第17話 開いていた扉


 屋上へは図工室などがある校舎の端の階段を立ち止まらずに一階から三階まで上がって、さらに三階から上の踊り場に行き、屋上への扉を開けるだけだった。

 拍子抜けなことに、屋上の扉に鍵はかかっていなかった。

 職員室で屋上の鍵を拝借したのに、借りた意味はなかったらしい。


 そういえば、理科室に逃げ込んだり、コンピュータ室で調べ物をしたりした時にも鍵がかかっていなかった。小学校から人がいなくなる時に教員が全ての教室に鍵をかけるかどうかは分からないが、どこにも鍵がかかっていないのはおかしい。

 きっとコクリさんの仕業だろう。


 屋上の扉を開けると生温い風が頬を撫でた。

 寝苦しさをもたらす風の感覚も、外の湿った土の香りも分かるのに、自分の心臓の音だけしない。


「屋上にはなにもないね!」


 扉を開けた途端、屋上に走り出たミライくんがこちらを振り返った。屋上に人影がないのは誰が見ても明らかだ。もしかしたら、入り口部分の上に人が隠れている可能性もあるが、屋上で人を待ち伏せしていても人が来る可能性は少ないからありえないだろう。

 そう思いながらも扉の上の貯水槽を俺は振り返り、見上げた。誰かが潜んでいる様子はない。

 屋上は柵で囲まれている以外に物はない。この様子だと怪談や俺達自身に関する情報もないだろう。


「ありませんね……」

「怪談の由来の場所に情報があるわけじゃないということか……」


 情報は見つけてもらわないと意味がない。だから、コクリさんは情報を見つけやすくしているだろう。それなら、屋上を一目見て分からない場所に情報を置くわけがない。こうなってしまえば、ショウさんについての情報は学校内をしらみつぶしに探すしかなくなってしまう。


「僕、屋上に上るの初めて!」

「へぇ、そうなんだ」


 初めての場所に来て高揚しているのかミライくんは屋上を走り回る。くるりと一回転してみせる彼の入院服が風に揺れた。


「病院の屋上は行けなかったんだ~」

「でも、学校の屋上って普通は鍵がかかってるから入れないみたいだよ」

「えっ、そうなの?」


 俺の言葉を聞いて、ミライくんが首を傾げた。その瞳が柵に手を乗せて、暗い空を見上げるビオリちゃんへと向けられる。


「お姉ちゃん?」

「……そうですね。いつもなら扉は開いていないです。いつも鍵がかかっていて、私は何度か扉に手をかけました。その度に途中でドアノブは止まるんです」


 彼女は高校生の頃に飛び降り自殺をした。

 いくら、彼女に由来がある場所といっても、彼女が最後に訪れた場所を想起させるような場所に連れてくるのは軽率だったろうか。


「でも、あの日は違いました」


 その声は子供に読み聞かせをしているみたいだった。


「ドアノブが最後まで回ったんです。扉が開いてしまったんです。どうして鍵がかかっていなかったのかは分かりません。でも、あの日に限って、扉が開いていたんです」


 彼女の淡々と語る心地いい声。生温い風が彼女の黒い髪の先を左右へ弄ぶ。


「毎日確認していたわけじゃないのに、一ヶ月に一度、数週間に一度くらい、たまたま通りがかった時にドアノブを回していただけなのに、あの日だけ、たまたま鍵がかかってなくて、あの日だけ私はいつも以上に逃げたくて、私は屋上に出ました」


 彼女は柵に背を向け、振り返った。


「その時は、こんなに暗くありませんでした。今と違って屋上全体が赤くなってて、私は柵に手をかけて、靴を脱いで、そのまま飛び降りました。不思議と涙は出ませんでした」


 俺もミライくんも彼女がどうして死んだのかを質問していない。それでも、彼女は語った。

 ミライくんもビオリちゃんも自分がどのような怪談か覚えていると言っていた。それは同時に自分がどのように死んだのか覚えているということだった。

 俺は二人のことを守りたいと思っている。それは身体だけのことじゃない。できれば、心もだ。できるだけ二人には傷ついてほしくない。

 だから、死んだ時のことは聞かないようにしてきた。

 しかし、屋上に来て、自分の死を語る気になったビオリちゃんの言葉を遮るのは、失礼のように思えた。


「私は死んだ後も、毎日のように屋上から落ちるようになりました」


 人は一度死んだら生き返らない。一命を取り留めた後、また飛び降りたわけじゃないだろう。

 彼女は死んだ後も自分の死を繰り返していた。


「私が死んだのは四時四十四分。その時間、窓の方を見ていると自殺した女子生徒が落ちてくる。落ちる女子生徒と目が合ってしまった人間は、その日、夢の中で女子生徒が死んだ時の夢を見ることになる。夢だと分かっているのに、足は止まらない。どんどん屋上の柵へと進み、靴を脱ぎ、柵に手をかけ、乗り越える。そして、女子生徒が言う。一緒に死にましょう。飛び降りて、ぐしゃっとした音が聞こえて、夢が終わる。私は死後、そう語られるようになりました」


 屋上から落ちる時に目が合った人間に自分の死に際を追体験させる。彼女はそんな怪談だった。

 自分に悪態をついた相手の上に地蔵を落とすことができるジゲンさんと比べると理不尽さはあまりない。いや、ジゲンさんの怪談が理不尽すぎるのだろう。


「どうです? これが私の怪談です」


 彼女が自殺した理由は俺には分からない。そんな個人的なことを数時間前に会ったばかりの俺が聞いていいものではないように思えた。


「お姉ちゃんは死んだ原因になった人に復讐したいの?」


 ミライくんはいつの間にか屋上を走り回るのをやめて、俺の隣に来て、だらりと垂らしていた俺の右手を掴んできた。

 ビオリちゃんが胸の前まであげていた懐中電灯を持っていた手を下ろした。彼女の表情が見えない。


「復讐したいなと思っていた相手に対しては私が死ぬ時の悪夢を見てもらったので、もう充分です」


 懐中電灯の光が消えた。彼女がスイッチを切ったのだろう。


「だから、復讐したい人もいません。人を傷つけることはもうしたくないと思ってるんですよ」


 俺は彼女と一緒の時間を生きたわけではない。生前の彼女と話したことがあるわけでもないし、彼女が死んだ理由も聞いていないし、彼女が悪夢を見せた相手のことは知らない。

 でも、彼女がそんな風に割り切っていないのではないかと一瞬だけ彼女のことを疑った。すぐにその考えは頭を振って、脳みその外へと追い出した。

 俺はミライくんとビオリちゃんのことを裏切らないと決めたのだ。だったら、二人のことを疑うのはやめよう。


「それならよかった」


 俺は笑った。


「復讐はなにも生まないからね」


 我ながら、清々しいほど無責任な言葉だと思った。

 俺は生前の事も死んだ後の事も覚えていないから、復讐する対象が自分にあるかどうかも分からない。だから、こんなことが言えるのだ。

 ビオリちゃんだって、今夜会ったばかりの人にこんな無責任なことを言われたくないだろう。

 彼女は柵から離れて、俺達に近づいた。懐中電灯がついて、彼女の表情が見える。

 彼女は困ったように笑った。


「そうですね。復讐は、なにも生みませんね」


 俺にはそれ以上、なにも言うことができなかった。

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