第20話 呪い


 名前を呼ばれた気がした。

 うつらうつらと目を開けると、そこには白いシーツがあった。

 白い床に白い壁に、白いシーツをかけて、ベッドに横たわっている女性がそこにはいた。肩口までの黒髪。日光を浴びたことがない白い肌。


「もう……また私なんかのところに来て。仕事はいいの?」

「自分のこと、なんかなんて言うなよ」


 自然と口をついて言葉が出てくる。きっと俺がなにも考えなくても、この口は動くんだろう。

 どうやら、ベッド横に置いた椅子に座っていた俺は座ったままうたた寝をしていたらしい。俺の名前を呼んでいた女性は俺の顔を見たまま、目を細めた。


「あのね、聞いてほしいことがあるの」

「なに?」


「私がいなくなっても、幸せになってね」

「……」


「私の代わりに美味しいものたくさん食べて、私の代わりにいろんなところに行って、私の代わりにたくさん綺麗なものを見て、私の代わりに家族を作って、子供も作って、孫も可愛がって、たくさんの人に囲まれて、幸せになってから大往生してね」


 彼女のことは思い出せない。

 でも、彼女がひどく残酷なことを俺にお願いしていることだけは分かった。


「それって、君以外の女性と付き合えってこと?」


 俺の声は、怒っていた。いや、少し震えていた。女性は悲しそうに眉尻を下げた。わざわざ口に出すようなことではない。

 この女性の代わりに家族を作れということは、彼女はもう家族を作れるほどの時間が残されていないことになる。そして、きっと俺と彼女は、家族ではない。血は繋がっていない、それでも何度もお見舞いのために病院に来るような存在だ。


 彼女は俺の恋人だ。

 俺は思わず、彼女の顔を直視できなくて、俯いた。


「……無理だよ」


 衣擦れの音がする。

 膝の上に置いた俺の握った拳に彼女の細く白い指が置かれる。その手は心配になるほど冷たい。とっさに彼女のその手を両手で包んだ。俺の体温を奪っても、彼女の手の冷たさは変わらない。


「私、強欲だからさ。死んでもきっと朋広と一緒にいると思うの。だから、朋広は私におんなじような体験をさせてるんだと思って生きて」

「なんだよ、それ……」


 彼女は上半身を起こして、くすくすと肩を震わせて笑った。彼女の後ろにある窓には若々しい緑があり、差し込む光はこんなにも生命力に満ちているのに。

 それらを背後にしている女性はあまりにも今すぐ消えてしまいそうだった。


「これはお願いじゃないの」


 命令だとでも言うのだろうか。

 君が死んだら、俺が君の言う通りに生きているなんて、君には確認できっこないのに。

 口元に笑みを浮かべる彼女はガラス細工のようだった。


「死んでしまう私からの精一杯の呪い」


 命令ではなく呪いなら、きっと本当に彼女は俺に呪いをかけたんだろう。彼女は肩口まで伸ばした黒い髪を揺らして、少しだけ首を傾げて俺に笑いかけた。


「ね、呪いかけたから、ちゃんと叶えてね」

「……うん、長生きする」


 俺は知ってる。

 俺は死ぬ。大往生なんてもってのほか。

 二十七歳で、小学校の裏の山で。

 自殺か事故かは分からない。

 ただ分かるのは、俺が彼女の呪いを無視して、勝手に死んだことだけだ。

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