第36話 落下


 目を開くと俺は屋上にいた。


「もし、奇跡的に目があったら……」


 ビオリちゃんの声が近くから聞こえて、俺は後ろを振り返った。屋上には誰もいない。

 俺以外に人はいない。

 しかし、またビオリちゃんの声が近くから聞こえてきた。


「そう思って話すことにしますね」


 ビオリちゃんは一度呼吸を整えた。

 その時ようやく分かった。

 ビオリちゃんの声は近くから聞こえているわけではなく「俺自身がビオリちゃんの声を出している」ということに。

 足元を見ると、スカートとローファーのつま先が見えた。目の前には柵がある。


「ミライくんが何か企んでるって、私気づいたんです。たぶん、ショウさんのことを殺したのはミライくんです。でも、彼は私達のことは殺さないみたいだから……」


 俺が動かせるのは視線だけみたいだった。奇妙なことに首が回っているわけないのに三百六十度見渡せる。

 きっと俺は夢を見ているのだろう。自分では思い通りにできない夢の中。視線は動かせるのに、柵へと向かう足を止めることはできない。


「だって、おかしいじゃないですか……。心臓も止まっていて、喉も渇かないのに、トイレに行きたいなんて……そんな人間らしいこと、私達はしなくてもいいのに」


 俺はミライくんがトイレに入った後、ビオリちゃんが考え事をしているのを見た。彼女はあの時、何か言いかけたが、その時、俺達のことを見つけたショウさんによって、最後まで聞くことができなかった。

 きっと彼女の話を改めて聞いていたら、ミライくんが怪しいということをもっと早く俺達は分かっていただろう。

 しかし、そうなると、ビオリちゃんはどうして、ミライくんが怪しいと思っていながら、わざわざショウさんが死んだことをもう一度きちんと調べようと言い出したんだ。

 ミライくんのことを怪しんでいたのなら、最初からミライくんに直接、どうしてトイレに行ったのか聞けばよかったのに。

 彼の性格からして、聞かれたら素直に答えるだろう。


「でも、もういいんです。ミライくんはアナイさんに懐いているから、アナイさんが殺されることはないと思います。私はそうです。アナイさんのこともミライくんのことも殺すつもりはありません」


 先ほどのビオリちゃんの行動を思い出す。

 彼女はミライくんの胸に深々と包丁を突き刺した後、彼の身体を踏んで、容赦なく包丁を抜いた。

 しかし、今の彼女の言葉が嘘とは思えない。


「でも、頭の隅にちらつくんです。学校関係者全員に復讐できる夢のような切符が手に届く位置にある。もし、私達三人だけになったら、私のことを警戒していないミライくんとアナイさんのことを殺すのは簡単だって」


 彼女は柵を両手で彼女は握ると絞り出すように言葉を口にした。


「私、アナイさんとミライくんのことを殺そうなんて考える自分が一番嫌いです。二人は私のことを一度も傷つけなかったのに、アナイさんはあんなに優しいのに、私はこんなに自己中心的で」


 彼女の顔は見えなかった。

 これはきっと彼女の怪談としての力なのだろう、とようやく俺は腑に落ちた。

 彼女の怪談は、自分が飛び降りる場面を夢で見せるというものだった。

 俺は彼女の行動を追体験している。

 だから、今の俺に彼女の表情は見えない。彼女の行動を止めることもできない。彼女に言葉を返すこともできない。

 俺はただ、この後起こる事を止めることもできずに体験することだけだ。


「だから、残り三人になる前に消えることにしました……。悲しまないでください。私なんかのために。アナイさんは優しいから私のこともミライくんのことも救おうとしますけど、私にそんな価値ないんです。たぶん、ミライくんも別に自分にそんな価値があると思ってないです」


 ビオリちゃんは、空を見上げた。

 意識して他の場所を見ようと思わなければ、彼女と同じ方向を見ることになる。

 彼女が見上げた空には、星が広がっていた。


「きれいだなぁ……」


 彼女は肺に溜まった息を吐きだした。

 ゆっくりと吐き出した息はだんだんと震えてきた。


「いやだなぁ……やっと、優しくされたのに……死ぬの、やだなぁ……」


 柵を掴んだ両手に力がこめられ、彼女はゆっくりと慎重に、柵を超えた。

 一歩踏み出せば、床もない宙だ。

 眼下の教室には灯りがついていた。その灯りが漏れていたのは二階だった。


「短い間ですが、お世話になりました。さようなら」


 一歩。


 ローファーを履いたまま、彼女は足を踏み出すと同時に柵から手を離した。


 頭から落下していく一瞬。

 灯りが漏れている図書室の窓越しに、席についてぼーっとしている俺と目が合った。

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