吉崎大(2)

 葛飾区 亀有


 吉崎大は本当に日常の中を過ごしている。

 ただしで。

 狂っているなんて、彼には感じられないのだ。

 全てがいつも通り。


 いつも通り。いつも通りだから、壊されたくない。

 僕は普通だ。僕は正常なんだ。

 こんなありふれた日常のどこが異常なんだ。


 ——彼は、揺籠の中で揺蕩う。

 森が造った幻惑の中で静かにそれを肯定しようとしている。 


 僕はおかしくない。

 異常なのは、お前らなんだ。

 

 左腕がビキリと音を立てる。

 が覚醒する。

 黒い靄が左半身から噴き上がる。

 

 「僕は普通だ。普通で普通で普通なんだ。なんの取り柄もない、ただの人間だ」

 

 黒い靄は吉崎の体の中に入り込み、暗黒の刺青として皮膚に絡みついていく。

 背中で黒い双頭の鷲が翼を広げる。

 四肢や背中の至る所に伸び上がる蔦。


 ふと、外から敵意を察知する。


 同時に吉崎の纏う靄は迎撃を開始する。


 彼の手には黒い靄と大小様々な骨や筋肉で生成された弓。

 ゴポリと自分のはらわたから肋骨を一本、弓に番える。

「wrrrrrrrrrrrr…………」

 肋骨は黒い靄を纏い、その中から白い矢がまろび出る。


 その矢の輝きは骨であるのにも拘らず、まるで鉄鋼のように鋭く光を跳ね返していた。


 ギチギチと軋むまで弦を引く。 

「wrrrrrrraaaaaaaaaa!!!!」

 弦を離すと、衝撃波とともに放たれる超高速の矢。


 彼の持つ膂力がただの矢をまるで電磁砲レールガンの威力にまで昇華させていた。 


 耳をつんざくほどに轟く爆音。

 煙が晴れ、月光の下に晒されたのはビルの壁に突き刺さった大きな黒い虫。

 頭部と胴体の隙間に槍を穿たれた黒い鎧のカブトムシ。

 ジジジと、断末魔めいた鳴き声を上げているが、動かない。

 もはや単なる死骸となったそれは、ピクピクと小刻みに震えている。


 僕——あるいは僕の中に棲みついた影——は、それを静かに眺めていた。

 

 僕は樹海の焼け跡に立っていた。

 生い茂っていた木々は焼けて、灰が舞っている。

 焦げた臭いと土と雑草の匂いが混じる。

 不思議と不快ではない。


 夜空を見上げると、月光がまるで太陽のように夜空に燦々と輝いている。

 黒いキャンバスの上に散りばめられた星は煌いて。


 見上げた自分が吸い込まれそうなほどに広がっている。

 ああ、なんて綺麗なんだ。

 なんて——美しいんだ。


 黒い靄の中で露わになった右目に夜空の輝きを映している。

 言い表す事の出来ない美しさが、この世界にまだ遺っている。

 僕の日常の中に現れた神秘。

 それは僕の心を揺さぶるほどに綺麗だった。

 闇の中に描かれた絵画に身体を蝕む痛みが溶けていく。


 欠ける事のない望月は、平等に樹海を照らす。

 平等に人を、獣を照らす。


 ただ、月下の黒い影は祝福されたにもかかわらず、眩い光に照らされながら焦土の上で呆然と立っているのみだった。

 

———繰り返すが、吉崎大はの中で日常を繰り返している。


 例え、葛飾区の35%を彼が生成した森林で侵蝕していたとしても。


 


 

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