未だ暁は遠きにありて

AsH

未だ暁は遠きにありて

 黒が浸食し始めた金髪の向こうに、夜より深い瞳が見える。

 この5畳のアパートが、今の私のすべてだった。

 ここには全てがあった。塩辛いジャンクフード、度数低めの甘い酒、固めのシングルベッド、全部忘れられる気持ちいいセックス。あとは隣でタバコを吹かす顔のいい女。

 大学に進学してもうすぐ二年。けれどこの数か月はこうして寝転がってそいつの顔を眺めている。

「それ、もらっていい」

「だめ。まだ二十歳なってないっしょ……熱っ」

「仰向けで吸うからじゃん」

 笑う。一瞬。ふと闇が来る。体温が欲しくて、そいつの腕に顔をうずめる。

 このところずっと夜が続いている。外では毎日規則正しく日が昇って沈んでを繰り返し、それに合わせて私も起きて、大学に行って、至極まともでいるはずなのに。

 それもこれも、全部こいつと出会ってからだ。

「もっかいする?」

 埃まみれのこの部屋で、唯一綺麗なままでいるレフティのフェンダー・ジャガーが目に入った。弦は銀色、外の光を反射して、まるで蜘蛛の糸みたいだった。

 答えずにそいつの唇を噛む。甘いバニラの煙の匂いと、濃い人間の味がした。


 こいつに出会ったのは大学入学初日だった。親に美大を拒否され無理矢理入れられた地方の国公立大学。学生課主催のオープンな新歓が終わりシームレスに始まったサークル勧誘をすり抜けてアパートに戻ろうとした時、植え込みに落ちている女がいた。シャツ一枚にトゲ付の痛そうな革ジャンを布団のようにして、整えられた木々にゲロを巻きちらしたまま倒れているその様は完全に事件現場。絶対関わりたくない。そっと立ち去ろうとした時、目が合ってしまった。

「後でうちのバンド演奏するんだ。良かったら来てよ」

 Roostar。おんどり。夜明けを告げる叫びの主。そいつのバンドの名前。

 澄んだ声だった。その姿とはあまりに不釣り合いな声は、確かにその細い喉から発せられていた。そしてそれとはあまりに対照的な、果てを見つめる黒い瞳に、私は憧れた。

 1時間後、そいつは爆音を撒き散らしステージでウイスキーをかっ食らいぶっ倒れ大学の職員に引きずられて退場していった。

 眩しかった。一瞬、そこは彼女の世界だった。

 人工の金色の髪の奥、大きくて真っ黒な瞳に、私は釘付けになった。

 あの目は、光を夢に奪われた者の目だ。光を掴むことしか見えない者の目だ。

 その日、私は部屋に戻ってから大学生になって一枚目の絵を描き始めた。一か月、GWも返上して齧りつくように描いた。そのモデルがこの4年制大学で有名なイカれ6年生だと知ったのは、その絵がささやかな賞を取った後のことだ。


 ずっと好きな人がいた。女の子。笑顔が上手で、私のことを見てくれて、12年間私のたった一人の友達だった。私のことを知っていて、多分、私の好意も知っていて、それでも友達として接してくれていた。電話をかけようとする度心拍数が上がった。けれどその年の冬、年末に会おうと電話をかける時、何も感じない自分がいた。

 合わなくなった眼鏡を変えた。リム太め、赤。かけている実感のある、少し重めのやつにした。

 その帰り、久しぶりに街に出て、眼鏡を外してみた。世界の輪郭がぼやけて、全部がひとつになっていく。私はこの景色が好きだ。何もかもから境界線が取り払われた世界。カタチが意味を失くしたわけのわからない現代美術の世界。

「あれ? あの時の子じゃん」

 その世界に実像が結ばれる。それは眼前に迫った金髪の女。眼鏡をかける。あの日のバンド女。その後ろには数人の男女。

「暇?」

 頷いてしまった。

「ならおいで、うちらのホーム。すぐそこだから」

 その日、初めてライブハウスに行った。その日、初めて女の人とセックスをした。

 それから数か月、その女が蒸発するまでそいつの家に入り浸った。そいつは一日中ギターを弾いていた。


 私の承認欲求の受け皿に穴が空いているのは自分でも分かっていた。何をしても絶対に満たされない。だから無限に流し込まなければ壊れてしまう。

 セックスが肉体接触に対する承認なら、これほどコスパのいいものはない。触れるだけで、触れてもらえるだけで、インスタントに欲求を満たせる。だから私はハマっていった。絵も、授業以外で描かなくなっていった。

 だから朝起きてそいつがいなくなっていた日、私は何もなくなった。『アメリカ行ってツアーやる』メモがドアに貼られていた。


 その年の秋、街でボロボロになったそいつを拾った。ギター一本背負って駅の前に立ち、ずっと鳩を眺めていた。大学は除籍されていて、アパートも引き払われていたから、私の部屋に入れた。それから年が明けて、今。春が近づき埃っぽい大気のにおいが鼻につく夜。

「海、行こっか」

 あの日から変わらない声で、そいつはそう行った。


 アパートから海まではそう遠くない。徒歩で30分も歩けばすぐに太平洋だ。薄手のカーディガンを一枚羽織って、私は夜に出た。街灯と虫と風と薄い霧。それと足音。それだけの世界。

 生ぬるい風が潮のにおいを運んでくる。いつの間にか街灯すらなくなって、星明りと隣の体温だけを頼りに歩く。


 海の音がした。


 そこに、海はあった。


 コンクリの防波堤をおっかなびっくり歩いて、その端に二人して腰掛ける。真っ暗で海なんて見えない。自分すらも見えない暗闇。している意味もないかと、眼鏡を外す。いつの間にか星も見えなくなっていた。


 ざざあん、ざざあん、ざん


 波の音が聴こえる。


 ざざん、ざざあん、ざざん


 ただそこに海があることを主張している。


「なんで、あたしを拾ってくれたの」

 右から声が聴こえる。

「あんな風な別れ方したのに」

 綺麗な声が訊ねてくる。沈黙。

「ずるいと思ったから」

 あんなに眩しくて、あんなに激しく生きていたお前が、全てやりきったみたいな顔して、憑き物が落ちたみたいに立ってたから。私にできない生き方をやめようとしていたから。だったらせめてその最後を見てやろうと思ったから。

 嘘だ。本気になれない自分を、本気で生きている人の隣にいることで見ないようにしたかったからだ。

「逆に、なんで私に声かけたの」

「……顔」

「は?」

「顔、めちゃくちゃ好みだったし」

「はあ?」

「あと、あの絵、アレ描いたやつのこと、知りたかった」

 風が止んだ。真っすぐ声が届いた。

 ターボライターの音がした。オレンジの光が隣の女の顔を照らす。金髪がきらきらと光る。少し遅れて甘いバニラの香りがした。

「くださいよ、それ」

「お前まだ」

「今日、誕生日。20なったよ」

 一本受け取る。軽い筒。

「ほれ」

 暗闇に赤い光が浮かんでいる。

「それ咥えて、先っぽこの燃えてるとこに当てて息吸うの」

「ライターは」

「いーからやってみ」

 言われる通り、タバコの先をくっつける。普段のキスより数千倍恥ずかしかったけどそっと息を吸い、盛大にむせた。

「まっずいでしょ、シガーキス」

「知ってたの……てかバニラの匂い全然しない」

「アレ自分じゃ分かんないんだよね。苦い煙の味だけ」

 手の込んだ自殺だよ。そういって彼女は途中で買った缶コーヒーの中にそれを放り込んだ。ジジ、と火の音がした。

「あの絵さ、すげー怖かった。あたしの中身全部引きずりだされたみたいで」

「ただの人物画だよ」

「ううん、怖かった。そんなにあたし怖かった?」

「全然」

 なにそれ、と彼女が笑う。

「そうだ、名前、何て言うんだっけ」

「私? 常夜。東 常夜。Roostarの戸張さんは何て名前だっけ?」

「知ってんじゃん」

「有名人だったから」

「白夜」

 戸張 白夜。彼女の名前を反芻する。わたしたちは互いに名乗ることがなかった。互いの魂を知っていたから。互いの名を呼ぶことがなかった。私たちの時間は、私たちだけの時間だったから。

「常夜。あたしね、もう一回音楽、やろうと思う」

「知ってる。ずっとやってたじゃん」

 彼女の硬質化した指先を、私はよく知っている。アメリカツアーがどうなったか、その真相は知らないけれど、それでも戦い続けようとしたことは確信できる。

「けどさ、これが最後。もう26だし」

「だめだったら……」

「知らない。そんときゃあたしがあたしじゃなくなるだけ。だけど今のままじゃ、何にもならずに消えちゃうから、もう一回だけ」

 27クラブなんて時代遅れの妄執に取りつかれているのかと一瞬過ったが、そのやり方が彼女の、戸張白夜の生き方なんだろう。

「だから」

 顔は見えない。けれど今彼女は笑っている。

「夜」

 隣の彼女が立ち上がり、大きく息を吸い、

「明けろおぉおお゛お゛お゛おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉl!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!げほッゲッガふッ……ゲほッ……」

 叫んだ。喉のことなんて考えずに。お世辞にも綺麗とは言えない声で叫んだ。

「……ゲホッ……んン……ははっ……全ッ然明けねーや、夜」

 雲の切れ間から星明りが差し込む。金色の前髪の奥、真っ黒な瞳が潤んで見えた。だから、私も。

「明けろお゛お゛お゛おおおッ……ゲエッホ……ゲホ……」

 一瞬でむせた。かっこがつかない。白夜が笑っている。綺麗だと思った。かっこいいと思った。そうありたいと思った。そう思わせるものを創りたいと思った。

 この人は、自分の夜を明けさせることのできる人だ。

 知っていた。私が大学に行っている間、自分の絵から逃げていた間、彼女がずっとギターを弾いていたことを。なあなあで生きていた私と違い、爪を研ぎ続けていたことを。

 拘るのをやめること。それが私を夜にした。拘り続け、進み続けること。それだけがこの夜を終わらせられる。


 だから彼女の瞳が好きだった。夜を終わらせる人の目だったから。

 けれど自分の夜は、自分にしか終わらせられない。


「5月17日。Roostar復活ライブ。来る?」

「行けません。描きたいもの、見つかったから」

「そうだね。じゃあ、ここで」

 だから私たちは別の道を進む。二人の線は離れていく。またいつか交わる日が来るかどうかは、まだ分からない。今することは、祈ることではない。

 私は私の夜を終わらせる。

 夜の先へ、一人で進む。

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