒールなど履いてくるのではなかったわ」


 仮にも卒業パーティ、それと同時に大変だったお妃修業も終わった。

 我ながら情けなくなるが、ちょっとだけ楽しみにしていたグレイシーだった。幼い頃から決められていた婚約。あんなアホでも、かつてはそこそこ優しく、王太子らしくりりしいところもあったのだ。

 なによりイケメンだったので、子供の頃にはほのかな恋心もあった。


 ――だんだん正体がわかって冷めてはいきましたが、それでも!


 この結婚は、恋だ、愛だ、だけではない。すで心はなく、貴族の令嬢としての役割なのだと思っていた。そう、割り切っていたはずだった。


 ――そうはいっても、それなりにショックは受けるものですわね。


 未練などバカバカしいと思いつつも、共に過ごした幼い頃の記憶は、なぜか時とともに美化されがちである。グレイシーの公爵家は、政治面では冷遇されてはいたものの、幾度か国家の財政を救ったことがあり、そのたびに王宮へ招待された。アホ王子はもちろん、弟王子たちとも一緒に遊んだ記憶があった。


 ――あら、そういえば幼い頃はどちらかというと、第三王子と遊ぶことが多かった気がしますわね。母の身分が低かったせいで、つまはじきにされて……わたくしの家も貴族からそういう扱いだったから、親近感が湧いたのを覚えていますわ。


 そこまで考えて、はて? と首を傾げた。


 ――あれは、どちらのセリフだったかしら?


 その時、グレイシーはかなり上の空だった。いつもなら、どんな災難に遭遇しても対処できるように注意を払い、実際に、これまではすべてを倍返ししてきた。

 そう、悪役令嬢と言われた所業の数々は、確かにグレイシーが行ったことだが、これまで自発的に仕掛けたことなど一度もなかったのだ。ただ彼女は、かわしてきただけだ。

 彼女に対する不当な言動にも、そしてあらゆる嫌がらせにも。けれど、一度の油断が取り返しのつかないことになってしまった。

 どうにも靴擦れ痛くて、無意識に傷を見ようと前かがみになった時だった。

 ドンッと背中を押された。


「…………え?」


 口から洩れた小さな疑問符とともに、グレイシーの身体は宙に舞った。

 そこは、大きくカーブした大階段の踊り場だったのだ。

 最後に一瞬だけ見えたのは、誰かのドレスの裾の一部……そして、別の方向からは、自分の名を叫ぶ男の人の声が聞こえた。

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